山靴の夢 北アルプス編
>第7章 稜線をつなぐ:針ノ木岳・鳴沢岳・種池
2001年07月21日~07月22日
7月21日 0:15-4:47扇沢駐車場5:50-6:00大沢小屋6:35-45雪渓出会い7:25二股7:38-45雪渓終り8:47-9:30針ノ木小屋10:32-50針ノ木岳11:30-45スバリ岳13:25-14:00赤沢岳15:15-30鳴沢岳16:10新越小屋
7月22日 6:15新越小屋6:45-52最初のピーク7:10-15岩小屋沢山種9:05-9:35池小屋11:04-21登山口11:30-45扇沢
7月21日 針ノ木から新越小屋
北アルプスを剣岳から白馬岳まで縦走する計画も、ついに最後のコースを残すのみとなり、その実行する時がきた。6月に皇海山、苗場山、7月のはじめに山頂を踏まずにいた四阿山を単独で登り、身体を登山モードに切り替えて、昨年の室堂から薬師岳~高天原~野口五郎~船窪~針ノ木縦走のし残し分を歩けるように準備をしてきた。5月からアキレス腱の周辺に痛みがあり、脹脛も伸ばすと痛いのでかなり臆病になっていたが、身体を鍛え直せと、早朝ウォーキングをはじめ、筋を伸す運動をはじめたところ非常に体調がよくなってきた。これなら行けそうだと思い、連休を利用して行くことにした。今年の課題の一つを実行する。
20日の夕刻、所沢を出て、7月に納車された新型のテラノに取り付けたナピの設定に従い、高速を上田で下りて下道の直進コースを行く。結論的に言うと、ナピは便利である。十二時過ぎに扇沢の駐車場に着く。駐車場は満車状態であったが運よくスペースを確保できた。扇沢の駐車場は漆黒の闇につつまれ、扇沢は静寂そのもの。空の星の触れあう音が聞こえてくようだ。しばし見とれてのロマンチックな雰囲気はそこまでで、腹が減ったのと、食べたかったことが一緒になって、コンビニで買った冷やし中華を真夜中に食べた。明日のことを思い催眠蘂を飲んで車の中で一気に眠った。 満天の星、天の川が白く流れ、ダイヤモンドを散りばめたようなとは、まさにこの夜の天空のこと。キラキラと眩しいほどに星がかがやいている。ともかく凄い。天の川が横たわる。
ゆったりと流れる果てに なだれ落ちる星の滝を思えば 野中れい
私は針ノ木から新腰乗越を経由して種池まで、通常ならば二泊なんだろうが、針ノ木小屋は込むから新越山荘まで一日で行ってしまおうと考えていた。すべては脚の具合どの相談と言うことにして計画した。このコースを昭和16年の『日本アルプスの旅」で見ると、後立山縦走の一部に紹介されていて すでに針ノ木と種池には山小屋があり、新腰乗越はキャンプ地として記されている。針ノ木峠は立山へ抜ける平の渡しから五色ケ原へのルートとして紹介されている。当時の扇沢は今の賑わいとは比べ様もなく、本には「扇沢は明瞭な道とてなく」と書かれ、大沢小屋まで沢伝いに歩くとあり、種池へも現在の柏原新道付近の沢を辿り、籔漕ぎしながら登ったようである。そもそも大町から二十分ほどのバスで大出という所まで行き、そこから五時間かけて扇沢に至るとある。大沢小屋がなぜにあの場所にあるのかといえば、大町から一日行程のところにあったからなのだ。
昭和十年に歌人柳瀬留治が針ノ木を越えて立山に向かっている。勿論 大沢小屋泊りである。黒部ダムができるまでの状況は戦後も変わっていなかっただろう。高度成長期以後の日本は大変化したと言って良いだろう。営林署の軌道が至るところの山から姿を消していった時期でもある。
7月21日
扇沢4:47 登山口、5:07ブナ林看板5:34 大沢小屋、5:50-6:00 雪渓出合6:35-40二俣7:25雪渓終り7:38-45 針ノ木峠(小屋)8:47-9:30 針ノ木岳10:32-50スバリ岳11:33-45赤沢岳・13:25-14:00 鳴沢岳15:15-30新越小屋16:10
「ここはどこ」という感じでバツと目覚めた。時計を見る。四時を過ぎている。周りは薄明るくなって、車が近づいてくる。
「朝だ・・・」
「ウン?」
「そうだ、登る仕度をしなければ.」
朝露のような頭が現実に戻るのに数秒の間があった。シュラフをたたみ、座席を直し、サンダルのまま外にでた。数台の車から人が現れて、登山の身支度をしている。私も急いで身支度をし、出かける。 「おはようございます」と声をかけると、「がんばりましょう」と言った雰囲気の会釈がかえってくる。天気は心配ない。
針ノ木から赤沢岳、新越乗越への稜線に陽があたり始めている。針ノ木には雲がまとわりついている。扇沢を取り囲む稜線を確認しながら、バスターミナル横のゲートの脇にある昔ながらの登山道に入る。陽のあたらない樹木の中を深呼吸しながら歩く。二人連れの熟年組のパーティが先を行く。脚が早い。車道から離れていよいよ大沢小屋へ向かう広場に大きな道標がある。昨年ここに下ってきたときは山に入って六日目でさすがにホッとしたことを思い出した。
20分も歩くと、営林署の朽ちた「株立ちのブナ」の説明看板があって豪雪のためにブナの木が地面に這うように曲がっている状態を「株立ち」と言うのだそうで、この一帯に多いのだとあった。あの巨木のブナが雪の重みに耐えかねてしまうほど雪が降る。小屋一軒・れてしまうのも無理ないかもしれない。
更に行くとアルプスの地質についての説明があり、アルカリ性の花崗岩からなっているとあった。水質に影響するのだろう。また更に、「ブナ林」の説明があり、「日本海側」と「太平洋側」ではブナの林を支える下草の種類に違いがあり、特に「ササ」は日本海側は『チシマザサ」で太平洋側は『スズタ』と言う種類で北アルプスは「日本海側」に属するのだそうだ。少しは賢くなったかのような気になって歩く。沢に出遭うと、小さく「大沢小屋10分」の道標があった。
樹林のなかに見覚えのある小屋が現れ、小屋の裏側に休憩用の椅子とテーブルルがあり、先客がいたので私も休むことにした。夜中の冷し中華のおかげで食事せずに一時間歩いたが、腹もすいてきたのでコンピニの稲荷すしを朝食とする。
「女の人達は、アー疲れたと言っちゃ休み、また少し行っちゃ休むような歩き方をするからかえって疲れちゃうんだよ。ゆっくりでもいいから初めは三十分か一時間のヘースを守って歩くとね、身体がね、心臓とか肺が、こう運動になれてくるわけよ。ちょろちょろとしたんでは身体が慣れる間がなくなっちゃうから余計に疲れるのよ。」
「わかりましたは、そうやって歩けばいいのね」
小屋の中からオヤジの声が響いてくる。「今日は愛想がいいな、女性には結構優しいのかな」と思った。 昨年小屋に立ち寄ったときは、愛想なんてものはなく、長椅子に寝ころんだまま客がきても相手などしていなかった。
「昨日、泊まったんですけど、食事の後片付け手伝わされましたよ。おめえ皿洗え、とか言って、料理には凝っていたわ。なんか独特の美意識があるんでしょうね。なんかシャイなのよ、ねっ」
とは、小屋に宿泊した四人の中年女性の話。口や態度の横柄さよりも、根っからの人の好さが見抜かれているのかもしれない。 (ここから以前書いた原文が紛失しているので、簡単に書く)
小屋から35分ほど樹林の中を歩く。単調な道であった。雪渓の出会いに来るとパッー
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=47b1479f66c653f37704a33aee26a26b&p=1&disp=50#針ノ木雪渓http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=47b1479f66c653f37704a33aee26a26b&p=1&disp=50#
