ハナの花

そのときどきの出来事や見聞について記します。

広島県府中町 府中大川の鳥    2022.6.8

2022-06-08 14:28:52 | 日記
広島県府中町 府中大川で見かけた鳥をユーチューブにアップしました。撮影は2022年3月です。
時間があればご覧ください。→ https://youtu.be/19YudmEnkCA

ダイサギもいました。 ↓


散歩中に出遇ったカモさん     2022.2.16投稿  

2022-02-16 13:02:11 | 日記
先日、近くの川沿いを散歩中に出遇ったカモさんです。飛ぶところも少し見ることができました。







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『論語』つれづれ30  貧にして怨む無きは難く、富みて驕る無きは易し。  2022.2.10

2022-02-10 16:07:30 | 論語
孔子の言葉です。
〇子曰く、「貧にして怨む無きは難く、富みて驕る無きは易し。」
〇読み:しいわく、「ひんにしてうらむなきはかたく、とみておごるなきはやすし。」
〇意味:先生がおっしゃった、「貧しくして他を怨まないというのは難しいことであり、それに比べれば、富んでいておごり高ぶらないのはまだ易しいと言える。」と。

*この文章は、貧にあってもそれを不満に思わずに努めるべきだという意味にも読めないことはありません。しかし、富者がおごり高ぶらないのは比較的容易だと言っていることからすると、この文章は、貧者の苦難を見た孔子が為政者のあるべき姿を要求して語ったものではないかと思うのです。
 すなわち、貧者はより生きづらいものだから、為政者は貧者の立場に立って、食を足らすように治めなければならない、と言っているのではないでしょうか。

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夏目漱石の旅 明治30年12月~31年1月⑤ 小天 前田卓子その4(終)   2022.2.10

2022-02-10 15:29:30 | 漱石ゆかりの地
 前田卓子は、明治38年に上京し、孫文たちの民報社にで働きます。その後、『民報』は発行禁止処分を受けたため、明治43年から、東京市養育院で働きはじめました。この福祉施設東京市養育院は、渋沢栄一が院長をしていたことでも知られます。
 卓子は大正3年には利鎌を連れて漱石宅を訪問しています。そして、大正4年、異母弟の前田利鎌を養子としました。
 卓子は漱石との関係をとやかく言われることをたいそう嫌っていました。卓子の談話から一部紹介します。
 「先生がお歿(な)くなりになってからの事でございますが、或る年の或る婦人雑誌に、何でもわたくしが先生の初恋の女でもあったかのようなことを書いたことがあります。しかも、それがわたくしの口から出たように書かれているのだから堪(たま)りません。わたくしはもうその予告の出た時から雑誌壮に注意を与えて置きましたが、いろいろ詫びて来ながら、とうとう出してしまいました。で、わたくしもかんかんに怒って、利鎌の友人で弁護士になっていらっしゃる下川さんにお願いして、とうとう訴訟を起しました。」
 有名人は、とかく噂を立てられるものですが、毅然として対処したこのときの卓子は、すばらしいものだと思います。
 また、卓子がしみじみと自分の身の上を語った時、漱石が、「そういう方であったのか、それでは一つ「草枕」も書き直さなければならぬかな」と言ったそうです。それについて、卓子は「本当にわたくしといふ女が解っていただけたのだろうと存じます。」と言っています。卓子は『草枕』の那美さんは那美さんとして、それとはまた違うほんとうの自分を漱石に理解されたことが、大きな喜びであったでしょう。
 卓子は、昭和13年(1938年)、赤痢のため病死しました。漱石の一つ年下の卓子は、大正5年に歿した漱石よりも相当長く生きたことになります。

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夏目漱石の旅 明治30年12月~31年1月④ 小天 前田卓子その3   2022.1.11

2022-01-11 10:17:28 | 漱石ゆかりの地
 漱石は、今回取り上げた以外にも小天を訪ねています。それは妻鏡子の記憶によると明治31年「蚕のころ」といいます(狩野亨吉・山川信次郎・奥太一郎らと一緒)から、5月~7月ころでしょうか。「なんでも最初か二度めに夏目が参りました時、ちょうど生まれたばかりのすえの利鎌(とがま)さんを見て、顔の赤いのに驚いたとか何とかいうのですが」(『漱石の思い出』夏目鏡子・述、松岡譲・筆録)とあります。
 ここにある利鎌は、前田利鎌のことで、卓子の異母弟にあたります。利鎌は明治31年1月の生まれですから、漱石が利鎌を見たのは2回目の訪問時ということになります。
「生後いくばくもなき幼少の故人[前田利鎌のこと]が、姉卓子に抱かれて漱石等に愛撫され、後年その門に親しく出入せるも亦奇縁といふべし。」と漱石の長女筆子の夫松岡譲が後に描いています。(松岡譲編集『宗教的人間』に付された前田利鎌年譜)
 前田利鎌は、卓子に連れられて大正3年初めて漱石の家を訪ね、それから度々出入りするようになったようです。
 利鎌は、東京帝大哲学科に学び、のちに東京工業高等学校で教えるようになります。
 わずか32歳で夭折したため、生前の著書は『臨済荘子』のみです。もっと多くのものを遺して欲しかったと思います。近頃岩波文庫から出た『臨済・荘子』はこの著書の文庫版かもしれません。
 前田利鎌については、安住恭子さんの著書に詳しく書かれています。
 話が逸れました。 卓子のことはまた次回へ。

  前田利鎌  ↓

   臨済・荘子 岩波文庫 ↓

安住恭子 禅と浪漫の哲学者・前田利鎌  ↓