はぐれの雑記帳

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山靴の夢 北アルプス編 第2章 青春の穂高岳

2016年08月30日 | 短歌
第2章 青春の穂高岳


第2章 青春の穂高岳
目次
1965年夏合宿穂高岳の記録・登攀編
クラック尾根
涸沢岳東稜
北穂からジャンダルム
青春の穂高岳回想 1965年 涸沢でのヤケド事故
1966年夏合宿穂高岳
青春の穂高岳回想 1965年 ザイテングラード滑落事件(松本悲恋物語)



1965年夏合宿穂高岳の記録・登攀編クラック尾根             記 軍司克己
8月9日 
パーティ L 加藤 中村 軍司
BC 5:25 北穂高 8:00-8:10 取り付き点9:00-9:30ジャンケンクラック12:00-12:30
稜線4:30-15:30 BC 17:00
加藤さんをリーダーとして、中村さんと私の三人で、5時25分BCキャンプを出発、北穂への道を体調を整えるのに苦労しながら歩む。天気は快晴、北穂高の山頂に着く。初めてみた北アルプスの全貌は新鮮であり、偉大な光景であり、そしてショックであった。10分の休みを後、取り付きまで歩を進める。B沢の下降は互いに注意を要し、途中取り付き点を一ヶ所あやまって旧メガネの下部に出てしまったが、誤りと気づき再び下降し、P2フランケが真正面に構え、暗く隠れる第一尾根の壁を眺める取り付き点に9時到着。9時30分に登攀を開始。2ピッチで旧メガネのコルに着き、ここから2mほど降り小さなクラックを利用して、テラス上部に着く。クラックが「入」型に入っており、乗り越すと、広いバンドが走っている。さらに上のテラスを目指す。ジャンケンクラックは10メートルほどで、真ん中を登る。上は浮石の多い不安定なT6・T7までB沢側に、浮石を注意しながら行くとガラ場で踏み後のあるT8に着く。北穂は赤旗が立てられており、それを目指して登る。さらに、左よりの凹角を登ると踏み跡が北穂高小屋まで導いてくれた。稜線にトップで出る。BCへ下る。
        
涸沢岳東稜
8月10日
パーティ 中村 軍司
BC 7:30 ザイテン 8:20-9:00 涸沢岳下部 9:40-9:50 取り付き点 10:0-10:20 ツルム 11:30 終了12:20-14:00 
今朝も調子よく、ザイテンから、ガラ場をトラバースして取り付く。2時間で登攀終了。
途中ツルムだけが注意すべきところだった。ここで明日、昇る女子のために打ったハーケンを後発のパーティに持っていかれてしまった。中央稜パーティのルート指示を行い、N曰く「まるで、ルート指示に行ったみたい」な登攀であった。 


北穂からジャンダルム  記  高橋 
8月11日  
パーティ L軍司 山下 高橋
束壁パーティを送り、また一眠りして、テントキーパーの二名と四尾根パーティを残してBCを出る。
南稜の登りは風が快い。
北峰への道を行く。北峰で松波岩の横に出て、滝谷をのぞきこめば、ドームの姿が迫力がある。せっかくルートを憶えてきたが、そこは入らない。クラック尾根を前日登って来たGは滝谷の概要を細かく説明してくれる。北峰を下れば滝谷へ入る。女性クライマーの姿が無性に目につく。雪溪を過ぎ、四尾根へ入るI達に会って、「遊んでいるんじゃないぞ」とどなられた。
涸沢槍の頂上から、明日の登攀じるルートの説明をGにしてもらう。明日登攀だ。穂高小屋で小休止、小休止はまちがい、大休止でした。奥穗の頂上は良くない空を見あげると雲があり、一線にならで来る。すわ、寒冷前線だ。さあ、急ごう。雲が来るのは早い。雨が降りはじめた、ジャンヘ向う。馬の背あたりから激しい雨に変った。リーダーは「登るか?」と聞く。「登ります。ここまで来たんだから、こんな所で帰えれるか、自分の心の中で答える。ジャンのポロポロの岩が冷たく姿あらわす、Tフランケ、正面フェース どれも私の手ではどうにもならない。頂上に立てば激しい風と雨に写真どころではなく、そうそうに下る。馬の背を過ぎればもう水の溜ったホールドも、何も関係がない。
広い稜線だ。東壁は、四尾根は、自分への反省が心の中に渦く。穂高小屋へとびこめば温いお茶が憎い。昼食を取って小屋を出る。病みあがりの私をGは細かく気をくばってくれる。下降しはじめれば、稜線ほどの風はない。不気味な落石の音が、雨の中に響く、小屋を過ぎればBC、エールを掛ければ、メガネが曇る、天幕の中は、温いホェープズの音だけだった。(高橋・記)