と視界が開けて雪渓に出会う。多くのパーティが休んでいた。昨年ここを下っているが、上るのは初めてだった。軽アイゼンを持って言ったけれど つけることなく登っていき、40分くらいで二股になっている、通称ノドというところだろうか、そこからカール状に広がって稜線が近づく。まもなくして雪渓が終わる。取り立てて書くこともないくらいにあっけない。これが北アルプスの三大雪渓?といぶかりたくなるようなあっけなさだった。昨年下ったときもそうだった。
雪渓の終わったところで若者5人が休んでいた。そこから雪渓は消えて夏道になる。整備されているから楽だ。 降りてきた人の話だと、昨夜の針ノ木の小屋は超満員で、大混雑だという。雪渓がわってから更に1時間歩かされる。斜度がある分きつい。
ちょろちょろと黄色や白の花を見ながら針ノ木の小屋に到着したのは8時47分、丁度1時間だ。小屋の前は広場になっていて、黒塗りの小屋がどんと構えている。株式会社白馬館経営の山小屋の外観は黒だ。ここでたっぷり40分ほど休憩する。 針ノ木谷には雲わいてきてスバリ丈の方へ流れていく。
休憩中に若い女性の二人組みとお話をする。蓮華に登って下るのだという。時間になって、「では頑張って、気をつけてね」と、挨拶して私も針ノ木岳をめざす。針ノ木岳への登りは思ったほどハードではなく、見た目より優しい。途中で雷鳥の親子を登山道の脇で見る。 子供の雷鳥が5羽いた。高山を庭園のようにして遊ぶ雷鳥が手に触れるほどの間近さで眺めている。登山者がみな立ち止まり、カメラを向けている。こげ茶色の夏モードの雷鳥は思ったほど大きくはない。飛べずに歩き回る姿は優雅とは言えないが、保護しなければならない鳥類だろう。嵐の槍ヶ岳を槍平に下山するおりに見た子連れの雷鳥の印象が強い。雷鳥に会うと天気はけっしてよくないと言われている。今日もそうなるのかも知れないなと思いながらその場を去った。
コマクサの群れ咲く岩場に雷鳥は子を呼んでクークーと鳴く
針ノ木岳の手前でテントを背負った上背のある四十代の男性とすれ違う。
「どちらまでですか」と声をかけてきた。
「新越までです」
「赤沢岳と鳴沢岳の登り結構きついから気をつけて」
「どちらから」
「種池からです」
「どうも。」
スタスタと下っていく。私はなんで先の登りを言われたのかなと考えた。どうも私の登りの時の足取りが前から見ていると覚束ないように見えるのかも知れない。現に、針ノホの雪渓を登っているときよりはペースが落ちている。
おむすびのような山頂には大勢の登山者がいる。近づくにつれて賑わいが見てとれる。 10時32分に山頂到着。
小屋からのコースタイム1時間より2分オーバーしたことにショックを覚えた。タイム通りに歩けなかった。「老いたか!悔しい」とおもった。
小屋で一緒になった若い女の子が二人休んでいた。 風があり、夏の強い日差しを受けていても気持ちが良い。信州側はすっかりガスに巻かれ、遠く黒部の奥へ鷲羽や、蓮華もうすい雲のなか、黒部五郎や薬師が青くかすんでみえる。立山・剣は雲の中である。ただジーッと15分ほどしていた
神います御座に近づく思いして忘我に過す風の頂き
針ノ木の下りは、小屋からの登りと形相を一変させて悪相になる。岩場の急な下りで正面にスバリ岳がその悪態をつくようないやらしい岩峰を見せている。稜線から信州側も黒部側もスパッと切れ落ちていて、このコース一番の迫力のあるところだろう。
「スバリ岳」とは変な名前であるが、『日本アルプスの旅」によれば、「実は、『岩す張り』即ち岩石のことをいわすと呼んでいる。地方名から来て、その「岩すが張っている岩盤の山」であると云うのが略されスバリ岳と変じたらしいとある。まさに岩山である。信州側には針ノ木雪渓につながる急俊な雪渓が残っており、冷たい風が吹きあげてくる。
針ノ木の巖にのこる踏み後を小さき人影辿っている
山頂には北アルプスの名だたる山の山頂を記した黄色い道標ではなく、色槌せた古い道標が立っており、針ノ木岳の影になっている山の印象であるが、山頂からの針ノ木岳の姿は間近にあって美しい。このあたりには『恐らく北アルプス山中どこもその比をみないほど沢山のコマクサが咲き乱れている』 と戦前のガイドブックにも書かれているほどに、コマクサが群棲している。
スバリ岳で十分ほどとどまって休んだ。昼食にパンを水で流し込む。天気は全体に雲が多くなってきて芳しくない。先を急ぐことにする。新越乗越まであと三時間半の行程だ。夏山でも一日天気がもつことはめずらしいので、午後三時頃には小屋に着くのがいつもの私の行動目標である。
赤沢岳への道は長かった。稜線歩きの道としては困難なものではなかったが、疲れが出てきて、最後の登りはゆっくりと足を進める以外になかった。赤沢岳に近づくにつれて黒部側に落ちて行くゴジラの尻尾のような奇岩の並ぶ出尾根の迫力に見云っていたや通称『猫の耳』・と言われていた奇岩の尾根だ。山頂と見えたところはコブでその奥に頂が一段高く構えている。もう一踏ん張りと自分に鞭をいれる。山頂間近でテントを背負った単独の男性がゆっくりと登っていくのが見えた。若い女の子の二人は私を追い越して先に着いているはずだ。 時間四十分歩き通した。休まずあるいたが、ここでもコースタイムを十分もオーバーして山頂に着く。
雪厚く残る立山背において黒部湖青くしんと鎮まる
人間が傷つけてゆくとの自然菅き湖悲しみの色
黒部という川の命を堰き止めて生きねばならぬ人の業とは
赤沢岳は2677mの標高をもつ意外と立派な山で山頂から黒部湖の水色の湖面に一観光船がたてる白い波も美しい。目の前の立山と剣の雪渓が白く輝いている。黒部湖の水面がエメラルドグリーンのような色あいで美しい。山頂では単独の男性が見知り合いの中年の女性一一人と言葉を交わしていた。お互いに写真を撮ってもらったりして四人が山頂に残されて最後の組になった。
この人、膝に水が溜まっているし、肋骨も怪我していて、でも来ているんですからね!」とは、相手の「しんちゃん」と呼ばれている女性が呆れ顔で説明してくれる。昨夜は針ノ木小屋は定員の2倍の登山者で身動きも寝返りもうてない状態で寝かされたそうだ。120人の所へ240人が泊まったのだから半端ではない騒ぎであったろう。そんな話を二人から聞かされた。 ここまでくれば後は鳴沢岳へ2時間、乗越山荘30分だからと、すっかり安心していた。結局45分も休んで午後2時に四人で赤沢岳をでた。 鳴沢岳への稜線歩きも多少いやらしい個所もあったが難しくはない。丁度この辺りの下に黒部ダムへのトンネルがあるのだそうだ。女性の一人が脚が遅いのでUちゃん」と呼ばれた女性と歩き、もう一人の女性は名古屋から来たと言う単独の男性と歩いた。鳴沢岳の山頂の登りに取りかかる鞍部で十分ほど休憩した。鳴る沢岳はガスに取り囲まれて、周囲はすっかり視界がない。3時に登りにかかり、15分ほどで山頂に着く。手前で新越乗越の小屋の銀色の屋根が見えた。また山頂で15分休息して小屋にむかう。鳴沢岳の下りは出だしから急な岩場の下りが続き気が抜けないが、 気に高度を提げて行く。
「しんちゃん」は私の後に着いてくるが、もう一人が遅れる。なだらかな斜面にでたころ、ガスの中に人声を聞いた。小屋は狭い鞍部に建っていた。四十分ほど下ったことになる。新越乗越山荘は五年前に新築されていてきれいだ。入口の土間には先客がいて、若い女の子が応対している。
「テント場ありますか?」
「ここは禁止なんで、種池まで行ってください」
「えっ、ないの、これから種池まで歩けないよ。しかたない、ここで泊まるか!」
名古屋の男性も言うので、四人で宿泊の手続をする。彼は素泊まり。木下さんと云うことがわかった。二階の一部屋に案内されると、廊下にはザックが所狭しと置かれて、部屋に荷物は置けず、布団だけ敷かれていて、布団一枚で二人のスペース。この小屋がこんなに混雑するとは夢にも思っていなかった。どのガイドブックにも歩く人は少ないコースと記されているにもかかわらず、こんなに人気があるとは驚きであった。北アルプスで静寂なコースは、針ノホ峠から烏帽子に至るコースしか残されていない。あとは読売新道くらいなものだ。夕食も三回に分けられて、私たちは午後七時の第二班であった。食事の時間まで外で木下さんと山を始めた経緯などを話していた。 午後五時半ごろ六十を過ぎた年配の登山者が針ノホ方面から到着した。最後の客だ。
