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津和野、永明寺・乙女峠マリア聖堂・光明寺

2016-07-16 18:37:32 | 島根
2016年7月11日、山口観光の後、津和野に寄りました。鷲原八幡宮、森鴎外旧宅、西周旧居の後に、自動車を移動し永明寺の駐車場に着きました。ここを起点に津和野の町並みを散策します。
永明寺(ようめいじ)(津和野町指定文化財)
「曹洞宗で、山号は覚皇山です。応永27年(1420)に津和野城主吉見頼弘によって創建され、開山は開祖道元禅師の法孫月因和尚です。江戸時代には曹洞宗の寺院として栄え、石見国一円の禅寺を統括し末寺70余を擁し、又禅道場としても有名で雲水200人を超え、寺領として虹ケ谷村に100石を領していた。吉見、坂崎、亀井氏といった歴代の津和野城主代々の菩提寺です。寺は度々火難にあったが、現在のものは享保14年(1729)に建てられたもので、仮普請のままながら畳数400枚を数える一大古刹です。大きな山門は元殿町にあった町門を移したものです。庭は幽邃そのもので殿様御なりの間から観ると一入情趣があります。寺全体が町の文化財指定です。」
拝観料は300円です。
島根県津和野町後田ロ107
map
境内図



参道

山門

「覚皇山」の額
「明の帰化僧心越禅師(水戸光圀の師)の揮毫です。」

境内

説明書

弁天堂

中門

経蔵

鐘楼



本堂

魚鼓











































大島松渓絵

























森鴎外の墓



次は乙女峠マリア聖堂に行きます。
津和野駅です。







清水です。





ひんやりとした小川です。









キリシタン殉教乙女峠
「慶応元年(1865)長崎浦上の4千人以上の隠れキリシタンから少数の者が、当時フランス寺として呼ばれて今の浦上天主堂に入り「サンタマリアの御像はどこ。ここに居ります私たちは、皆、あなた様と同じ心でございます。」との有名な言葉によってキリシタン発見は、はっきり認められ、キリスト教の歴史の中に入りました。徳川250年間以上のきびしい迫害にも彼らの先祖たちがキリスト教を守りつづけたことを、全世界は感嘆して受け止めたのです。しかしキリシタンの喜びもつかの間で「浦上四番崩れ」といわれる弾圧が始まり、およそ3400人が見知らぬ土地に流罪の刑を受けました。鹿児島、萩、名古屋等の22カ所が選ばれ、その中に津和野も加えられました。浦上の信徒の指導者が津和野藩に預けられたのは、この地が神道研究で隆盛を当主亀井茲監が神道による教道教化に相当の自信を抱いていたからでした。藩出身の国学者である福羽美静の指導で津和野藩はキリシタンの信徒を改心させる務めを負いましたが、キリシタンの信仰は厚くたやすく改心させることは出来ませんでした。そこで彼等は最初とっていた方針を途中で変更し、拷問を加えて棄教させる方法をとりはじめました。キリシタンたちは、着の身着のまま、雪深い津和野に送られ、獄舎で冬を越すことは相当の拷問でした。日増しに加わる減食の責苦、乙女峠の一隅にある池の氷を砕いて裸にして投げ込み、息絶えだえの者を引き上げて、今度は火あぶりにして責めました。キリシタンの中心人物だった守山甚三郎はこの拷問が一番苦しかったと覚え書の中に書いています。また見せしめのために、裸のまま雪の中の三尺牢という小さな檻に押し込めるという拷問も行われました。守山甚三郎ともう一人の記録をよく残した高木仙右衛門は、生き残って長崎に帰り天寿を全うしました。5年間の拷問、責苦や殉教のありさまの月日を、毎日あてがわれた塵紙に忠実に詳しく書きました。二人の記録が最も大切な書として今日まで保存されています。明治25年(1892)ビリヨン神父は、乙女峠の隣の谷、蕪坂に葬られた殉教者たちの遺骨を一つの墓に集めました。また昭和23年(1948)、ネーベル神父(岡崎神父)は、乙女峠に記念聖堂を建て、そのまわりの殉教地が祈りにふさわしい場所となるよう心をこめ、力をつくしました。」












































悲しい歴史を見ました。神を信じませんが、信仰の自由、心は暴力では抑え込むことはできません。このブログを書く前日にはフランスでテロが発生したとのことです。本来、どの宗教の教えも不殺生なのに、異教徒を許さない、存在を否定するのはあまりにも悲しいですね。
光明寺
乙女峠に行く角地に建っています。
沿革について
「旧三本松城主吉見正頼公室少将大宮姫は信盛寺をこの地に建立す。後亀井政矩公因州より移封せられ藩祖茲矩公の岳父山中幸盛公の菩提の為鹿野城下に建立せる幸盛寺を此の城下に建て祖父の志を継ぐ。 後又故ありて寛永12年(1635)信盛寺と合併す。 承応2年(1653)亀井氏3代茲政公母君の菩提の為に光明寺を撫坂口に建立する。慶応2年(1866)に信盛寺に合併して光明寺と称しここに法燈を継続する。」
山門

説明書

本堂



鐘楼



吉見正頼公夫人の墓



安野光雅美術館

本町通りにいきます。

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