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長崎市内散策Ⅱ、平和公園・浦上天主堂・出島

2019-06-12 23:41:55 | 長崎
2019年6月7日から9日、長崎観光をしました。ドバイ特派員が旦那と一時帰国しましたので、ぶらりと長崎観光です。長崎にっしょうかん新館の梅松鶴の2日連泊です。7日はフライトの関係で22時半にホテル着で、翌日8日は平戸観光です。翌々日9日、長崎市内観光をしました。
ホテルの客室から長崎港です。豪華客船が停泊していました。

ホテルでチンチン電車の1日乗車券を購入しました。

平和公園

防空壕









核兵器禁止条約締結を求める集会をしていました。







平和公園から浦上天主堂に行きます。



浦上天主堂
『1867(慶応3)年の浦上四番崩れによるキリシタンの流配(旅)から戻った浦上のカトリック信徒達は旧浦上村の庄屋宅跡を購入し、1880(明治13)年補修して仮聖堂としました。その後、1895(明治28)年主任司祭・フレノ神父はロマネスク様式で煉瓦造の聖堂建設に着手。1914(大正3)年献堂式が行われ、1925(大正14)年双塔の竣工をもって完成に至りました。当時の天主堂は「東洋一の教会」と称されていました。



































拷問石











出島
「1571(元亀2)年ポルトガル船が入港し、以来長崎は世界都市とし発展を続けてきました。長崎の町には協会が建てられキリスト教が広がり、各地から商人たちが集まってきましたが、豊臣秀吉の時代になると天領となりキリスト教への弾圧が始まり、更に江戸幕府は徐々に貿易の独占とキリスト教の禁教政策を強化してきました。
 1636(寛永13)年長崎の町の岬の先端に徳川幕府の命により、長崎の25人の有力な町人が出資して出島が築造されました。町の中で暮らしていたポルトガル人を収容し、貿易の掌握とキリスト教の広まりを防ぐ仕組みが完成しました。その翌年島原・天草一揆が起こり、1639(寛永16)年ポルトガル船の来航は禁じられました。そののち当時平戸で貿易をしていたオランダの商館が出島に移され、以降、幕末まで日蘭交流は続き、日本とヨーロッパ間の唯一の貿易地、また蘭学を初め日本の近代化に必要な情報の発信地として、出島は重要な役割を果たしました。
 1859年以降は通商条約に基づき横浜や函館でも海外貿易が行われるようになり、長崎においても貿易の中心は出島からT.グラバーやF.リンガーたちが活躍した現在のグラバー園周辺の外国人居留地へと移っていきました。中島河の変流工事や周囲の埋め立て等により形も失われてきました。
 第二次世界大戦後間も無い1951(昭和26)年、出島の復元計画が動き出し、長崎市は50年の歳月をかけて取り組み、2016年時点で16棟の19世紀初頭の町並みが出島に甦っています。」

一番船船頭部屋
「1階は倉庫、2階では、オランダ船船長やオランダ商館員が暮らしていた部屋を再現しています。」













一番蔵
「砂糖などをおさめていました。出島の建物の復元方法や発掘した基礎石を展示しています。」













二番蔵
「染料の原料となる蘇木などが収蔵されていました。出島で取引された貿易品と貿易の仕組みを紹介しています。」













ヘトル部屋
「商館長次席(ヘトル)の住いでした。内部は復元ではなく[ミュージアムショップ]やトイレとして活用しています。」





三番蔵
「長崎の食文化に欠かせない砂糖を保管していました。はじめは台湾、後にインドネシアから輸入されていました。」









拝礼筆者蘭人部屋
「オランダ商館の首席事務員の住居。エレキテルや顕微鏡等の珍しい西洋から伝わった器具の仕組みが判ります。」











カピタン部屋
「オランダ商館長(カピタン)の居宅。2階には、商館長の仕事ぶりやクリスマスの宴会を再現した部屋、1階では体験展示を楽しめます。」





















































女中部屋

寝間

図書室

涼所

乙名(おとな)部屋
「出島の貿易やオランダ商館員の生活を支えていた出島乙名の仕事ぶりを紹介しています。」

大砲

時鐘
「この鐘は正午の昼食時に撞かれ、また、貿易時には、朝、積載品が降ろされる時に撞かれる。鐘が三度撞かれれば、事務官は揃って荷倉役のところに出向く。と記録にあります。紐を引いて鳴らす西洋式の鐘で、18世紀のオランダで実際に用いたものを吊ってあります。」

用水池
「1798(寛政10)年、出島では西側半分を焼失する大火が起り、オランダ商館は大打撃を受けました。その後、火災に備え、この場所に間口1間半×4間の用水池を設けました。」

新石倉

旧石倉

筆者蘭人部屋
「出島が貿易や文化交流を通じて世界と日本各地とつながっていた様子をわかりやすく紹介しています。」



十四番蔵
「かつては砂糖蔵でした。蔵の下の発掘遺構や出島築造の様子、出島と長崎の町をつなぐ橋を紹介しています。」

乙名詰所
「表門から出入りする人を監視するため出島の管理者である乙名が詰めていました。」

組頭部屋
「乙名の補佐役(組頭)の名前がついていますが、銅を計量したり、梱包したりしていた場所でした。」



旧長崎内外クラブ
「1903(明治36)年、T.グラバーの息子倉場富三郎の尽力により、長崎の外国人と日本人の社交場として建てられました。現在はレストランとして交流の場となっています。」



旧出島神学校
「1878(明治11)年に建てられた。現存する日本最古のプロテスタント神学校です。」





模型

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