「どちらからですか」と声をかけると
「扇沢から、針ノ木峠で蓮華を往復したら、まだ時間があってやることないもんだから来ちゃいました。もうくたくただ!」と言って小屋に入っていった。それにしてもやり過ぎというものでしょう。
「なんで山をはじめたの」と私の質問に、木下氏曰く、
「今四十なんですけど、学生時代は野沢温泉で毎年スキー場でアルバイトしていて、足腰は強かったんですけど、結婚して子供ができて、今中学一年なんですけど、それが幼稚園のときに山登りがあったんですよ。遠足みたいなんですけど六甲山にいったんですよ。勿論親が同伴しなければならいでしょう。女房は日焼けするからやだと言うので私がいったんです。そうしたら八合目でダウンしちゃったんですよ。子供はすいすい。こりや遺憾と思って、それからでしたね。オートバイがすきだったんですけど、それも売り払って、山の道具を揃えましたね!」
「凝り性なんじゃないの」
「どうもそうらしいんですけど」
以来、単独で山歩きをし、今年は息子とアルプスを歩くのを楽しみにしているとのことだ。「でも生意気に、テントは背負わないとか、食料は嫌だなんて云うから、水を背負えと言ったら、『良いよ』っていうので、恩いつきり背負わせてやろうと思っているんですよ、まだ吸いの重さを知らないから」
息子と山歩きなんて、私にはできないことだから羨ましい限りである。そこへ、二人の女性が来て、小屋の前のベンチに座って、名古屋の話で華が咲いた。大分涼しくなって薄手のシャツだけでは寒くなったので私は小屋の中へもどった。
夕方立山と剱岳の雲がとれ、上空の雲間から日没の陽が射し、多用の金色の光線と山の黒いシルエットが自然の作り出す絵となって、その美しい光景を楽しんだ。
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「七時のお客さん、食事ですよ」と小屋の女性の声に食堂に入る。こじんまりしてはいるが清潔な部屋だ。
遅い組なので人数も少なくゆったりと食事ができた。 食後、木下さんを誘い四人で夕方の話の続き。彼は料理に詳しくてその話もおもしろかったが、
「温泉たまご、あれ、家で作れるんですよ」
「えっ、どうやって」とは女性陣。
「カップヌードルとかカップラーメンの入れ物が一番いいんですけど、あれに熱湯を入れて、たまごを二十分位いれておくだけでいいんです・澪ぽちだんだん冷めるじゃないですか9だから周りはかたくなるけど中まで節らないから半熟のまま、鍋とか金物は保温がいいからだめですね」
「あっ、そうなんだ。今度やってみようつと」。
実のところ私も家に帰ってから、試したところおいしくできた。これは良いことを教わった。 八時を過ぎて、みな部屋に。私たちも寝る算段をしなければ。もうすでに階段の下に蒲団を敷いて軒をかいて 寝ている人がいる。木下さんがシュラフで寝ると言い出し、小屋の人に交渉していたら、小屋の主人が手招きをする。小声で
「倉庫の二階でよければ」
「倉庫?」
「小屋の外の別棟でしょう?」
「そうです。先客が一人いますが〈それに蒲団も湿っていますが、よければ案内します」 「勿論いいですよ、さっ荷物とってきますから」
二階の所定の部屋に行くと、最後についた年配の男性が入口近くの蒲団でぐっすり寝ている。起こさぬよう荷物をまとめ、二人の女性に、
「良い所があったので、そっちで寝るからゆっくり寝てちょうだい」と言って階下にもどる。 主人が懐中電灯を提げて倉庫へ案内してくれる。小屋の裏手から、鉄の扉を開けて、細い梯子で二階へ。
「すいません、あと二人と一緒してください」
「アシ、どうぞ」と、先に入っていた人の声。
確かに蒲団は大分湿り気があって、気持ち悪かったので、膝にタオルをまいて寝た。午前十一に一度目が冷め たので、メラトニンを飲んで朝まで寝てしまった。混雑の小屋で特等室であくして、目的の大半を終えたような一日が過ぎた。
7月22日
新越小屋5:15 第一のピーク6:15岩小屋沢岳7:10-15 朝の休憩7:35-52 種池山荘9:05-9:35 登山口11:20 扇沢駐車場11:30-45大町温泉郷12:00
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倉庫の二階から抜け出て、木下さんは自炊で朝食を済ませ、今日は爺ヶ岳を往復すると言うので午前五時には小屋を出た。早朝の山は美しい。針ノ木に陽の光がさしこむと黄金色に頂付近が明るくなる。 小屋の前からは、誉霞む富士山がみえる。八ヶ岳、浅間山、四阿山が雲海に浮かぶ。》ろ静かな一時が至福の時のように思える。
「テント禁止なのは、種池の手前からこの辺りまで熊がでるからなんだって。オヤジさんがそう言ってましたよ」
と木下さんが別れ際に説明してくれた。多分九時頃には種池に着くから、小屋で待ち合わせしましょうと言って別れた。
五時十五分が二組目の朝食で、そのころにはかなりの登山者が出かけていた。夕べ遅く着いたグルー‐プが食堂でた事となった。天気は快晴で 食堂の窓の正面に立山と剣岳が昨日とはうってかわって美しい姿を見せている。女性二人には仙人池に行くようにすすめた。 昨日最後に着いた男性とも食事で一緒だったが、この人は会社に金を積み立てて、家族と一緒にヒマラヤトレッキングに二度も行っていると言う。 般ツアーでないほうが安くいけますよと、教えてくれた。もう現役は引退しているが、かなりの企業の役員さんかという感じの人で、話し方も穏やかで紳士である。女性二人と小屋をでるときには六時をかなり過ぎていた。丁度十五人ほどのグープルがいたので、先行させて、最後の出立となった。夕べ倉庫に案内してくれた主人に昨夜のお礼を小声で言う。
「あの倉庫の下にはし尿尿処理する焼却炉が二つあるんです。今人糞は全部燃やして処理しているんですよ。水分を取って燃焼させると両手ですくえるくらいの灰になっちゃうんです。山小屋も環境問題には神経を使わないといけません。この小屋は設備のいい方で、同じ方法を取っているのは五、六ヶ所あるかな」
「この問題だけは大変ですよね。」と、山のごみとし尿処理が多くの小屋が抱える環境問題だと改めて認識させられる。
女性二人も準備ができたので出かけることにする。小屋の主人と受けつけ役の女の子が丁寧に見送ってくれるので、
「ありがとうございました、秋にきますよ。いつまでですか」
「九月二十三日までです」という。
[早いですね」
『もうお客さん来ませんから」
「その前にきます」
「お待ちしています。気をつけていってらっしやい。」と女の子は愛想がいい。
手で軽く挨拶して、小屋の前の従走路に踏み出す。感じの良い小屋でしかも眺望も良い。必ず来ようと思った。
岩小屋沢山までの登りは立山・剣を左手に、針ノホ、蓮華を右にみる。展望台のようなコースだ。三十分歩いて最初のピークに、そこから岩小屋沢山の山頂まで十五分ほど。七時十分に山頂。展望はすこぶる良い。団体を途中で抜いてきたが、彼らが山頂に来るので早々に明渡して、歩き出す。
ま向かえば剣の略の雪渓が垂直に落ちる響き聴くかも
剣岳の明るき岩尾に影つくりひとむれの雲行きむとす
八峰の険しき巖峰眺めやる池ノ平はあの尾根の下
山頂から二十分ほど歩いて、岩小屋沢山の鞍部にでる。扇沢側がスパッと切れ落ちていて、涼しい風が吹き上げてくる。その先に背の高い這松が従走路に日陰をつくっている個所があり、「しんちゃん」が休みたいと言うので、休憩。団体さんを通過させる。 云人の女性は、話の向きからどうも教師のようであった。しばらく下界の話などをしていたが、私は黙って写真を撮ったりして、彼女らが歩き出すのをまった。八時近くなったので歩き出すことにした。昨日は「しんちゃん」が元気だったが、今日は元気がなく遅れ勝ちなのだ。もう一人の女性は家に犬を飼っている。小学校の先生を去年辞めたと言う。高山植物にとてもくわしい。花を見てはこれはなになにとすぐ花の名前を言い当てる。急ぐこともないなと思って、手帳を取りだし、ストックを両方とも手首にかけて引きずりながら、花の名前を書きとめた。
