2023年11月19日、お参りしました。
「当社は『明細帳』によると1590(天正18)年蓮馨寺二世然誉文応僧正が紀州熊野本宮大社から勧請したことが始まり、以降、公卿の人々が氏神として崇敬した。地元の方から『おくまんさま』と呼ばれ、親しまれる開運・縁結びの神社です。」
埼玉県川越市連雀町17-1
map
鳥居
社標
手水舎
狛犬
拝殿
本殿
舞殿
社務所
末社・加祐稲荷神社
「新編武蔵風土記稿及び武蔵三芳野名勝図絵に当社の名は記されているが、御由緒は不祥。口碑によれば蓮馨寺開祖以前からあり、この神を帰神したところ、種々の災厄から免れたことから神が祐を加えて下さるということかで加祐という名前を社号に冠し崇め来た。その社号が古旗に書かれているのが残っていたと言われる。そのことから室町時代永禄年間(1558年~1570年)には既に当社は存在していたと推考できる。明治2年蓮馨寺境内より遷座して熊野神社の御末社となった。」
末社・厳島神社
「武蔵三芳野名勝図絵」(享和元年1801年)によれば、その昔は蓮馨寺の南側林中にあったが、当時、秋葉神社の西側に移したと記されている。よって御由緒は不祥であるが、口碑によれば蓮馨寺開祖以前より寶池(熊野神社より蓮馨寺境内にかけてありと)に鎮座していた当社を崇敬し、池名『寶池』を取って寺号となし、寶池院としたと言う。明治2年蓮馨寺境内より遷座して、熊野神社の御末社となった。」
末社・秋葉神社
「新編武蔵風土記(江戸時代文化文政年間)によれば第十代川越藩主秋元喬房氏により、1723(享保8)年に建立。秋元氏が蓮馨寺住僧東誉圓悦なる者に議り、当社安置の地を熊野神社に卜して丘を築き、勧請させた。明治6年に遷座した秋葉山秋葉寺の御本尊様の護神三尺坊はカラス天狗姿で白狐に乗るとされる。」
末社・大鷲神社
「1922(大正11)年南崎玉郡の鷲宮神社の分霊を奉斎したと伝えられている。はじめ熊野神社に合祀されたが、後に流れ造り社殿を建立し遷座祭を執行して末社とした。」
歌碑
むすびの庭
「当社は『明細帳』によると1590(天正18)年蓮馨寺二世然誉文応僧正が紀州熊野本宮大社から勧請したことが始まり、以降、公卿の人々が氏神として崇敬した。地元の方から『おくまんさま』と呼ばれ、親しまれる開運・縁結びの神社です。」
埼玉県川越市連雀町17-1
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鳥居
社標
手水舎
狛犬
拝殿
本殿
舞殿
社務所
末社・加祐稲荷神社
「新編武蔵風土記稿及び武蔵三芳野名勝図絵に当社の名は記されているが、御由緒は不祥。口碑によれば蓮馨寺開祖以前からあり、この神を帰神したところ、種々の災厄から免れたことから神が祐を加えて下さるということかで加祐という名前を社号に冠し崇め来た。その社号が古旗に書かれているのが残っていたと言われる。そのことから室町時代永禄年間(1558年~1570年)には既に当社は存在していたと推考できる。明治2年蓮馨寺境内より遷座して熊野神社の御末社となった。」
末社・厳島神社
「武蔵三芳野名勝図絵」(享和元年1801年)によれば、その昔は蓮馨寺の南側林中にあったが、当時、秋葉神社の西側に移したと記されている。よって御由緒は不祥であるが、口碑によれば蓮馨寺開祖以前より寶池(熊野神社より蓮馨寺境内にかけてありと)に鎮座していた当社を崇敬し、池名『寶池』を取って寺号となし、寶池院としたと言う。明治2年蓮馨寺境内より遷座して、熊野神社の御末社となった。」
末社・秋葉神社
「新編武蔵風土記(江戸時代文化文政年間)によれば第十代川越藩主秋元喬房氏により、1723(享保8)年に建立。秋元氏が蓮馨寺住僧東誉圓悦なる者に議り、当社安置の地を熊野神社に卜して丘を築き、勧請させた。明治6年に遷座した秋葉山秋葉寺の御本尊様の護神三尺坊はカラス天狗姿で白狐に乗るとされる。」
末社・大鷲神社
「1922(大正11)年南崎玉郡の鷲宮神社の分霊を奉斎したと伝えられている。はじめ熊野神社に合祀されたが、後に流れ造り社殿を建立し遷座祭を執行して末社とした。」
歌碑
むすびの庭
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