廃異不思議探検隊/(SEASON2)

Wast different wonder expedition.(SEASON2)

FILE3

2016-11-19 07:40:00 | 廃墟B
Continuation>>


 壕口から十メートル程度の所で土砂の山が出来ている。
 ここまでの様だ。




 土砂の上に隙間があり、先を覗いて観ると、奥が、閉塞した場所の様だ、状況を確認したいので、越える。




 土砂が上から流入している事が確認出来た。

 危険なので、我々も直ぐ出る。

 手前に中途半端な量の土砂が盛られているが、どうやらこちら側も塞いでしまおうとして、人為的に入れ始めたが、色々大変だったのか、途中で止めた様だ。




 十五メートル程度の長さだ。

 例のコンクリートで出来た物と合わせて、貯水施設の建築実験だったのかもしれない。




 我々は、撤収する事にし、車両がある場所まで辺りを観察しながら歩いていたところ、自転車に乗った中高生らしき学生が、こちらを意識しているので、趣獅燒セしたところ「あっ、僕学校で穴のこと聞いたことあります。生徒は危ないから行ってはいけないと言われているので、僕は行ったことありませんが、同級生は穴を覗きに行ったりしていました。」

 私は、今調査して来た穴のことを伝えたところ、また別の穴があるらしい!
 大まかな場所を教えてもらい、行ってみることにした。





 ちょっと分かり辛い場所にあり、更に埋もれる一歩手前の状況だったので、手こずり、撤収しようかと斜面を下りているところで、運よく発見(;^_^A)

 壕の上の部分が辛うじて、出ている状況だった。




 小型の避難壕(防空壕)だろうか?

 大分埋まってしまっているが、奥がないので、元々小さい壕だったのだろう。




 三人位が入れる程度の大きさだ。

 今は、土砂が入り、狭くなってしまっているが、当時はもう少し広かったのだろう。

 南方のジャングルで、小さな穴を掘り、木や葉っぱで覆い隠し、敵兵が近づいたら攻撃するトラップにも似ている。

 長岡の穴でお世話になった萩原さんが「今は埋め戻されているが、木村鋳造の(海軍工作学校跡地の一角)地下は穴だらけだぞ、俺昔入ったことあるが、蟻の巣の様だった。」と言っていた。
 陣地構築訓練で、相当穴を掘ったらしい。

 工作学校・施設本部野外実験所は、本土決戦態勢の準備で、学生が各地へ投入されることとなり、昭和20年7月15日、沼津校は閉校になった。
 工兵として軍需工場の地下疎開や特攻基地、砲台、飛行場建設等に投入されて行った。

 以前県外で、児童が地下壕へ入って遊んでいて、たまたま有毒ガスが発生しており、吸ってしまい、死亡する事故が起きており、その時期に清水町でも壕内有毒ガス発生の危険性が問題視され、学校では穴に近づかない様にと指導し、壕も塞がれたとの事だ。

 とは言うものの、三物件残っていたのは奇跡だと思う、記録出来て良かった。
 2016/02/28
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海軍施設本部沼津屋外実験所・沼津海軍工作学校跡 2

2016-11-13 00:11:00 | 廃墟B
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 人一人歩ける様な獣道がある。

 私の不思議レーダーが微かに反応する。

 ここは怪しい、期待して入って行く。




 土砂崩れが起きている。
 他には何もない。単なる山へ入る道か..

 他を探そう。

 と、探索を続けていると




 農作業をやっていたおばあさん(82)と出会う。

 おばあさん「こんにちわ、あんたたち、戦争のこと調べてるの?さっき、海軍学校の関係のコンクリート調べてたでしょう?( *´艸`)私戦時中のこと色々話したいなぁ(#^^#)」

 と言ってくださり、これは好都合!貴重な話しが聴ける、興味津々で伺った。

 おばあさん「私が小学校五年生の頃、あのコンクリートと隧道があったのを記憶しています。コンクリートの建物は、用途は分かりませんが、海軍学校が造った物です。それから今あなた達が行った土砂崩れが起きていた場所は、そこも軍が掘った隧道の出入り口がありました。今は、地盤が緩いので、崩れてしまいましたが、当時私は入ったことがあります。人が通行するための隧道ではなかったですね、水道管の様なパイプが何本か引いてあり、施設用の隧道でした。側の空き地に掘削した大量の土砂が山となっていたのを記憶しています。隧道の反対側は、まだ崩れてないので、少し入れると思いますよ。