「チシマウスユキゾウ」
「ハクサンフーロー、フーローって、風の露って書くんですよ」
「キヌガサソウ、純白なんですよ。八弁というのが特徴ね」
「これはシャク」、
「ツマトリソウ、花弁のふちが赤いの」
「シギンカラマツ」
「ワイジンソウ、これは礼儀正しいい人の草、礼人草とかきますね」
「それはギシギシ」、
「ヌカン・って言うわね、酸っぱいのよ」
「ニイズルソウ、葉の形、鶴が舞う形をしているでしょう」
「トリカブト、誰もが関心もちますね」 後から、彼女が説明してくれるので名前だけは記すけれど、形まで覚えられないから、帰宅してから図鑑で確認しようなどと思いながら休まずに歩く。
うまれきてわれはわれなり風の露
三十分ほど歩く間に、次から次へと花がでてくる。手帳に書ききれない。気がつくと右手のストックの一段目がなくなっている。ズルズル引きずっているうちに緩んでぬけてしまったらしい。アメリカで買い求めたものだけれど、壊れかけていたので諦めた。花にみとれて下ばかり見ていたが。ハツと視界が開けると、種池の小屋が小高い丘の上に建っているかのように、茶色の屋根が見え 後ろに爺ヶ岳がスクッと丹精な形で控えている。 小屋の手前の小さな登りを越えると、テント場があり、その先に額ほどの広さの平地に種池小屋はあった。脇に柿のタネの形をした小さな池があり、それがこの地名の由来になっていた。
「こんちは」と言って入っていく。 土間の端にザックをおろして休憩する。午前九時を少し過ぎたところだ。小屋の前には大勢の登山者がいて、木下さんのザックがわからない。爺ケ岳がらFりてきているのかも判らずに、しばらくうろうろしていた。小屋に記念スタンプがあったので、手帳に押した。北アルプスを立山から白馬まで繋いだ記念のスタンプである。大学時代に早月尾根から剣岳、立山を歩いて以来、三1年の歳月を経てのことではあるが、ともかく歩いた。昔のコースタイムがないので、’再度登りなおしたいとは考えている。「しんちゃん」は士間の板間に座って化粧を直し、いまはお菓子を食べているが、好き嫌いと言うか体質に合うとか合わないと言うものが多そうで、もう一人の女性が差し出したフルーツの缶詰には目もふれない。軽くしたいからと言うので、一つご相伴に預った。三十分過ぎたときに、混雑する小屋の前の広場で木下さんが私を見つけて声をかけてきた。
「爺の山頂で二十五分位ぽーっとしてました。いないようだから、出かけようかなと思っていたんですよ」
「よかったは、会えて。遅いなと思っていたし、ザックがわからなくて」
「あの角っこに置いたんですけど」と彼は指でしめした。
「合えなければもう下ろうかと思っていたんです」
「じゃ、でましょうか」と言うわけで今夜は大町温泉郷の旅館に宿泊すると言う女性三人に挨拶をして先にでることにした。
九時三十五分、小屋の前で記念写真を撮ってもらい、団体さんの出発を見送ってから出ることにした。周囲はガスもでて来て、あとは下るだけだ。二人の女性とのんびり来た反動か、下り始めると駆け出すような勢いがでてしまって、調子が良い。「このまま行ってしまえ!」とばかり、団体の列を後から「すいません!」と叫んで何組も通してもらった。2時間半で降りられるかもしれないと思った。五十分駆け下って、木下さんが遅れだしたので休憩。 再び駆け下りる。木の根っ子で休んでいる山では珍しいコギャル風女性三人にであう。ガングロ化粧でまつげバッチリ、それでいて用具や服装はきちんとしている。顔立ちもよく、まさに今風の小顔。
「登るの」
「いえっ、下ります」と 二人声を揃えて答える。屈託がない笑顔をしている。
「山ギャルだよ。あんなのはじめてだ!」
「えつ、どこにいました」
「今休んでたでしよう」
「気がつかなかったな!」・
「山でほんとに初めてだね、時代は変るね!」
実際のところ驚いた。もしかすると若い人も山に返ってきているのかもしれない。オヤジ、オバンばかりが幅を利かす山になってはいるが、もともと欧米では大人の趣味領域のス・ーツなのではないかと思うので昨今の状況は、
「日本も成熟してきたんだな」と言う程度のことだろう。登山口へ急激な下りにさしかかり、まもなくだと思った。大きな看板が現れ、登山口に10時4分に到着。一時間二十九分で下った。
「そりゃ、早過ぎるな!」とは、監視員のおじいさん。入口で。パジェロに乗りつけていて、私が休息しようとしたら、こっち!」と手招きしてくれた。事情を話したら驚いてくれた。
「早くても二時間だよ」と笑っていた。
木下さんが十五分ほど遅れて着いた。一時間四十二分だよ!」と、言ってあげると、 「イヤー、バテました!」と言って、横にどかっと座った。荷物がある分後半ついていけなくなった。
「駐車場まで頑張って、温泉にいきましょう!」
「そうしましよう」.
と彼も少し休んだだけで コンクリートの道を一扇沢の駐車場にむかう。先ほどの監視員のおじさんに「どうも!」と軽く会釈して、炎天下の道を歩き出した。
かくして無事、一泊二日の山旅も終りをむかえた。駐車場でンヤツだけ着替えて、木下氏と一緒に温泉郷の薬師湯に行き、汗を流すことになったのだが、日焼けが激しくて、温泉に入れないのだ。露天風呂にも、内湯にも、唯一救いだったのは源泉の湯船があって、温度四十一度の湯船に入れたのみであった。それでもご同輩は多くいるもので 同じような人とお湯に浸かって疲れを癒すことができた。そして 昼食のために大町温泉郷の「麓」と言うそば屋に入った。その店の壁に大町の観光課が作成した大きなアルプスのパノラマ写真がはってある。山で知り合った名古屋の木下さんとしげしげと眺める。
「大町から眺めると、左から烏帽子、船窪、北葛、蓮華、赤沢へ鳴沢、新越乗越、岩小屋沢、種池、爺、鹿島槍、五龍が一望だね、この絵で見ると大町からは針ノ木岳とスバリ岳は見えないんですね」と木下さん。
「蓮華岳が大きいね!」と私。 大町から後立山を一望すると、蓮華たけが中央に三角形の山容を表し、その背後に針ノホとスバル岳が隠されてしから一百名山に挑む人が増えているので人気はある。昭和十年発行の目本山嶽短歌集」にも針ノ木岳の歌はとられていないし、山、峠としても対象になっていないのだ。柳瀬留治の歌集「立山」にも針ノ木岳は詠れていない。唯一
激ちおつる剣針ノ木の百の流れ二三にあつめて黒部の饗かふ 柳瀬留治
という、「昭和十五年宇奈月温泉にて」とある歌に詠みこまれているにすぎない。佐々成正の伝説めいた越中から信濃への山越へ話に伝承される「針ノ木峠」のほうが有名で針ノ木岳は少し寂しい。
我々の真向かいでそばを食べているオバサンが、突然、
「K2を見たときにはみんな涙が出てきましてね、凄いのねえI、感動ものよ」と大きな声で言った。
窓の脇の席で中年女性三人の一人が相席した若い女性に話をしている。「K2」とは言わずと知れた世界第2位の山、パキスタンヒマラヤのカシミールにある山だ。顔を見るとどこかそこらのおばさんなんだけど、百本は豊かな国なんだ」とつくづく思った。K2を見てその姿に感動して涙をながすのは日本人だけかもしれないが、その山を普通の家庭の主婦がヒマラヤの奥地に山を見に行くという情熱と、日本の経済力は凄いと思う。
今回はヒマラヤに三度もトレッキングに行った人にあったり、最後にK2トレッキングに行った人にであったりして、元気な熟年男女がたくさんいて、自分も将来まだまだ元気でいられると実感させれたし、頑張ろうという気を起こさせてくれた山行であった。元気なオジサン・オバサンに感謝、感謝である。