夏 (事故報告
8月11日午後7時35分、天幕内にて、コンロに燃料補給の為コックをゆるめると同時に気化したガソリンが隣にて使用中のコンロに引火して、コンロ消火時に天幕入口附近にて火傷を負う。
ただちに涸沢ヒュテの東大医療班に手当を受け12日早明七名にて横尾山荘に下る、山荘より車で上高地迄行き派出所にて車チャター松本病院に向い入院する。
  反  省
今度の事故に関してコンロ使用上のことにあると思う。とかく天幕内でのコンロのコックの開閉は今迄天幕外で行われていただろうか?全員が深く反省する次第である。
事故が発生すれば、たとえどんな事故でも、他の人に迷惑が掛かるという事を十分に考えなければならないと思う。当事故にかぎらず個々が気をくばり対処出来る問題である。又警察署を初め、東大鉄間クラブ、涸沢ヒュッテ、横尾山荘の皆さんに最後迄御世話下さいました皆様には何と御礼の申し様が無い
気がします。鎌 田 靖 史   記

☆はるか40年前の記録である。
この事故については、このブログのエフアルペンクラブのに「穂高岳の思い出」として書いてある。
事故そのものは、私の不注意であって、テント内でコンロの操作を誤ったのであって、その結果多くの先輩や仲間に迷惑をかけた。
あらためて記録に接して、当時のことがよみがえってくる。この事故は「北穂よりジャンダルム」の記録に書かれているように、雨の中帰幕してからのことであった。事故そのものよりも、今思うとその後の対処について、若さゆえに配慮のかけたことがいかに多かったかと悔やむ思い出いっぱいだ。リーダーの吉野さんや蒲田さん、背負って横尾に下ろしてくれた雨宮さん、田中さん、中村さんなどに、誰が背負ってくれたかは定かでないのだけれど、ほんとにお礼を言いたい。皆さんにご心配をおかけしながら、その後大学での紛争などに巻き込まれて、十分に山にいけなくなぅて、恩返しが出来ていないことにあらためて気づく。それだけが悔やまれて成らない。
しかし、その時の仲間の助けがあったからこそ、山に対する想いを断ち切れずに、今も登り続けている。その気持ちを植えつけてくださったのは、本当に皆さんのおかげです。ありがとうございました。


