『論語』の魅力の一つに、文学的あるいは詩的ともいえる表現があると思います。
ここに掲げたのは、孔子の高弟子貢(しこう)の言葉です。「くんしのあやまちや、じつげつのしょくのごとし。」
子貢は、孔子の門弟の中で弁舌弁論に優れた人とされていて、ここでも君子の過ちを日食や月食にたとえたこの子貢の言葉は、いいなあと思うのです。
この言葉には、続きがあります。「過つや人皆之を見る。更むるや人皆之を仰ぐ。(あやまつやひとみなこれをみる。あらたむるやひとみなこれをあおぐ。)」
全体の意味;「君子の過ちは、日食や月食のようなものだ。君子が過てば人は皆注目する。そして君子が過ちを改めると人々は感嘆安堵して仰ぎ見るのである。」
うーん、なるほど、と思ってしまいます。
君子は、『論語』では〈学問を積み人格を磨いて社会に貢献し得る立派な人で、官僚や為政者になり得る人〉という意味だと思います。そうした君子は、滅多に過ちをおかしませんが、しかし稀には間違いをするものです。すると、人々は驚いて注目します。日食月食を見て、何か不吉なことが起きるのではないかといったときのように。そして、君子が過ちを改めると、日食月食が過ぎ去ってまた光が蘇ったときのように、あーやはりすばらしいなあと思ってほっとし、より敬意が増したのではないでしょうか。
君子が過ちをおかしたときには「見」と表し、過ちをあらためたときには、「仰」としているのも、また、いいなあ、と思った次第です。