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龍野の町並みその1、龍野神社・野見宿禰神社・聚遠亭・龍野城

2016-11-19 21:21:24 | 西播磨
2016年11月18日に行きました。たつの市は、兵庫県の南西部で姫路の少し位置します。西播磨の小京都と言われ、鶏籠山の麓、揖保川が流れる町です。江戸時代には脇坂家5万3千石の城下町として賑い、醤油、素麵などの名産で知られています。今も茉筋町並みが残り、下川原商店街を中心に、江戸時代から昭和初期までの町家が数多く見られます。武家屋敷、寺院、神社、城などを散策できます。18日から20まで「第14回オータムフェスティバルin龍野」のイベントが行われており、各店舗やガレージセールのような店舗を含め、150店舗が出店して町あげての取り組みがされていました。観光客や近隣の方をふくめ、多くの人々で通りも結構の人出でにぎわっていました。揖保川沿の観光用駐車場が満車だったので、市民グランドの駐車場に行きました。そこから時計周りに町を散策し、途中のお店で醤油をお土産に買いました。最初にJR本竜野駅にある観光協会でパンフレットを入手しました。
map
観光マップ

赤とんぼ歌碑
『龍野で生まれ龍野で育った三木露風が、大正10年33才のとき、北海道トラピスト修道院より「樫の実」で発表しました。ふるさとの思いでと幼き日の母の思い出を歌ったものと思われます。きた、歌碑五線譜は作曲者山田耕作の絶筆です。』



三木露風立像

龍野公園から文学の小径を進みます。
「赤とんぼ歌碑から聚遠亭に通じる桜道を文学の小径といいます。春は桜の名所で一目三千本の桜が壮観です。」



歌碑



龍野城の櫓が見えます。







龍野神社
「祭神は脇坂家の始祖、甚内安治です。安治は賎ケ嶽七本槍の一人に数えられ、社宝の貉の皮製槍ざやは甚内が丹波の鬼といわれる赤井氏を攻めたときの功によって譲られた物です。」
説明書

石の階段の参道です。



ムクロジ(兵庫県郷土記念物)
「県内有数のムクロジの大木です。」

歌碑

参道の階段

粟嶋社



水天宮



鳥居

神門



手水舎

拝殿





本殿



城山八幡宮
鳥居

拝殿

本殿

野見宿禰(のみのすくね)神社
説明書
「角力の元祖で有名な野見宿禰が故郷の出雲へ帰ろうと龍野まで来たときに病死しました。この墓として川原からリレー式に人々が石を運んだのです。当時は一面が野原で「野に立つ人「立野」といい、いつしか「龍野」となったそうです。この野見宿禰神社には、大相撲の黄金時代を築いた有名力士たちがたくさん参拝しています。横綱、千代ノ山、吉葉山、若乃花、栃錦、大鵬、柏戸、佐田山、朝潮、栃ノ海など地方巡業で龍野を訪れた力士たちが角道隆盛を祈願しています。神社には、明治から大正にかけて日本の相撲ファンをわかした、八十四名の力士や行司が寄進した玉垣があります。」
野見宿禰
『第11代垂仁天皇のとき、天下の力持ちを猛語する大和国(奈良県)の当麻蹴速と、出雲国(島根県)の野見宿禰が、天皇の御前で「力くらべ」をして、蹴速を負かし、天皇より恩賞として領地を与えられ、宿禰は朝廷に仕えました。(これが相撲の始まりと言われています。) 宿禰が朝廷に仕えていたとき、天皇のおきさき日葉酢姫命がが亡くなりました。当時は高貴な人が亡くなると、お側近くに仕える者は、すべて後を追って殉死する習わしでした。主君を守りお供えするということで、主君とともに墓に埋められることになっていました。このような風習に天皇は深く心を痛められていたとき、宿禰は「妙案があります」と、申し出て、出雲よりたくさんの土器を作る人を呼び寄せ土で人形や馬、埴輪を作らせ、生きた人たちに代えて陵墓のなかに埋めることを提案しました。天皇はたいそう喜ばれ殉死をすることを禁じ、この方法を取り入れるよう命じられ、宿禰を朝廷の葬送の儀礼を執り行う役に任じました。』

