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雲晴寺と里見忠義公、宮本武蔵の庭

2014-06-23 11:24:41 | 明石市
2014年6月19日、お参りしました。山陽電鉄人丸前駅北西徒歩3分のところです。
曹洞宗、山号は月江山です。
縁起書より『当山は慶長18年(1613)本堂がわら葺から瓦葺に葺きかえられたと伝承されている。寛永16年(1639)明石藩主大久保忠職とその姉桃源院(東丸様)が南総里見八犬伝のモデルとなった里見忠義公の菩提を弔う為、ここにあった寺院の伽藍を整備し寺領を増やし、加納(岐阜県)より能山侃藝大和尚を招き開山とし供養した。寺名は里見忠義公の法名 雲晴院殿心窓賢涼大居士から雲晴寺と名付けられた。越前松平より入封の藩主松平直明は、義理の母で松平直良(直明の父で徳川家康の孫)夫人清光院(豊姫)の位牌を当山に納め水代供養を願い、清光院の実家である本多家の「丸に立葵」の家紋を与え当山の寺紋となった。本堂裏には戦前まで宮本武蔵の庭があったが昭和20年7月の大空襲にて、当山は山門を残して全焼し、庭も戦後の復興事情により埋められてしまった。平成15年本堂再建に伴う発掘調査により庭園の一部が見つかり復元。その後武蔵の孫弟子にあたる柴任道隋重矩(国岳隋居士)と夫人の墓石が発見され武蔵ゆかりの寺院の裏付けが濃いくなった。墓地には明石藩家老職を務めた、織田家、津田家、今枝家など多くの藩士たちが眠る菩提寺であり、戦前は鐘楼堂、奥の院、茶室、座禅堂など伽藍が整った寺院であった。』
明石市人丸町5-23
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山門

柱の下で、支えています。かわいいですね。




庫裏

ようこそおまいり

地蔵

瓦塚

本堂







境内にて



柴任道隋重矩と夫人の岩の墓碑
説明書より「柴任道隋重矩は、宮本武蔵の兵法二天一流の三代目である。本姓は本庄氏、名は三左衛門、美矩とも記されている。号は国岳道隋。[二天一流系統]宮本武蔵(祖)-寺尾孫之丞-柴任重矩-吉田実連-丹治峯均 重矩は系統上では孫弟子にあたるが武蔵在命中に熊本にいたことから、宮本武蔵伝記書の中でも最も古い「兵法大祖武州玄信公伝来」は、この柴任重矩からの聞き書きによるところが多いとされている。承応2年(1653)熊本にて、寺尾孫之丞より二天一流免許と「五輪書」の相伝を受けた。その後福岡黒田家、大和郡山本多家(本多政勝)、明石本多家(本多政利)、姫路本多家(本多忠国)に仕え、武蔵の兵法を指南した。特に本多政利時代の延宝8年(1680)には、明石において吉田実連に二天一流を免許し、「五輪書」を相伝している。妻の岩は、大和郡山本多家の家臣大原惣右衛門の妹である。重矩と岩の間には子はなかったため、岩の実家大原家から養女を迎え、明石松平家の家臣で郡代や奉行職を勤める橋本七郎兵衛と縁組した。姫路本多家を最後に隠居剃髪した重矩は、この娘婿を頼り、再び明石に移り住む。重矩の隠居所には明石藩主松平直常が度々立寄っていて隠居後も丁重な待遇を受けていたと思われる。元禄15年(1702)10月18日に岩が亡くなり、宝永7年(1710)8月20日に重矩が85歳で亡くなった。宮本武蔵が庭を作ったという伝承がある当寺に葬られたのは、重矩の師を慕う心を考えてのことであろう。この二つの墓碑は頂部の形状から、以前は笠を伴っていたと考えられる。』当山25世悟道幸雄謹書

宮本武蔵の庭

稲荷

「里見安房守忠義」供養塔
説明書より『里見安房守忠義の墓所は鳥取県倉吉市の大岳院にある。里見安房守忠義は、安房国(千葉県)館山12万石の藩主であったが、慶長19年(1614)大久保長安、大久保忠隣事件の関連により、幕府への謀反の嫌疑をかけられ、無実を訴えたが聞き入れられず螯居、改易された。伯耆国(鳥取県)倉吉に移された忠義は、元和8年(1622)6月19日に無念のうちに亡くなり、これにより関東の名門里見家は断絶した。忠義29歳であった。この時、忠義の家臣八人が殉死して、「八賢士」と呼ばれている。滝沢馬琴作の「南総里見八犬伝」は、この里見家断絶とその家臣をモデルにした物語である。大久保忠隣の孫で、第4代明石藩主大久保忠職の姉は里見忠義に嫁いでいたが、忠義が亡くなると弟忠職の元で夫里見忠義の菩提を弔っていた。碑の背後には、里見忠義の夫人とその娘の法名が刻まれた石碑があり、里見忠義親子3人の供養を当「雲晴寺」で行っていたことがわかる。』



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