2014年6月19日、お参りしました。
縁起書によると、『寿永3年(1184)2月7日、源平一の谷の戦いに敗れた薩摩守平忠度(ただのり)は、海岸沿いに西へ落ちて行った。源氏の将の岡部六弥太忠澄は、はるかにこれを見て十余騎で追った。忠度に付き従っていた源次ら四人は追手に討たれ、ついに忠度は一人になって明石の両馬川まできた時、忠澄に追いつかれた。二人は馬を並べて戦い組み討ちとなる。忠度は忠澄を取り押さえ首をかこうとした。忠澄の郎等は主人の一大事とかけつけ、忠度の右腕を切り落とす。「もはやこれまで」と、忠度は念仏を唱え討たれる。箙に結びつけられた文を広げると、「行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度」とあり初めて忠度と分かった。敵も味方も、武芸、歌道にもすぐれた人を、と涙したという。清盛の末弟の忠度は、藤原俊成に師事した歌人であった。年齢は41歳。山電の線路脇に忠度の腕を埋めたという小さい祠があった。山電の高架化工事のため東約30mの位置に移されたものが現在の腕塚神社である。町名も右手塚(うでづか)町と称していたが、天文町に変更された。』
明石市天文町1丁目1
山陽電鉄・人丸前駅南西50mにあります。
map
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/92/f2f8c52b443095927127fa8f313eb9e3.jpg)
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縁起書によると、『寿永3年(1184)2月7日、源平一の谷の戦いに敗れた薩摩守平忠度(ただのり)は、海岸沿いに西へ落ちて行った。源氏の将の岡部六弥太忠澄は、はるかにこれを見て十余騎で追った。忠度に付き従っていた源次ら四人は追手に討たれ、ついに忠度は一人になって明石の両馬川まできた時、忠澄に追いつかれた。二人は馬を並べて戦い組み討ちとなる。忠度は忠澄を取り押さえ首をかこうとした。忠澄の郎等は主人の一大事とかけつけ、忠度の右腕を切り落とす。「もはやこれまで」と、忠度は念仏を唱え討たれる。箙に結びつけられた文を広げると、「行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度」とあり初めて忠度と分かった。敵も味方も、武芸、歌道にもすぐれた人を、と涙したという。清盛の末弟の忠度は、藤原俊成に師事した歌人であった。年齢は41歳。山電の線路脇に忠度の腕を埋めたという小さい祠があった。山電の高架化工事のため東約30mの位置に移されたものが現在の腕塚神社である。町名も右手塚(うでづか)町と称していたが、天文町に変更された。』
明石市天文町1丁目1
山陽電鉄・人丸前駅南西50mにあります。
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