ハナの花

そのときどきの出来事や見聞について記します。

夏目漱石の旅 明治30年12月~31年1月④ 小天 前田卓子その3   2022.1.11

2022-01-11 10:17:28 | 漱石ゆかりの地
 漱石は、今回取り上げた以外にも小天を訪ねています。それは妻鏡子の記憶によると明治31年「蚕のころ」といいます(狩野亨吉・山川信次郎・奥太一郎らと一緒)から、5月~7月ころでしょうか。「なんでも最初か二度めに夏目が参りました時、ちょうど生まれたばかりのすえの利鎌(とがま)さんを見て、顔の赤いのに驚いたとか何とかいうのですが」(『漱石の思い出』夏目鏡子・述、松岡譲・筆録)とあります。
 ここにある利鎌は、前田利鎌のことで、卓子の異母弟にあたります。利鎌は明治31年1月の生まれですから、漱石が利鎌を見たのは2回目の訪問時ということになります。
「生後いくばくもなき幼少の故人[前田利鎌のこと]が、姉卓子に抱かれて漱石等に愛撫され、後年その門に親しく出入せるも亦奇縁といふべし。」と漱石の長女筆子の夫松岡譲が後に描いています。(松岡譲編集『宗教的人間』に付された前田利鎌年譜)
 前田利鎌は、卓子に連れられて大正3年初めて漱石の家を訪ね、それから度々出入りするようになったようです。
 利鎌は、東京帝大哲学科に学び、のちに東京工業高等学校で教えるようになります。
 わずか32歳で夭折したため、生前の著書は『臨済荘子』のみです。もっと多くのものを遺して欲しかったと思います。近頃岩波文庫から出た『臨済・荘子』はこの著書の文庫版かもしれません。
 前田利鎌については、安住恭子さんの著書に詳しく書かれています。
 話が逸れました。 卓子のことはまた次回へ。

  前田利鎌  ↓

   臨済・荘子 岩波文庫 ↓

安住恭子 禅と浪漫の哲学者・前田利鎌  ↓  


 


夏目漱石の旅 明治30年12月~31年1月③ 小天 前田卓子その2   2022.1.10

2022-01-10 15:43:32 | 漱石ゆかりの地
 夏目漱石は、明治39年に『草枕』を書きますが、その舞台那古井は小天の旅を踏まえて設定されています。
 『草枕』の中で、志保田の那美さんが前田卓子をモデルにしたとされますが、卓子の人物像や生活をそのままモデルにしているわけではありません。
 主人公の入浴中、那美さんが浴室に現れる有名な場面がありますが、これは実際には山川信次郎と漱石が入っているところに卓子さんが入って来たということのようです。次に夏目鏡子の『漱石の思い出』(文春文庫)から引用します。
〈ある日夜おそくなってから姉さん[前田卓子]は、その日のことを終わっていざ湯に入って寝(やす)みましょうと思って、女湯の方へ行ってみますと、ぬるくてとても入れません。男湯の方はとのぞいてみますと、もうもうと湯気の立ってるぐあいと言い、誰もいないらしい気勢(けはい)なので、安心して着物をぬいで、浴槽へ石段を踏んで下りかけますと、湯の中でポチャリという音がします。オヤ、誰もいないはずだったのにと立ちどまって、怪しみながら、中をじっと覗ってみますと、くすりとたしかに人の笑う声がします。びっくりして瞳をこらしてみると、驚いたことに夏目と山川さんとが、しきりにおかしさをこらえて、茶目さんらしく灯影の当たらない浴槽の一隅に首だけ出していたというではありませんか。姉さんは真赤になって戸の外へ逃げ出したそうです。すると女中がこれまた裸になりかけていましたが、どうなすったのかとひどいあわて方にびっくりしてたずねますが、姉さんはたまらくなって何も言わず着物をひっかけて逃げ出してしまったということです。〉
 『草枕』の場面とは全く趣を異にしています。下の画像は、『草枕絵巻』作成を主宰した松岡映丘の描いた「湯煙りの女」です。


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『論語』つれづれ29  子曰く、「性相近し。習ひ相遠し」  2022.1.10

2022-01-10 14:01:54 | 論語
〇子曰く、「性相近し。習ひ相遠し。」
〇読み しいわく、「せいあいちかし。ならいあいとおし。」
〇意味 先生がおっしゃった、「人が先天的に持つ質はそれほど個人差があるものではない。ところが、生長の過程で習慣化されることがらによって差異が生じるのである。」

 孔子の言葉からしばしば励まされるのですが、この言葉もまたその一つです。
 〈習い、性となる〉と言います。習慣がその人の天性のもののようになるということです。そこで、よい習慣を身につけることが重要だということになります。
 完全にはできませんが、休み休みでもよい習慣を続けたいと思っています。


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