はぐれの雑記帳

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山靴の夢 北アルプス編 第4章 第4章 立山・剱岳恋歌

2016年09月01日 | 短歌
第4章 立山・剱岳恋歌

初めての立山・1968年
北アルプス縦走の始まり・剱岳 1967年の記憶




初めての立山・1968年

一九九九年八月、夜中にも蝉が鳴きやまぬ異状な暑さがつづく。立山を初めて眺め、登山してから三十年以上の歳月が過ぎ、気候も昔と変わってきているように感じるのは、歳のせいだけではないだろう。地球の温暖化が進み、山に積もる雪の畳も少なくなってきている。一昔と言われそうな三十年も前の立山は、八月といえ、雄山・大故山・真砂岳の稜線から雷鳥平にむけて広がるカールには、多くの残雪があつた。九〇牛、九四年、九八年と室堂を訪ねたが、残雪が少なくなつているような気がした。
 立山に初めて登山したのは、一九六八年の夏、お盆の前後、一週間におよぶFACの合宿で、二十三才の時であつた。前の年に初めて剣岳の合宿をしたのだが、立山には行かなかつた。二回目の合宿は、十人前後であったような気がする。その時も剣岳のロッククライミングをメインテーマとした合宿であつたが、その一日、剣沢のテント場から別山乗越から真砂岳、富士ノ折立、大汝山、雄山のコースで立山に遊んだ。

     雄山の峰に立てばはてなき空とはてなき地をばわけてゆく

 天気は晴天であつた。気分は実に爽快であつた。しかし、そのころの景観を思い出すことができないでいるのだが、そのころは山に行っても景色よりも仲間と騒いでいることが楽しかったり、クライミングに関心があつたのかもしれない。雄山についたのは昼前であつたと思う。そのころの立山のカールには、残雪がたっぷりとあつた。
 リーダーの吉野さんが、「グリセードで滑って下りるぞ」と命令した。
 多くの登山者が見守るなか、雄山の稜線付近から、その残雪の上をピッケルをつかい、グリセードで滑り下りた。冬の雪とは違い、三十メートルも下ると雪が腐って、上手く滑らない。私もグリセードで立山のカールを下ることなど考えてもいなかつたので、少し興奮した。みんながみていると思うと、少し恥ずかしかつた。このときコバルトブルーの空が頭上にあつた。燦々と照る夏の陽射しに真っ黒に焼けて、膏春のただ中にあつた。

     立山の残雪をグリセードで滑れば夏空の育はあふれて

 雷鳥平から再び剣沢にもどった。そして立山の記憶は遠い昔のこととして封印されていく。 この年、合宿が終わった後も、私は仲間の一人、長森君と一緒に「下の廊下」を歩いた。しかしながら、この時の記憶が実に唆味なのだ。真砂沢からハシゴ谷乗越を経て黒部ダムにもどり、この時、下から見上げたダムの巨大さには驚かされたし、一気に下界に下ったような賑わいに圧倒された。そして、阿曽原まで下った。
十字峡では、遥から離れて、本流に接した大きな岩までいき、真下に豊富な水量がぶつかりあう光景をみた。その名の通り、黒部川に初沢と棒小屋沢とが左右から出会いまったくの十字になっている。自然のなせる技であつた。この光景だけは強く印象にある。わざわざ岩の上まで身を乗り出して見ていたのだ。阿曽原でテントを張ったと思うのだが、そこから先の記憶がなくなっているのだ。
 二十年後、阿曽原から水平道を歩いて樺平まであるくのだが、その時にも記憶が蘇ってこなかった。多分、棒平に下ったのだと思うのだが、いまその時の様子を書くことができない。長森君も忘れているかもしれない。だが、「下ノ廊下」はよかつたことだけは覚えている。若い時というのは、体力的にも余裕があるので、相当苦しいことにでも出会っていないと記憶に残らないのではないだろうか。多分、二十代の私にとって、あの水平道を長森君となんの想いもいだかずに、せっせと歩いてしまったのに違いない。だからさしたる印象も残さなかったのかもしれない。
 結婚した後、生活に追われ、山を封印してしまったために、山の記憶が薄れてしまった。





北アルプス縦走の始まり・剱岳 
1967年の記憶
 
北アルプスの縦走の出発点を剱岳(2998m)にしたのは、早月尾根から剱岳にその昔登ったことによる。私が妻と企てた黒部五郎岳から笠ケ岳までの縦走と、鹿島槍ヶ岳から唐松岳までの縦走とをつなぎ合わせ、北アルプスを大縦走するには、必然的に剱岳が初めの山となる。剣岳を北アルプス大縦走の最初に取り上げる。もし一つしか山を選ばなければならないとしたら、私は槍ヶ岳や穂高岳を差し置いてこの剱岳を選びたい。この山ほど豪快でかつ繊細、日本にはない山の印象をうける。室堂から見れば恐れられるほど厳粛な姿であり、仙人池・他の平の眺めは荘厳にして優美、剱沢の雪渓から見上れば八ツ峰の岩滝谷の略さとは比べ峻険でありながら明るい。毎年登れるものならこの剣岳を選びたいものである。十代に登った山として思い出の強い山である。