青春の穂高岳の思い出 1965年
涸沢でのヤケド事故
穂高岳を語ることは私の青春時代のすべてを語るに等しい。穂高に初めて登ったのはFACの1965年の夏年度で私が二十歳になってのことであった。槍ヶ岳の北鎌尾根から槍ヶ岳そして大キレットを越えて掴沢での合宿と2年続けて穂高に入った。1965年の穂高・涸沢での合宿のときに事故が起きた。その合宿では北穂高の東稜とか滝谷のクラックとか涸沢岳の岩稜などでロックライミングをし、休養を兼ねて、8期生の女子を連れてジャンダルムまで往復したり、数日を過ごした。何日目であったか覚えていないが、滝谷の岩場をえてベースに帰ってから、夕刻小雨になった。食事を済ませてからのことだった。時刻は七時をすぎていただろう。
カマボコテントで十人位いたと思うが、ガソリンを燃料とするホエブスを二台使用していた。そして私の前のホエブスのガスがなくなって、火が消えた。
「なくなった」
「いれるか」
「まだ熱いな」
私は今日の行動でかなり疲れていたようで少しボーとしていた。外が雨だと思ってテントの中でホエブスの燃料れようとしていたのだ。ホエブスはバーナーの部分と燃料タンクの部分が一帯になっていて、燃料を注入する口が一つあり、あとはノズルで空気を送ってガソリンを圧縮して火をつける仕組みだったと思う。石油を使用したラジュースと言うのもあったが、火力が違い、もっぱらホエブスが当時は主流だった。
私が注入口の蓋のネジをまわして緩めたとたん、ジュワーと音がして、気体化したガソリンが噴出した。瞬間に「ボワッ」 と音がして液体になったガソリンに引火してホエブスが炎に包めれた。
「キャッー」
私のそばにいた人たちは驚いて声を上げた。奥から鎌田さんが、
「外へ出せ!」と大きい声で言った。
外では「火事だ!」と叫んでるのもいた。私は外に出て、火のついたホエブスを放り出しやすいようにテント
の入り口の幕を巻くしあげた。鎌田さんがタオルかなんかでホエブスをつかんでいるのが見えた。
ほんの一瞬だった。鎌田さんがホエブスを外に放り出したのと私の足にあたったのは。私は顔の前がワと赤く なり、髪の毛が焼けるのがわかった。足にも炎が立った。
熱いとは感じなかったが、その場で私は火を消すには地面で消すしかないと思ってそのまま転がった。土に身体をつけて火を消したのだ。テントから五メートルくらいまで転がったのだろう。火が消えたので私は立ち上がった。周りは岩のゴロコロしている涸沢のテント場なのに、不思議に岩や石にはぶつけていないのだ。テントのまわりに人が出て来ているのがわかった。何事がおきたのかと騒いでいるのだ。
「大丈夫か?」
深田君がライトを照らしながら神出君と見にきて、立ち上がった私の足を照らした。
「足、血がでてるね、皮がむけてる!」
「診療所があるよね。そこまで行くわ!」
「行くぞ」と叫んで、私は裸足のまま涸沢小屋の近くに夏場だけ開設している大学の診療所をめざした。
大きな岩の上を夜の暗がりのなか、私は跳ねた。後から深田君がライトを照らしながら一緒に来てくれた。三百メートルくらいだろうか、|息に走った。
涸沢小屋に近い別棟の診療所の入口は電気がついていて明るい。入口の看板を見て飛び込むように戸を開けた。
「すみませーん!」と自分では出せるだけの声を出した。
私は土間の上がり床の中央に腰を下ろし手を床について座った。
「あの、ホエブスで、当って、やけどしたんで.・・・」
自分でなにか説明をしているのはわかるのだが、気は高ぶっていた。身体を動かそうとしたが、もう動かない。腰が立たなくなっている。土間は広く、天井から電灯が一つぶら下がっている。土間の景色はわかるのだが、そこまでだった。私は気を失ったらしい。
実際には深田君が一緒にいてくれて、私を運んだりして、点滴を打って一晩明かすのだが、覚えていない。夜中に目が覚めた。窓から星明りが見えた。意識はあったが身体は全く動かない。神経がなくなっているようだった。
翌朝、私は首から上、包帯を巻かれ、足もぐるぐる巻きにされていた。短パンをはいていたので、繊維が燃えて皮膚に癒着してしまうことがなく、不幸中の幸だったらしい。
結局、私はその日、リーダーの吉野さんが松本の病院まで一緒に行くということで、雨宮さんや、田中さんやあと何人かの人に背負に背負われて上高地に下った。シュラフにからだを包み、顔は包帯で巻いて、首から上が人目にふれる。うつらうつらしていても身体はまったく動かせない。行き交う人達が好奇な目で私を見ているのがわかった。「見世物みたいだ」と、元気になった私はロを開いた。
上高地からタクシーで国立松本病院に入った。
しかし、実際のところ松本の国立病院に入院して一日過ぎるまで、ほとんど意識は檬朧としていたみたいで、かいことは記憶にない。
その日のラジオで私の事故がニュースになった。「無謀登山」と言っていたと、後できかされた。私は国立松本病院に三週間近く入院した。父も心配して駈けつけた。顔のやけどは口のまわりと眉毛と鼻の頭が一度の火傷で、左足の太ももの外側に三度の火傷を負い、あとは脛毛が燃えて、毛穴がふさがれて、皮膚がつるつるになってしまった。|番重症だったのは左の太もも部分で、この皮膚の回復に時間がかかった。結局その部分は今でもケロイドの症状になってのこっている。
この事故は全く私の不注意のなせるところで、原因は私にあったのだが、後で思うに、あの時よくも診療所まで走れたと言うことだった。安心したとたんに力が抜けたのだ。気力と言うものか。若かったのだ。それと転がったときに岩にぶつかっていないこと。人間の身体には不思議な力が備わっているものだと思った。
この事故の後の、山仲間に対する私の配慮はどうであったのか、今では世話をかけておきながら無為に済ませていたのではないかと悔やまれる。




