2016年9月6日、長崎市内観光です。正覚寺下駅より公会堂前まで電車で移動です。
興福寺
「国内最初の黄檗禅宗の唐寺でその由来は古く、中国・明の商人が長崎と行き来を始めた頃に渡来した中国人が、1620年ごろ航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。この時代は、幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎居住の中国人もキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福寺など、つぎつぎと唐寺が建てられたといわれています。日本最古の石橋の眼鏡橋を架設した第ニ代黙子如定、南画の祖と称される第三代の逸然、さらには明の高僧隠元隆琦禅師が住職として興福寺に滞在されたころは、大きな堂宇が建ち並び、全国から僧や善男善女が参集して禅の一大センターとなりました。」
山門(長崎県指定文化財)
『三間三戸八脚の入母屋造単層屋根、総朱丹塗りの豪壮雄大な門、上部の扁額「初登宝地」は隠元禅師の御書。』
大雄宝殿(重要文化財)
「本堂になります。寛永9年(1632)第ニ代黙子如定禅師が建立。元禄2年再建。さらに明治16年再建し現在に至る。中国工匠による純粋の中国建築で、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井など珍しい。桁行三間、梁間四間、一重もこし付、切妻造、本瓦葺。」
鐘鼓楼(長崎県有形文化財)
「寛文3年(1663)の市中大火のあとの元禄4年(1692)再建。2階建て上階は梵鐘を吊り太鼓を置き階下は禅堂とした。」
中島聖堂遺構大学門(長崎県有形文化財)
「儒者向井元升の流れをくむ聖堂。学舎の門で正徳元年(1711)に竣成。昭和34年保存のため興福寺に移築。」
三江会所門(長崎県有形文化財)
「江南・浙江・江西三省出身者が明治初期に設立した集会所。原爆で大破し門だけ遺存。豚よけの高い敷居が中国風。」
唐人さんの寝棺
媽祖堂(長崎県有形文化財)
『寛文10年(1670)の扁額「海天司福主」がある最古の建物。唐船に祀る守護神の媽祖小像を在泊中、安置した。』
旧唐人屋敷門(重要文化財)
「元禄2年(1689)に完成した広大な唐人屋敷に遺存した門を保存のため移築したねの。」
魚板
一覧橋と光永寺の説明書
中島川の鷺
お疲れ様でした。
興福寺
「国内最初の黄檗禅宗の唐寺でその由来は古く、中国・明の商人が長崎と行き来を始めた頃に渡来した中国人が、1620年ごろ航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。この時代は、幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎居住の中国人もキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福寺など、つぎつぎと唐寺が建てられたといわれています。日本最古の石橋の眼鏡橋を架設した第ニ代黙子如定、南画の祖と称される第三代の逸然、さらには明の高僧隠元隆琦禅師が住職として興福寺に滞在されたころは、大きな堂宇が建ち並び、全国から僧や善男善女が参集して禅の一大センターとなりました。」
山門(長崎県指定文化財)
『三間三戸八脚の入母屋造単層屋根、総朱丹塗りの豪壮雄大な門、上部の扁額「初登宝地」は隠元禅師の御書。』
大雄宝殿(重要文化財)
「本堂になります。寛永9年(1632)第ニ代黙子如定禅師が建立。元禄2年再建。さらに明治16年再建し現在に至る。中国工匠による純粋の中国建築で、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井など珍しい。桁行三間、梁間四間、一重もこし付、切妻造、本瓦葺。」
鐘鼓楼(長崎県有形文化財)
「寛文3年(1663)の市中大火のあとの元禄4年(1692)再建。2階建て上階は梵鐘を吊り太鼓を置き階下は禅堂とした。」
中島聖堂遺構大学門(長崎県有形文化財)
「儒者向井元升の流れをくむ聖堂。学舎の門で正徳元年(1711)に竣成。昭和34年保存のため興福寺に移築。」
三江会所門(長崎県有形文化財)
「江南・浙江・江西三省出身者が明治初期に設立した集会所。原爆で大破し門だけ遺存。豚よけの高い敷居が中国風。」
唐人さんの寝棺
媽祖堂(長崎県有形文化財)
『寛文10年(1670)の扁額「海天司福主」がある最古の建物。唐船に祀る守護神の媽祖小像を在泊中、安置した。』
旧唐人屋敷門(重要文化財)
「元禄2年(1689)に完成した広大な唐人屋敷に遺存した門を保存のため移築したねの。」
魚板
一覧橋と光永寺の説明書
中島川の鷺
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