参道、ここから階段となっているところを10分くらい登ります。



力水



鳥居

ゆるい坂道の参道



周りは山という雰囲気です。



まだ続きます。

展望台です。





かなり急な階段です。

神社です。



玉垣





神社からの眺望





聚遠亭(しゅうえんてい)
『龍野公園内にあり、老中松平定信が脇坂氏の上屋敷を訪問した際、庭園から龍野城城下町越しに淡路や瀬戸内海の島々を望める眺めの素晴らしさから当地を「聚遠の門」と呼ばれ、その一帯を「聚遠亭」と称されています。』









茶室(浮堂)
『「茶室」は、安政年間(1854~1859)龍野藩主脇坂安宅公が京都所司代の職にあって御所が炎上した際、その復興に功績があったので、孝明天皇から茶室を賜り、心字池上に浮堂として移築したものといい伝えられ、庭園、池、杉垣などと調和し、桃山時代の書院造りを模した風雅な数寄屋風の建築物です。』









楽庵
「昭和58年ヒガシマル醤油株式会社の寄贈により利休居士十五世裏千家鵬雲齋千宗室御家元の御指導と御命名を頂き完成しました。間取りは八畳、六畳の広間と四畳の鞘の間を持つ本格的な広間の茶室です。」







御涼所(別館)
「藩主脇坂家の御涼所で質素勤倹の風のなかにも雅味のある接客、居住部門などの間取りや、意匠と構造に特徴があり、また床下の抜け穴等にも当時の面影を残しています。」











































旧脇坂屋敷周辺













龍野城
『中世の赤松村秀によって築かれたと伝えられていますが、当時は、標高200m余りの鶏籠山(けいろうざん)の山頂に築かれていました。村秀は、当時、播磨、美作、備前の国主であった赤松氏の一族として揖東・揖西郡を治めていました。龍野赤松氏は4代続きますが、天正5年(1577)秀吉の軍に戦わずして城を明け渡します。その後、蜂須賀、福島など豊臣配下の大名が在城します。徳川の時代になると、播磨一国は池田氏の領地となり、龍野には城代が置かれます。その後は姫路城に本多忠政が入ると、龍野には二男政朝が配置されますが、兄忠刻の死により、姫路城主に移ります。その後も、小笠原、岡部、京極と続き、万治元年(1658)京極氏が丸亀へ移った後、一時、幕府領となり代官によって支配されました。このため、寛文12年(1672)脇坂安政が信州飯田より入部した時には城、侍屋敷も壊され「城郭の地ことごとく土人の田畑となるありさま」で、安政自身も城下の商館を居館とし、1年余りで城を再建しました。時代は既に太平の世でもあり、元々、外様大名でもあたので、幕府の嫌忌に触れることを恐れ、鶏籠山麓の御殿式の城を修復しています。』









「龍野城は明治4年(1871)の廃藩置県により龍野城の建物はすべて競売によって取り壊され、大手門から冠木門(かんぶりきもん)に至る中間に裁判所が建てられました。城内には明治末に女学校が置かれた時、新たに進入道路が新設されるなど大きく変わっています。昭和50年より5年間で城壁、多門櫓、埋門、石垣、本丸御殿、鍜坂門(しころざかもん)が再建され、後に隅櫓が建築されました。また、再建にあたっては、現在残る絵図を参考にすべて木造、土壁で建てられています。」

















龍野城主脇坂氏
『脇坂安政は寛文12年(1672)に信州飯田より龍野に入部、以来明治まで10代200年間龍野を治めました。脇坂氏初代の安治は豊臣秀吉の配下として、秀吉が信長亡き後、柴田勝家と覇権を争った合戦で賎ケ岳七本槍の一人として活躍した武将でしたが、弟堀田正俊が大老の時、外様から願請代に転じています。4代安照は忠臣蔵で名高い赤穂事件の時、赤穂城請取りの正使を務めたことで知られています。次の安晴の時、弟安利に2千石を分地したため、以降、脇坂家は5万1千石となります。10代安薫は28年間の寺社奉行と4年半の老中を務め、この間、延命院事件や出石仙石家のお家騒動、朝鮮通信使出迎えの副使などを務め、藩校「敬楽館」を造りました。次の安宅も、寺社奉行、京都所司代を経て、2度の老中を務めています。』
御殿の展示物



















































城を後にして次に進みます。

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