1966年夏合宿穂高岳
私が20歳のときの記録が見つかった。FACの機関紙「桔梗」11号にはじめての穂高の合宿の記録を以下に転載する。この夏合宿で私は火傷の事故を夏季合宿本体入山
8月7・8日
パーティ L 大沢 加藤 中村 川那辺 山下 小林
陽ざしがさしはじめた冷気のなか、上高地に降り立つ。ざわめくハイカーの真をぬって明神へ歩を運ぶ。木立に囲まれた小道はたとえ天下の滝谷へ通ずる道であっても、キスリングを背負った一団は奇妙にさえ思われる位ハイカーのメッカである。
明神から徳沢園の間もすれちがう人々の列は絶え間なく続き、徳沢園も横尾もかつてのただずまいはない。
横尾橋の近くにて大休止、フライパンでジュージュー焼いた肉の美味しかった事。
約一時間休んだ後,OとKの二名を残して出発、それまで単調な道と違ってペースが乱れはじめた。本谷まで暑さにむせながら冷水で喉を潤す。Oが追いつきKは徳沢へ向ったという。涸沢に入り道は急登となる。少し歩いては休み、又行っては体み、段々バテてくる。荷物の重くなったOは遅くなり、叉トップにいたNは一人先に行ってしまった。後から来るサブザックのハィカーがどんどん追い抜いて行く。ペースがすごく遅くなったためかBCには着かない。やっと小屋が見えても全然近づかない感じである。その直下Yが腹痛を起こし道の脇へ座り込んでしまった。YとともにK先輩も残ったので一入BCを目ざす。小屋のすぐ下なのに何回も何回も休んでやっと天幕地に着く。ちょうど上から滝谷から帰った先発の方々が降りて来たのでそのまま他の人を迎えに行ってもらう。
なつかしいFACのテント前には先に来たNがニコニコと笑い顔で待っていてくれた。暮れようとする涸沢を囲む山々に向いながら「登りたい」という想いに胸が締め付けられそうになった。
*1965年8月涸沢BCから穂高の岩に挑んだ記録。実に若かったという印象がよみがえってくる。



青春の穂高岳回想 1965年
ザイテングラード滑落事件(松本悲恋物語)

