はぐれの雑記帳

極めて個人的な日めくり雑記帳・ボケ防止用ブログです

短歌に帰る

2019年01月20日 | 短歌
2019年も何事もなく迎えたものの、不安が胸につかえたままで、決して明るくはない。
来し方を振り返り、自らの暮らし方を悔いるのみだが、ここでへこたれても始まらぬ。
久々に、短歌を思い、歳相応に歌を詠もうと思った。慰めに過ぎないが。
新年になって、連休の日に部屋の模様替えをした。本箱を移動させ、並び変えるだけだが、だい雰囲気も変えた。
短歌の本を手元に置いた。
山頭火の本と、斉藤茂吉の選集6巻、蕪村集(中村草田男)、穂曾谷秀雄の歌集、牧羊社の「幻の名歌集」、「塚本邦夫の『清唱千首』」塚本邦夫自選歌集『籠歌』を置いた。さらに本箱の文庫版の棚に「日本の詩歌」。
そんなとき、何気なく手に取った「幻の名歌集」に斉藤史の「うたのゆくへ」から、次の歌を見つけて強く響いた。

 ぎりぎりに耐えて居るなり寒の夜の裸木立よ枝も枯らすな

 なま乾く干物ぼろシャツ靴下などみるに言いえぬ口惜しさあり

まさに今の私の心境にパシッと刺さったのだ。
<ぎりぎりに耐えて居る>この句の切なさがたまらない。<枝も枯らすな>と自分に言い聞かせている。
この当時、昭和26年から27年にかけての戦後のつらい時代であった。誰もが「ぎりぎり」の暮らしであっただろう。
「生乾く」の歌に彼女の思いが出ている。「口惜しさあり」とは、本来ならば、と言う自らへの強く在りたい思いを詠った思う。
いやほんとに、この「今の状況」が《口惜し》いのだ。苦境をのりこえる魂の叫びに聞こえる。
そして自分にも重なるのだ。

古い携帯用の手帳に短歌を書きしるすようにする。たまたま土曜日の朝に出かける車の中で、NHKの文芸の時間が「短歌」の時間で、
篠氏が選者の番組を来ていたら、一首、心に残った歌があった。

 そうだねとやんわりかわすわれの愚痴妻陽だまりのように老いゆく

投稿歌である。常日頃の私たち夫婦の会話に求めたい柔らかさがあって心ひかれた。「そうだねと」の出だしの句に奥さんのやさしさを見た。
だから「陽だまり」の言葉が効いてくる。ただ私は「老いゆく」が気に入らない。やんわりとかわす=陽だまりのようにやさしいと妻に感じたわけで、それを「老いゆく」で受けてほしくなかった。ともに老いていくわけだし妻だけではない。だから私は、

 「そうだねとやんわりかわすわれの愚痴」とうけ、下句を何とか変えたいが、うまい言葉が浮かんでこない。もしこのように妻がかわしいてくれるならば、穏やかな日々が送れると思うのだが。これは宿題かな。

  そうだねとやんわりかわすわれの愚痴 妻陽だまりに猫なでている

いま、ふっと浮かんだが、どうだろう。自分も猫も妻にとっては同じ扱いかな。

「ぎりぎり」の歌と「そうだね」の歌から、今日考えていた歌一首、

  あなたなら大丈夫よと声をきく洗い物する妻そっと見る

  へこたれるへこたれ方をわれしらずただただ我をささえてる吾 


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