 それから、ちょっと浮「話しがあるんだけど、戦時中、私が夜トイレに起きて、山を眺めていたら、凄く強い光、サーチライトを空に向けて照らして、グルグルと何かの合図をしてるんです、私は、何だろう?と思い、不気味に感じました、案の定、その5分か10分後に空爆が始まりました、攻撃目標の誘導をしていたと思います、スパイですよ、そしてうちの裏に焼夷弾が落ちて、家焼けちゃったもん、作り話しじゃないです、私見たんです!そのスパイ自信も空爆で危ないと思うんだけど、死ぬ覚悟だったのかな?」

 そう言った工作員はいただろう、日本軍だって秘密組織があったのだから、ちょっと珍しい話しが聴けた。(笑)
 そう言えば、江ノ浦の人も言っていたな、スパイがいて、特攻基地や軍需工場の場所が全部米軍にバレていたと。




 水道管が引かれていた地下壕

 この穴も施設実験壕だろう

 しかしおばあちゃんここ、思いっきり人んちの敷地内じゃないすか(笑)あんまり周囲は撮れないんすけど、穴に至るまで嘗ての道の様な痕跡があった。




 然程大きい穴ではなさそうだ。

 しかし割と大雑把に掘ってある様な(笑)まあ土木建築実験で掘った穴なのでね。




 壕内は、立って歩けるが、小型だ、何故か左側半分に土が寄せてあり、盛り上がっている。

 先が閉塞しているのが確認出来る。
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沼津海軍施設本部野外実験所跡 1

2016-11-09 20:26:00 | 廃墟B
 海軍施設本部沼津屋外実験所跡

 戦争が続くと、港湾や飛行場は勿論、要塞、砲台等の設営、築城術も”独自に習得する必要性”が増し、1941年(昭和16年)海軍建築局の機能を高めた”海軍施設本部”を設立し、特設設営隊と対応したのだが”人員の養成は急務”だった。

 大東亜戦争が始まり、工作術要員の増員と、更に艦船、航空機、施設等のダメージも激しくなり、整備や修造、築城等の”工作術要員が更に必要”になった。

 それから米軍は、ブルドーザーやショベルカー等の土木機械が発達しており、陣地や飛行場を易々と建設していたのに対し、日本軍は、土木工事の機械化が遅れており、建設重機技術の必要性もあった。

 戦争末期、1944年(昭和19年)駿東郡清水町に築城術、航空機整備術等の養成教育、研究、実験、技術者として必要な機械工学や修造技術の教育、技能者として必要な技量と経験の習得を図る”沼津海軍工作学校”が開校した。(本校は、横須賀海軍工作学校)


 さて、今回調査したのは、その関係施設、海軍施設本部沼津屋外実験所跡だが(工作学校の跡地は、町や工業団地になり、記念碑ぐらいしか残っていない。)要塞、砲台、陣地等の設営術、築城術、土木建設重機技術を研究、実験していた場所だった様である。




 コンクリート造りの遺構が、深い藪の中に埋もれる寸前で残っていた。

 円形で、壁には四角い凹みが四つある。

 これは何の施設跡だろう?




 一見、貯水槽の様にも見える。

 今は木や枯れ葉で相当埋もれてしまっているが、当時はもっと深かったと思われる。

 中に入ってみる。




 出入り口なのか、ちょうど縁が欠けたのか、ここから入った。




 四角い凹みは、側溝なのか、中がどうなっているのか観てみる。




 奥には続いていなく、小さな溝になっているだけだ。




 こちらも同じく、四角い溝

 今は、土等で埋もれているが、当時は、底まで溝があったのかもしれない。




 何れにせよ、実験所なので、本施設ではなく建設実験で造った物なのかもしれない。




 縁に釘の様な物が残っている。

 当時は蓋がされていた様だ。




 他にも遺構が在るかもしれないので、探してみる。
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