>第7章 稜線をつなぐ:針ノ木岳・鳴沢岳・種池
2001年07月21日~07月22日
7月21日 0:15-4:47扇沢駐車場5:50-6:00大沢小屋6:35-45雪渓出会い7:25二股7:38-45雪渓終り8:47-9:30針ノ木小屋10:32-50針ノ木岳11:30-45スバリ岳13:25-14:00赤沢岳15:15-30鳴沢岳16:10新越小屋
7月22日 6:15新越小屋6:45-52最初のピーク7:10-15岩小屋沢山種9:05-9:35池小屋11:04-21登山口11:30-45扇沢
7月21日 針ノ木から新越小屋
北アルプスを剣岳から白馬岳まで縦走する計画も、ついに最後のコースを残すのみとなり、その実行する時がきた。6月に皇海山、苗場山、7月のはじめに山頂を踏まずにいた四阿山を単独で登り、身体を登山モードに切り替えて、昨年の室堂から薬師岳~高天原~野口五郎~船窪~針ノ木縦走のし残し分を歩けるように準備をしてきた。5月からアキレス腱の周辺に痛みがあり、脹脛も伸ばすと痛いのでかなり臆病になっていたが、身体を鍛え直せと、早朝ウォーキングをはじめ、筋を伸す運動をはじめたところ非常に体調がよくなってきた。これなら行けそうだと思い、連休を利用して行くことにした。今年の課題の一つを実行する。
20日の夕刻、所沢を出て、7月に納車された新型のテラノに取り付けたナピの設定に従い、高速を上田で下りて下道の直進コースを行く。結論的に言うと、ナピは便利である。十二時過ぎに扇沢の駐車場に着く。駐車場は満車状態であったが運よくスペースを確保できた。扇沢の駐車場は漆黒の闇につつまれ、扇沢は静寂そのもの。空の星の触れあう音が聞こえてくようだ。しばし見とれてのロマンチックな雰囲気はそこまでで、腹が減ったのと、食べたかったことが一緒になって、コンビニで買った冷やし中華を真夜中に食べた。明日のことを思い催眠蘂を飲んで車の中で一気に眠った。 満天の星、天の川が白く流れ、ダイヤモンドを散りばめたようなとは、まさにこの夜の天空のこと。キラキラと眩しいほどに星がかがやいている。ともかく凄い。天の川が横たわる。
ゆったりと流れる果てに なだれ落ちる星の滝を思えば 野中れい
私は針ノ木から新腰乗越を経由して種池まで、通常ならば二泊なんだろうが、針ノ木小屋は込むから新越山荘まで一日で行ってしまおうと考えていた。すべては脚の具合どの相談と言うことにして計画した。このコースを昭和16年の『日本アルプスの旅」で見ると、後立山縦走の一部に紹介されていて すでに針ノ木と種池には山小屋があり、新腰乗越はキャンプ地として記されている。針ノ木峠は立山へ抜ける平の渡しから五色ケ原へのルートとして紹介されている。当時の扇沢は今の賑わいとは比べ様もなく、本には「扇沢は明瞭な道とてなく」と書かれ、大沢小屋まで沢伝いに歩くとあり、種池へも現在の柏原新道付近の沢を辿り、籔漕ぎしながら登ったようである。そもそも大町から二十分ほどのバスで大出という所まで行き、そこから五時間かけて扇沢に至るとある。大沢小屋がなぜにあの場所にあるのかといえば、大町から一日行程のところにあったからなのだ。
昭和十年に歌人柳瀬留治が針ノ木を越えて立山に向かっている。勿論 大沢小屋泊りである。黒部ダムができるまでの状況は戦後も変わっていなかっただろう。高度成長期以後の日本は大変化したと言って良いだろう。営林署の軌道が至るところの山から姿を消していった時期でもある。
7月21日
扇沢4:47 登山口、5:07ブナ林看板5:34 大沢小屋、5:50-6:00 雪渓出合6:35-40二俣7:25雪渓終り7:38-45 針ノ木峠(小屋)8:47-9:30 針ノ木岳10:32-50スバリ岳11:33-45赤沢岳・13:25-14:00 鳴沢岳15:15-30新越小屋16:10
「ここはどこ」という感じでバツと目覚めた。時計を見る。四時を過ぎている。周りは薄明るくなって、車が近づいてくる。
「朝だ・・・」
「ウン?」
「そうだ、登る仕度をしなければ.」
朝露のような頭が現実に戻るのに数秒の間があった。シュラフをたたみ、座席を直し、サンダルのまま外にでた。数台の車から人が現れて、登山の身支度をしている。私も急いで身支度をし、出かける。 「おはようございます」と声をかけると、「がんばりましょう」と言った雰囲気の会釈がかえってくる。天気は心配ない。
針ノ木から赤沢岳、新越乗越への稜線に陽があたり始めている。針ノ木には雲がまとわりついている。扇沢を取り囲む稜線を確認しながら、バスターミナル横のゲートの脇にある昔ながらの登山道に入る。陽のあたらない樹木の中を深呼吸しながら歩く。二人連れの熟年組のパーティが先を行く。脚が早い。車道から離れていよいよ大沢小屋へ向かう広場に大きな道標がある。昨年ここに下ってきたときは山に入って六日目でさすがにホッとしたことを思い出した。
20分も歩くと、営林署の朽ちた「株立ちのブナ」の説明看板があって豪雪のためにブナの木が地面に這うように曲がっている状態を「株立ち」と言うのだそうで、この一帯に多いのだとあった。あの巨木のブナが雪の重みに耐えかねてしまうほど雪が降る。小屋一軒・れてしまうのも無理ないかもしれない。
更に行くとアルプスの地質についての説明があり、アルカリ性の花崗岩からなっているとあった。水質に影響するのだろう。また更に、「ブナ林」の説明があり、「日本海側」と「太平洋側」ではブナの林を支える下草の種類に違いがあり、特に「ササ」は日本海側は『チシマザサ」で太平洋側は『スズタ』と言う種類で北アルプスは「日本海側」に属するのだそうだ。少しは賢くなったかのような気になって歩く。沢に出遭うと、小さく「大沢小屋10分」の道標があった。
樹林のなかに見覚えのある小屋が現れ、小屋の裏側に休憩用の椅子とテーブルルがあり、先客がいたので私も休むことにした。夜中の冷し中華のおかげで食事せずに一時間歩いたが、腹もすいてきたのでコンピニの稲荷すしを朝食とする。
「女の人達は、アー疲れたと言っちゃ休み、また少し行っちゃ休むような歩き方をするからかえって疲れちゃうんだよ。ゆっくりでもいいから初めは三十分か一時間のヘースを守って歩くとね、身体がね、心臓とか肺が、こう運動になれてくるわけよ。ちょろちょろとしたんでは身体が慣れる間がなくなっちゃうから余計に疲れるのよ。」
「わかりましたは、そうやって歩けばいいのね」
小屋の中からオヤジの声が響いてくる。「今日は愛想がいいな、女性には結構優しいのかな」と思った。 昨年小屋に立ち寄ったときは、愛想なんてものはなく、長椅子に寝ころんだまま客がきても相手などしていなかった。
「昨日、泊まったんですけど、食事の後片付け手伝わされましたよ。おめえ皿洗え、とか言って、料理には凝っていたわ。なんか独特の美意識があるんでしょうね。なんかシャイなのよ、ねっ」
とは、小屋に宿泊した四人の中年女性の話。口や態度の横柄さよりも、根っからの人の好さが見抜かれているのかもしれない。 (ここから以前書いた原文が紛失しているので、簡単に書く)
小屋から35分ほど樹林の中を歩く。単調な道であった。雪渓の出会いに来るとパッー
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=47b1479f66c653f37704a33aee26a26b&p=1&disp=50#針ノ木雪渓http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=47b1479f66c653f37704a33aee26a26b&p=1&disp=50#