私は左太もものやけどの治療を東京の病院で続けることにして九月退院した。翌年はNHKで連続朝のテレビ小説「おはなはん」が放映されていて人気があったことを覚えている。入院中に看護に当ってくれた看護婦さんの一人と仲良くなって、|年以上の交際をした。これはこの事故の後篇部分だ。
回復して1年が経ち、身体も元通りになり、
そして翌年、一九九六年六月、私はチカちゃんをつれて奥穂高岳に行くことにしたのだ。この年は島々から上高地への道路は、昨年の台風の被害を受けて分断されていて、稲刻から沢渡まで一時間歩かされたのだ。
上高地から洞沢まで登る。残雪もかなりあったと思うが、どう登ったか覚えていない。個沢小屋に一泊し、翌日、奥穂高を目指した。天気は曇り、あまりよい天気ではなかったと思う。ピッケルを持ち、登山靴にアイゼンをつけてザイテングラードを登る。ノーザイルである。チカちゃん、雪山ははじめてである。強引に誘った感がないではなかったが、二人は若かった。私の二十一才の誕生日に近いころだったと思う。ザイテンにも白出のコルの穂高岳山荘にも雪はあった。十時頃に山荘に到着した。奥穂高岳の山頂を目指すには、小屋の目の前の岩場を越えねばならない。技術的に「チカちゃん」にそれを強いるのは危険だと判断して、山荘まで来たことで満足し、展望を楽しんで、十分に休息してから下山することにした。
再び来た道を戻る。ザイテングラードに取りかかる手前でチカちゃんに「アイゼンの雪を払ってね、だんごになったら滑るから」と、私はピッケルで、アイゼンに付いた雪を叩いて払う仕草をした。アイゼンワークで、クラストしていない雪のときには一番危険なことだからだ。
「ええ」と彼女は答えた。
彼女が私の前になって、ザイテングラードのルートに取り付こうとしたとき、チカちゃんが消えた。
カールに滑り落ちたのだ。私の足元からは彼女の姿が見えない。カールの斜度はかなり急である。私のたってるところからでは下が見えないのだ。
「オーイ、大丈夫かー!」と、私は叫びながら、ザイテングラードに付いている踏み跡を下る。何事が起きたのか不安な気持ちが私の顔から血の気を奪った。
「大丈夫だぞI!」と下から男の声が返って来た。
私は急いでザイテングラードを駆け下る。百メートルほど下って、やっと彼女が個沢の雪のカールの真中に横たわっているのが見えた。
「生きてるぞ!」と再び声がした。私は少し落ち着きお取り戻した。でもこの下からの言葉にはずいぶんと助けられた。
ザイテングラードの中ほどに男性がいて見ていたのだ。
「いや、すみません、ありがとう」とその男性に礼を言った。
「大丈夫そうだよ」
「どうも」と.ぺこりと頭を下げたがその人の顔など覚えていない。私はその男性のところから、洞沢のカールは 広い。その真ん中に横たわっているチカちゃんが上半身を動かしている。斜度はかなりあるが、カールの雪面をトラーバースして彼女のところまで走った。実際には駆け出せないのだが、気持ちはそうだった。胸の鼓動が早まって、事故ったらどうしようと不安にかられた。しかし近づくと彼女は起きあがった。
「大丈夫かい?」
「ピッケルがうまくささって止まったの」
顔色はさすがに色がなかった。どこもぶつけたところはないようで外傷はない。少しほっとした。
「ザックがばらばらだ!」
ザックの口が開いて中のものが散乱している。ともかくその場にピッケルを立て、それに掴って動かないよう指示する。散らばった物を拾い集める。
「二百メーター以上滑ったかな」と私は上を見上げた。
「怖かった!」と彼女の少し元気がもどったような声に二人とも緊張が解れた。
「でももう大丈夫だよ、痛いところない?」
「ないわ」
少し落ち着きを取り戻してきた。
「よかった!怪我もなくて」
「ずいぶん滑ったでしょう?」
「驚いたよ、いきなり見えなくなったんだから」
落ち着くのをまって、ザックを点検し、体制を整えて、そのままカールの雪の上を歩いて小屋に戻った。
そしてその日のうちに松本に戻った。この時に失くした定期入れが半年後に拾われて戻ってきた。一九六六年の九月。

チカちゃんとは、その年の夏、大学のゼミの合宿を乗鞍高原の民宿で行ったので、その帰路松本でデートした。
大学のゼミの者と一緒に再び涸沢小屋に泊まったような気がするが、定かではない。はじその年の9月の初めにチカちゃんと表銀座を槍ヶ岳まで縦走した。燕岳から大天井岳の稜線はこまかい秋雨、雲の中を歩いた。彼女との山はそれが最後となった。
「チカちゃん」とは百通くらいの文通をした。結婚も考え、一度は親にも紹介したが縁がなく、悲恋物語になった。
その時以来個沢には行っていない。
松本の街は青春の想い出が一杯つまった街だ。一番好きな街かもしれない。
穂高岳。美しい山だ。私はそれから3年後に結婚して、生まれた娘に「ほたか」と名付けたのだ。
  
写真FAC時代(チカちゃんではありません) 北穂高から槍ヶ岳


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