 北アルプス北部の縦走は、一九六七年の夏、私が二十二才のときに始まるn〈私は上野に拠点を置いていたエフアルパインクラブ(FAC)に所属して五年目、夏合宿は剣岳になった。その前二年間は穂高岳潤沢での合宿であつたが、剣岳の合宿に、全員喜んだ。FACは谷川岳南面を主たる活動の壕としていて、成果をあげていた。アルプスに目をむけたのはその後のことであつたから、会員にとつては初めての挑戦であつた。
 私はFAC時代の登山を記録したノートを引っ越しの際に失ってしまったので、細かいこをは分からないが、会員参加者十五人ほどで、横長のキスリングを背負い、興奮しながら上野から金沢行の急行「能登」に乗り込んだ。今から三十年も昔のことだ。私は少し風邪気味であつたが、この機会を逃すことはできないと参加した。
 早朝、富山駅に着き、富山地方電鉄に乗り換え上市へ、そこからバスで馬場島に。天気は雨であつた。早月尾根を一列になって登り始める。雨の湿気と汗で、蒸し蒸しとして辛かった。
そこえ虻の襲来である。手で払いのけながら、首を振りながら、雨具のなかでグショグショになっていた。微熱もあり、真っ当な体調ではなかったと記憶しているが、それでも夕刻、コンクリートづくりの避難小屋に着いた。避難小屋は尾根の唯一ひらたい場所にある。ここがその狭い平地のある処だった。
この当時、伝蔵小屋は休業していたと思う。我々は避難小屋に泊まることになった。雨は一日降り続いていたので、テントを張らないだけでも助かつた。私の記憶するこの記念すべき山行の思い出は、この初日の夜にあつた。荷物を下ろし、泊まりの準備に取りかかる。食事の支度となって「水」がない。
避難小屋の、脇に雨水を貯めてあるドラムカンを覗きこむと水がない。底の方に泥水が溜まっているのであつた。
「コッヘルを外に出して雨水を集めてくれ」
「その泥水なんとかならないか」
「手拭いもっていないか」
「どうするんですか」
「手拭いで泥をこすんだよ、沸騰させれば後は使えるから」「大文恵ハですか、飲めます・・∴
みんなの心配をよそに、ランプの灯りのなかで行動をする。
コッヘルの上に手拭いを被せて、そこに泥水を上からそうっと流す。手拭いの糸の目から水が落ちてくる。
少しは澄んだ水が下に落ちるが、茶色の色が残る。何度も繰り返して水をつくる。「カレーライスだから分からないよ、気にしない気にしない」
などと言い合いながら賑やかであつた。私は疲れた体調の性もあって、面白く眺めているだけだ。
 この水無し騒動の翌日は天気も回復し、早朝出発卓行動中の水をどう確保したのかは記憶にないが、二千五百メートネの森林限界を越えたときは嬉しかったことを覚えている。L早月尾根はともかく一直線に剣岳に突き上げていて、森林限界を越えるまでは、なかなか眺望がえられず、黙々と歩いたような気がする。
森林限界を越えたとたんに、天上が開いたようで、気分がホツとしたことが印象的であつた。そこから先は本格的なアルペン的な領域になっていた。
 そして岩場を越えて、ひょこりと山頂にたどりついた。
 直接頂上に出るというのは、槍ヶ岳の北鎌尾根がもっとも印象的で、いきなり天に向かつて立つという感情をあたえる。この剣岳もその感はある。小さな嗣にお参りして無事を祈る。
 初めて剣岳の山頂に立った時、周囲は雲に覆われていて、四方を征してというような光景ではなかつたと思う。まじかに見た八ツ峰は、そのギザギザに尖った岩の連なりが迫力をもって迫っいた。剣沢にべースキャンプをおいて、八ッ峰の各ルートを登った。数日後、私も長次郎のコルから八ツ峰に取り付いた。

     抱き廻り巌を越えて友を待つ岳蝶のとぶ深耕の上     岩城正春

 長次郎雪渓をつめて、五・六のコルに取り付いて八ツ峰を縦走して剱岳の山頂に立った。紺碧の空の下、気分は最一向〉クレオパトラニー-ドルの特徴ある岩やチンネは印象にある。 そして翌年も剱岳の合宿で、剱の頂に立ったはずなのだが、いま明確な記憶がない。その二度目の合宿は、体調を壊してテント番をしていたと思う。快晴の剣沢で岩の上で日光浴をしていた。お汁粉を食べたと思う。前年の・合宿の時に食べられなかったのを、テント番の時にこつそり実現させたのだ。どんなコースを攻めたかなどというよりも、そんな記憶しか残っていないのだから、お恥ずかしい。
 この紀行文を書き初めて、若い日々に踏んだ剱岳からの眺望が、少しつつ整えつてきた。八ツ峰を登聾したときのあの澄みきった青空は美しかった。そして岩が穂高の滝谷の暗い雰囲気と異なつて、明るくヨーロッパアルプスの岩場のような感じがした。三の窓、池の平山、八ツ峰からの眺めである。池ノ谷の深い切れ込みを上から覗いた。剱岳の頂には、その後三十年間以上、立っていないのだ。九十年の夏に妻と一緒に黒百合のコルまで行ったが、前日の低気圧の通過の影響が残っていて、山頂を渡る雪が飛ぶように早いので、登頂を断念した思い出がある。

      湧きあがる雲迅くしてたちまちに視界にあらず大き剣岳    岩城正春
      剣嶽八ツ峰岩峰にたまきはる胸躍すれわが老いにける     柳瀬留拾


 いまから思えば私も若かつた。その青春の一歩をこの剱岳に記すことができた。いずれまた早月尾根から剱岳に登るであろう。この北アルプス北部の太縦走が、三十年前から‥績まっていたとすれば、私の山への想いは綿々として持ち続けられていたことを表わすことになる。ただ唯一残念なことは、剱岳が測量の結果、三千メートルの山でなくなつてしまったのが、確かこの時期のことだったように