と視界が開けて雪渓に出会う。多くのパーティが休んでいた。昨年ここを下っているが、上るのは初めてだった。軽アイゼンを持って言ったけれど つけることなく登っていき、40分くらいで二股になっている、通称ノドというところだろうか、そこからカール状に広がって稜線が近づく。まもなくして雪渓が終わる。取り立てて書くこともないくらいにあっけない。これが北アルプスの三大雪渓?といぶかりたくなるようなあっけなさだった。昨年下ったときもそうだった。
雪渓の終わったところで若者5人が休んでいた。そこから雪渓は消えて夏道になる。整備されているから楽だ。 降りてきた人の話だと、昨夜の針ノ木の小屋は超満員で、大混雑だという。雪渓がわってから更に1時間歩かされる。斜度がある分きつい。
ちょろちょろと黄色や白の花を見ながら針ノ木の小屋に到着したのは8時47分、丁度1時間だ。小屋の前は広場になっていて、黒塗りの小屋がどんと構えている。株式会社白馬館経営の山小屋の外観は黒だ。ここでたっぷり40分ほど休憩する。 針ノ木谷には雲わいてきてスバリ丈の方へ流れていく。
休憩中に若い女性の二人組みとお話をする。蓮華に登って下るのだという。時間になって、「では頑張って、気をつけてね」と、挨拶して私も針ノ木岳をめざす。針ノ木岳への登りは思ったほどハードではなく、見た目より優しい。途中で雷鳥の親子を登山道の脇で見る。 子供の雷鳥が5羽いた。高山を庭園のようにして遊ぶ雷鳥が手に触れるほどの間近さで眺めている。登山者がみな立ち止まり、カメラを向けている。こげ茶色の夏モードの雷鳥は思ったほど大きくはない。飛べずに歩き回る姿は優雅とは言えないが、保護しなければならない鳥類だろう。嵐の槍ヶ岳を槍平に下山するおりに見た子連れの雷鳥の印象が強い。雷鳥に会うと天気はけっしてよくないと言われている。今日もそうなるのかも知れないなと思いながらその場を去った。
コマクサの群れ咲く岩場に雷鳥は子を呼んでクークーと鳴く
針ノ木岳の手前でテントを背負った上背のある四十代の男性とすれ違う。
「どちらまでですか」と声をかけてきた。
「新越までです」
「赤沢岳と鳴沢岳の登り結構きついから気をつけて」
「どちらから」
「種池からです」
「どうも。」
スタスタと下っていく。私はなんで先の登りを言われたのかなと考えた。どうも私の登りの時の足取りが前から見ていると覚束ないように見えるのかも知れない。現に、針ノホの雪渓を登っているときよりはペースが落ちている。
おむすびのような山頂には大勢の登山者がいる。近づくにつれて賑わいが見てとれる。 10時32分に山頂到着。
小屋からのコースタイム1時間より2分オーバーしたことにショックを覚えた。タイム通りに歩けなかった。「老いたか!悔しい」とおもった。
小屋で一緒になった若い女の子が二人休んでいた。 風があり、夏の強い日差しを受けていても気持ちが良い。信州側はすっかりガスに巻かれ、遠く黒部の奥へ鷲羽や、蓮華もうすい雲のなか、黒部五郎や薬師が青くかすんでみえる。立山・剣は雲の中である。ただジーッと15分ほどしていた
神います御座に近づく思いして忘我に過す風の頂き
針ノ木の下りは、小屋からの登りと形相を一変させて悪相になる。岩場の急な下りで正面にスバリ岳がその悪態をつくようないやらしい岩峰を見せている。稜線から信州側も黒部側もスパッと切れ落ちていて、このコース一番の迫力のあるところだろう。
「スバリ岳」とは変な名前であるが、『日本アルプスの旅」によれば、「実は、『岩す張り』即ち岩石のことをいわすと呼んでいる。地方名から来て、その「岩すが張っている岩盤の山」であると云うのが略されスバリ岳と変じたらしいとある。まさに岩山である。信州側には針ノ木雪渓につながる急俊な雪渓が残っており、冷たい風が吹きあげてくる。
針ノ木の巖にのこる踏み後を小さき人影辿っている
山頂には北アルプスの名だたる山の山頂を記した黄色い道標ではなく、色槌せた古い道標が立っており、針ノ木岳の影になっている山の印象であるが、山頂からの針ノ木岳の姿は間近にあって美しい。このあたりには『恐らく北アルプス山中どこもその比をみないほど沢山のコマクサが咲き乱れている』 と戦前のガイドブックにも書かれているほどに、コマクサが群棲している。
スバリ岳で十分ほどとどまって休んだ。昼食にパンを水で流し込む。天気は全体に雲が多くなってきて芳しくない。先を急ぐことにする。新越乗越まであと三時間半の行程だ。夏山でも一日天気がもつことはめずらしいので、午後三時頃には小屋に着くのがいつもの私の行動目標である。
赤沢岳への道は長かった。稜線歩きの道としては困難なものではなかったが、疲れが出てきて、最後の登りはゆっくりと足を進める以外になかった。赤沢岳に近づくにつれて黒部側に落ちて行くゴジラの尻尾のような奇岩の並ぶ出尾根の迫力に見云っていたや通称『猫の耳』・と言われていた奇岩の尾根だ。山頂と見えたところはコブでその奥に頂が一段高く構えている。もう一踏ん張りと自分に鞭をいれる。山頂間近でテントを背負った単独の男性がゆっくりと登っていくのが見えた。若い女の子の二人は私を追い越して先に着いているはずだ。 時間四十分歩き通した。休まずあるいたが、ここでもコースタイムを十分もオーバーして山頂に着く。
雪厚く残る立山背において黒部湖青くしんと鎮まる
人間が傷つけてゆくとの自然菅き湖悲しみの色
黒部という川の命を堰き止めて生きねばならぬ人の業とは
赤沢岳は2677mの標高をもつ意外と立派な山で山頂から黒部湖の水色の湖面に一観光船がたてる白い波も美しい。目の前の立山と剣の雪渓が白く輝いている。黒部湖の水面がエメラルドグリーンのような色あいで美しい。山頂では単独の男性が見知り合いの中年の女性一一人と言葉を交わしていた。お互いに写真を撮ってもらったりして四人が山頂に残されて最後の組になった。
この人、膝に水が溜まっているし、肋骨も怪我していて、でも来ているんですからね!」とは、相手の「しんちゃん」と呼ばれている女性が呆れ顔で説明してくれる。昨夜は針ノ木小屋は定員の2倍の登山者で身動きも寝返りもうてない状態で寝かされたそうだ。120人の所へ240人が泊まったのだから半端ではない騒ぎであったろう。そんな話を二人から聞かされた。 ここまでくれば後は鳴沢岳へ2時間、乗越山荘30分だからと、すっかり安心していた。結局45分も休んで午後2時に四人で赤沢岳をでた。 鳴沢岳への稜線歩きも多少いやらしい個所もあったが難しくはない。丁度この辺りの下に黒部ダムへのトンネルがあるのだそうだ。女性の一人が脚が遅いのでUちゃん」と呼ばれた女性と歩き、もう一人の女性は名古屋から来たと言う単独の男性と歩いた。鳴沢岳の山頂の登りに取りかかる鞍部で十分ほど休憩した。鳴る沢岳はガスに取り囲まれて、周囲はすっかり視界がない。3時に登りにかかり、15分ほどで山頂に着く。手前で新越乗越の小屋の銀色の屋根が見えた。また山頂で15分休息して小屋にむかう。鳴沢岳の下りは出だしから急な岩場の下りが続き気が抜けないが、 気に高度を提げて行く。
「しんちゃん」は私の後に着いてくるが、もう一人が遅れる。なだらかな斜面にでたころ、ガスの中に人声を聞いた。小屋は狭い鞍部に建っていた。四十分ほど下ったことになる。新越乗越山荘は五年前に新築されていてきれいだ。入口の土間には先客がいて、若い女の子が応対している。
「テント場ありますか?」
「ここは禁止なんで、種池まで行ってください」
「えっ、ないの、これから種池まで歩けないよ。しかたない、ここで泊まるか!」
名古屋の男性も言うので、四人で宿泊の手続をする。彼は素泊まり。木下さんと云うことがわかった。二階の一部屋に案内されると、廊下にはザックが所狭しと置かれて、部屋に荷物は置けず、布団だけ敷かれていて、布団一枚で二人のスペース。この小屋がこんなに混雑するとは夢にも思っていなかった。どのガイドブックにも歩く人は少ないコースと記されているにもかかわらず、こんなに人気があるとは驚きであった。北アルプスで静寂なコースは、針ノホ峠から烏帽子に至るコースしか残されていない。あとは読売新道くらいなものだ。夕食も三回に分けられて、私たちは午後七時の第二班であった。食事の時間まで外で木下さんと山を始めた経緯などを話していた。 午後五時半ごろ六十を過ぎた年配の登山者が針ノホ方面から到着した。最後の客だ。
「どちらからですか」と声をかけると
「扇沢から、針ノ木峠で蓮華を往復したら、まだ時間があってやることないもんだから来ちゃいました。もうくたくただ!」と言って小屋に入っていった。それにしてもやり過ぎというものでしょう。
「なんで山をはじめたの」と私の質問に、木下氏曰く、
「今四十なんですけど、学生時代は野沢温泉で毎年スキー場でアルバイトしていて、足腰は強かったんですけど、結婚して子供ができて、今中学一年なんですけど、それが幼稚園のときに山登りがあったんですよ。遠足みたいなんですけど六甲山にいったんですよ。勿論親が同伴しなければならいでしょう。女房は日焼けするからやだと言うので私がいったんです。そうしたら八合目でダウンしちゃったんですよ。子供はすいすい。こりや遺憾と思って、それからでしたね。オートバイがすきだったんですけど、それも売り払って、山の道具を揃えましたね!」
「凝り性なんじゃないの」
「どうもそうらしいんですけど」
以来、単独で山歩きをし、今年は息子とアルプスを歩くのを楽しみにしているとのことだ。「でも生意気に、テントは背負わないとか、食料は嫌だなんて云うから、水を背負えと言ったら、『良いよ』っていうので、恩いつきり背負わせてやろうと思っているんですよ、まだ吸いの重さを知らないから」
息子と山歩きなんて、私にはできないことだから羨ましい限りである。そこへ、二人の女性が来て、小屋の前のベンチに座って、名古屋の話で華が咲いた。大分涼しくなって薄手のシャツだけでは寒くなったので私は小屋の中へもどった。
夕方立山と剱岳の雲がとれ、上空の雲間から日没の陽が射し、多用の金色の光線と山の黒いシルエットが自然の作り出す絵となって、その美しい光景を楽しんだ。
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「七時のお客さん、食事ですよ」と小屋の女性の声に食堂に入る。こじんまりしてはいるが清潔な部屋だ。
遅い組なので人数も少なくゆったりと食事ができた。 食後、木下さんを誘い四人で夕方の話の続き。彼は料理に詳しくてその話もおもしろかったが、
「温泉たまご、あれ、家で作れるんですよ」
「えっ、どうやって」とは女性陣。
「カップヌードルとかカップラーメンの入れ物が一番いいんですけど、あれに熱湯を入れて、たまごを二十分位いれておくだけでいいんです・澪ぽちだんだん冷めるじゃないですか9だから周りはかたくなるけど中まで節らないから半熟のまま、鍋とか金物は保温がいいからだめですね」
「あっ、そうなんだ。今度やってみようつと」。
実のところ私も家に帰ってから、試したところおいしくできた。これは良いことを教わった。 八時を過ぎて、みな部屋に。私たちも寝る算段をしなければ。もうすでに階段の下に蒲団を敷いて軒をかいて 寝ている人がいる。木下さんがシュラフで寝ると言い出し、小屋の人に交渉していたら、小屋の主人が手招きをする。小声で
「倉庫の二階でよければ」
「倉庫?」
「小屋の外の別棟でしょう?」
「そうです。先客が一人いますが〈それに蒲団も湿っていますが、よければ案内します」 「勿論いいですよ、さっ荷物とってきますから」
二階の所定の部屋に行くと、最後についた年配の男性が入口近くの蒲団でぐっすり寝ている。起こさぬよう荷物をまとめ、二人の女性に、
「良い所があったので、そっちで寝るからゆっくり寝てちょうだい」と言って階下にもどる。 主人が懐中電灯を提げて倉庫へ案内してくれる。小屋の裏手から、鉄の扉を開けて、細い梯子で二階へ。
「すいません、あと二人と一緒してください」
「アシ、どうぞ」と、先に入っていた人の声。
確かに蒲団は大分湿り気があって、気持ち悪かったので、膝にタオルをまいて寝た。午前十一に一度目が冷め たので、メラトニンを飲んで朝まで寝てしまった。混雑の小屋で特等室であくして、目的の大半を終えたような一日が過ぎた。
7月22日
新越小屋5:15 第一のピーク6:15岩小屋沢岳7:10-15 朝の休憩7:35-52 種池山荘9:05-9:35 登山口11:20 扇沢駐車場11:30-45大町温泉郷12:00
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倉庫の二階から抜け出て、木下さんは自炊で朝食を済ませ、今日は爺ヶ岳を往復すると言うので午前五時には小屋を出た。早朝の山は美しい。針ノ木に陽の光がさしこむと黄金色に頂付近が明るくなる。 小屋の前からは、誉霞む富士山がみえる。八ヶ岳、浅間山、四阿山が雲海に浮かぶ。》ろ静かな一時が至福の時のように思える。
「テント禁止なのは、種池の手前からこの辺りまで熊がでるからなんだって。オヤジさんがそう言ってましたよ」
と木下さんが別れ際に説明してくれた。多分九時頃には種池に着くから、小屋で待ち合わせしましょうと言って別れた。
五時十五分が二組目の朝食で、そのころにはかなりの登山者が出かけていた。夕べ遅く着いたグルー‐プが食堂でた事となった。天気は快晴で 食堂の窓の正面に立山と剣岳が昨日とはうってかわって美しい姿を見せている。女性二人には仙人池に行くようにすすめた。 昨日最後に着いた男性とも食事で一緒だったが、この人は会社に金を積み立てて、家族と一緒にヒマラヤトレッキングに二度も行っていると言う。 般ツアーでないほうが安くいけますよと、教えてくれた。もう現役は引退しているが、かなりの企業の役員さんかという感じの人で、話し方も穏やかで紳士である。女性二人と小屋をでるときには六時をかなり過ぎていた。丁度十五人ほどのグープルがいたので、先行させて、最後の出立となった。夕べ倉庫に案内してくれた主人に昨夜のお礼を小声で言う。
「あの倉庫の下にはし尿尿処理する焼却炉が二つあるんです。今人糞は全部燃やして処理しているんですよ。水分を取って燃焼させると両手ですくえるくらいの灰になっちゃうんです。山小屋も環境問題には神経を使わないといけません。この小屋は設備のいい方で、同じ方法を取っているのは五、六ヶ所あるかな」
「この問題だけは大変ですよね。」と、山のごみとし尿処理が多くの小屋が抱える環境問題だと改めて認識させられる。
女性二人も準備ができたので出かけることにする。小屋の主人と受けつけ役の女の子が丁寧に見送ってくれるので、
「ありがとうございました、秋にきますよ。いつまでですか」
「九月二十三日までです」という。
[早いですね」
『もうお客さん来ませんから」
「その前にきます」
「お待ちしています。気をつけていってらっしやい。」と女の子は愛想がいい。
手で軽く挨拶して、小屋の前の従走路に踏み出す。感じの良い小屋でしかも眺望も良い。必ず来ようと思った。
岩小屋沢山までの登りは立山・剣を左手に、針ノホ、蓮華を右にみる。展望台のようなコースだ。三十分歩いて最初のピークに、そこから岩小屋沢山の山頂まで十五分ほど。七時十分に山頂。展望はすこぶる良い。団体を途中で抜いてきたが、彼らが山頂に来るので早々に明渡して、歩き出す。
ま向かえば剣の略の雪渓が垂直に落ちる響き聴くかも
剣岳の明るき岩尾に影つくりひとむれの雲行きむとす
八峰の険しき巖峰眺めやる池ノ平はあの尾根の下
山頂から二十分ほど歩いて、岩小屋沢山の鞍部にでる。扇沢側がスパッと切れ落ちていて、涼しい風が吹き上げてくる。その先に背の高い這松が従走路に日陰をつくっている個所があり、「しんちゃん」が休みたいと言うので、休憩。団体さんを通過させる。 云人の女性は、話の向きからどうも教師のようであった。しばらく下界の話などをしていたが、私は黙って写真を撮ったりして、彼女らが歩き出すのをまった。八時近くなったので歩き出すことにした。昨日は「しんちゃん」が元気だったが、今日は元気がなく遅れ勝ちなのだ。もう一人の女性は家に犬を飼っている。小学校の先生を去年辞めたと言う。高山植物にとてもくわしい。花を見てはこれはなになにとすぐ花の名前を言い当てる。急ぐこともないなと思って、手帳を取りだし、ストックを両方とも手首にかけて引きずりながら、花の名前を書きとめた。
「チシマウスユキゾウ」
「ハクサンフーロー、フーローって、風の露って書くんですよ」
「キヌガサソウ、純白なんですよ。八弁というのが特徴ね」
「これはシャク」、
「ツマトリソウ、花弁のふちが赤いの」
「シギンカラマツ」
「ワイジンソウ、これは礼儀正しいい人の草、礼人草とかきますね」
「それはギシギシ」、
「ヌカン・って言うわね、酸っぱいのよ」
「ニイズルソウ、葉の形、鶴が舞う形をしているでしょう」
「トリカブト、誰もが関心もちますね」 後から、彼女が説明してくれるので名前だけは記すけれど、形まで覚えられないから、帰宅してから図鑑で確認しようなどと思いながら休まずに歩く。
うまれきてわれはわれなり風の露
三十分ほど歩く間に、次から次へと花がでてくる。手帳に書ききれない。気がつくと右手のストックの一段目がなくなっている。ズルズル引きずっているうちに緩んでぬけてしまったらしい。アメリカで買い求めたものだけれど、壊れかけていたので諦めた。花にみとれて下ばかり見ていたが。ハツと視界が開けると、種池の小屋が小高い丘の上に建っているかのように、茶色の屋根が見え 後ろに爺ヶ岳がスクッと丹精な形で控えている。 小屋の手前の小さな登りを越えると、テント場があり、その先に額ほどの広さの平地に種池小屋はあった。脇に柿のタネの形をした小さな池があり、それがこの地名の由来になっていた。
「こんちは」と言って入っていく。 土間の端にザックをおろして休憩する。午前九時を少し過ぎたところだ。小屋の前には大勢の登山者がいて、木下さんのザックがわからない。爺ケ岳がらFりてきているのかも判らずに、しばらくうろうろしていた。小屋に記念スタンプがあったので、手帳に押した。北アルプスを立山から白馬まで繋いだ記念のスタンプである。大学時代に早月尾根から剣岳、立山を歩いて以来、三1年の歳月を経てのことではあるが、ともかく歩いた。昔のコースタイムがないので、’再度登りなおしたいとは考えている。「しんちゃん」は士間の板間に座って化粧を直し、いまはお菓子を食べているが、好き嫌いと言うか体質に合うとか合わないと言うものが多そうで、もう一人の女性が差し出したフルーツの缶詰には目もふれない。軽くしたいからと言うので、一つご相伴に預った。三十分過ぎたときに、混雑する小屋の前の広場で木下さんが私を見つけて声をかけてきた。
「爺の山頂で二十五分位ぽーっとしてました。いないようだから、出かけようかなと思っていたんですよ」
「よかったは、会えて。遅いなと思っていたし、ザックがわからなくて」
「あの角っこに置いたんですけど」と彼は指でしめした。
「合えなければもう下ろうかと思っていたんです」
「じゃ、でましょうか」と言うわけで今夜は大町温泉郷の旅館に宿泊すると言う女性三人に挨拶をして先にでることにした。
九時三十五分、小屋の前で記念写真を撮ってもらい、団体さんの出発を見送ってから出ることにした。周囲はガスもでて来て、あとは下るだけだ。二人の女性とのんびり来た反動か、下り始めると駆け出すような勢いがでてしまって、調子が良い。「このまま行ってしまえ!」とばかり、団体の列を後から「すいません!」と叫んで何組も通してもらった。2時間半で降りられるかもしれないと思った。五十分駆け下って、木下さんが遅れだしたので休憩。 再び駆け下りる。木の根っ子で休んでいる山では珍しいコギャル風女性三人にであう。ガングロ化粧でまつげバッチリ、それでいて用具や服装はきちんとしている。顔立ちもよく、まさに今風の小顔。
「登るの」
「いえっ、下ります」と 二人声を揃えて答える。屈託がない笑顔をしている。
「山ギャルだよ。あんなのはじめてだ!」
「えつ、どこにいました」
「今休んでたでしよう」
「気がつかなかったな!」・
「山でほんとに初めてだね、時代は変るね!」
実際のところ驚いた。もしかすると若い人も山に返ってきているのかもしれない。オヤジ、オバンばかりが幅を利かす山になってはいるが、もともと欧米では大人の趣味領域のス・ーツなのではないかと思うので昨今の状況は、
「日本も成熟してきたんだな」と言う程度のことだろう。登山口へ急激な下りにさしかかり、まもなくだと思った。大きな看板が現れ、登山口に10時4分に到着。一時間二十九分で下った。
「そりゃ、早過ぎるな!」とは、監視員のおじいさん。入口で。パジェロに乗りつけていて、私が休息しようとしたら、こっち!」と手招きしてくれた。事情を話したら驚いてくれた。
「早くても二時間だよ」と笑っていた。
木下さんが十五分ほど遅れて着いた。一時間四十二分だよ!」と、言ってあげると、 「イヤー、バテました!」と言って、横にどかっと座った。荷物がある分後半ついていけなくなった。
「駐車場まで頑張って、温泉にいきましょう!」
「そうしましよう」.
と彼も少し休んだだけで コンクリートの道を一扇沢の駐車場にむかう。先ほどの監視員のおじさんに「どうも!」と軽く会釈して、炎天下の道を歩き出した。
かくして無事、一泊二日の山旅も終りをむかえた。駐車場でンヤツだけ着替えて、木下氏と一緒に温泉郷の薬師湯に行き、汗を流すことになったのだが、日焼けが激しくて、温泉に入れないのだ。露天風呂にも、内湯にも、唯一救いだったのは源泉の湯船があって、温度四十一度の湯船に入れたのみであった。それでもご同輩は多くいるもので 同じような人とお湯に浸かって疲れを癒すことができた。そして 昼食のために大町温泉郷の「麓」と言うそば屋に入った。その店の壁に大町の観光課が作成した大きなアルプスのパノラマ写真がはってある。山で知り合った名古屋の木下さんとしげしげと眺める。
「大町から眺めると、左から烏帽子、船窪、北葛、蓮華、赤沢へ鳴沢、新越乗越、岩小屋沢、種池、爺、鹿島槍、五龍が一望だね、この絵で見ると大町からは針ノ木岳とスバリ岳は見えないんですね」と木下さん。
「蓮華岳が大きいね!」と私。 大町から後立山を一望すると、蓮華たけが中央に三角形の山容を表し、その背後に針ノホとスバル岳が隠されてしから一百名山に挑む人が増えているので人気はある。昭和十年発行の目本山嶽短歌集」にも針ノ木岳の歌はとられていないし、山、峠としても対象になっていないのだ。柳瀬留治の歌集「立山」にも針ノ木岳は詠れていない。唯一
激ちおつる剣針ノ木の百の流れ二三にあつめて黒部の饗かふ 柳瀬留治
という、「昭和十五年宇奈月温泉にて」とある歌に詠みこまれているにすぎない。佐々成正の伝説めいた越中から信濃への山越へ話に伝承される「針ノ木峠」のほうが有名で針ノ木岳は少し寂しい。
我々の真向かいでそばを食べているオバサンが、突然、
「K2を見たときにはみんな涙が出てきましてね、凄いのねえI、感動ものよ」と大きな声で言った。
窓の脇の席で中年女性三人の一人が相席した若い女性に話をしている。「K2」とは言わずと知れた世界第2位の山、パキスタンヒマラヤのカシミールにある山だ。顔を見るとどこかそこらのおばさんなんだけど、百本は豊かな国なんだ」とつくづく思った。K2を見てその姿に感動して涙をながすのは日本人だけかもしれないが、その山を普通の家庭の主婦がヒマラヤの奥地に山を見に行くという情熱と、日本の経済力は凄いと思う。
今回はヒマラヤに三度もトレッキングに行った人にあったり、最後にK2トレッキングに行った人にであったりして、元気な熟年男女がたくさんいて、自分も将来まだまだ元気でいられると実感させれたし、頑張ろうという気を起こさせてくれた山行であった。元気なオジサン・オバサンに感謝、感謝である。