はぐれの雑記帳

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トイトレイン紀行(01)インド到着

2020年10月05日 | 海外旅行記

トイトレイン紀行(01)インド到着

序章 未知の大陸へ

この旅行を企てたいきさつを振り返る。インドへ旅行を計画したのは、まったくの偶然でもあった。以前NHKのハイヴィジョンスペシャルの山岳鉄道シリーズのインド編で、ダージリン・ヒマラヤ鉄道が紹介された。古めかしい1世紀も前の機関車が煙をはきながら、民家の軒すれすれに走る姿が、鉄道好きの私をたちまち魅了してしまった。

ユーラシア旅行社にこのコースがあったが、値段が高い。とても貧乏人にはいけない。でも行きたいとの思いは募るばかりであった。ところが偶然インターネットで旅行会社を検索していたら、新日本トラベルのインドにこのツアーがあることを知った。ちょうど2005年の9月ごろであった。すぐに電話をいれて確認したら、このコースを受け付けていますと言う返事。ただこのツアーは団体旅行の添乗員付きとかのものではなく、まったくの個人旅行形式で、現地までは自分たちで行かなければならい。
スケジュールを見ると、初日成田をでて、クアラルンプールで乗り換えてコルカタに行く。コルカタで現地ガイドと合流する。翌日はコルカタの市内観光をして列車でダージリン・ヒマラヤ鉄道の出発駅であるニュージャルバイグルまで行く。これは夜行列車である。
3日目に、ダージリン・ヒマラヤ鉄道に乗り、ダージリンへ行く。ダージリンは高度2000mの位置にある街で歴史がある。ダージリンでは4日目と5日目午前中を過ごして、シッキム州のガントクに行く。6日目はガントクで過ごし、7日目の朝ニュージャルバイグルに戻り、再び夜行列車でコルカタへ帰り、8日コルカタ観光をして夜日本へ帰る飛行機に乗ることになる。不安にはこと欠かない、行って見ないとわからない旅行である。

以前、初めての妻との海外旅行のパリが、添乗員のいないたびであった。心配はつのるが、行ってみたいという気持ちの方が強く、旅行会社を訪ねパンフレットをもらい検討した。いくつかの出発の日にちがあったが、金額の一番安い日を選択した。結果的にはこの選択は正しかったのだが。特に、コルカタからの夜行列車の時間について、当初示された列車では、午後コルカタを出て、午前4時半にニュージャルバイグルに到着して、朝の9時まで列車を待たなければならないので、この変更をもとめた。ダージリン急行だと、このトイトレインの出発に合う時間に到着するのだが、そのキップはとれなかった。だいぶすったもんだして、現地の旅行会社の担当者が駅まで予約にいって、午後7時30分発の夜行急行を確保した。これで私も納得して、手を打った。新日本トラベルの担当者は杉山さんという24歳くらいの女性だが、迷惑をかけた。不安なところで変な時間をすごすわけには行かないと思ったからだ。

1月6日出発で予約する。私の旅のパートナーである裕子は、このインド行きに不安気であったが反対しなかったので助かった。書類が郵送されてきて、必要事項を書き込み、残金を納めて出発日をまった。いよいよその日が来た。この旅行ために新しいドイツ製のとても軽くて丈夫な最新の旅行ケースを購入した。

いよいよ当日、いつものように起きて、成田に向かう。出発は午後なので楽だ。いつものように日暮里から成田に向かう。成田は遠い。さて成田空港に2時間前に到着。新日本トラベルの航空券の受け渡しは団体カウンターで行う。その航空券をもって荷物のチェックをし、マレーシア航空のカウンターで荷物を預け、搭乗券をもらう。これでまずは一安心。早めに出国手続きをしてゲートに向かう。

このツアーの目的であるダージリン・ヒマラヤ鉄道を知る以前に雑誌で見ていたが、映像で見たのはテレビ番組の「世界の山岳鉄道」シリーズがはじめてであった。ネットで調べてみると、幾つかの旅行記と写真がでてきた。写真はニュージャルバイグルから汽車で走破するものであったが、それは数年前までのことで、現在ではNJPからダージリンへの通しの列車はジーゼルカーの牽引するものになっているという。蒸気機関車は観光用になったという。このツアーでは当初から蒸気機関車に乗れるものと思っていた。ともかく、予定通り午後1時30分搭乗開始。成田を出発した。午後8時にクアラルンプール到着予定である。

1月6日 出発

一番の心配はクアラルンプール空港での乗り継ぎのことであった。

マレーシア航空の成田-KLP便は日本人クルーが多くいるので、KLP(クアラルンプール)に近づいた時に、日本人クルーに乗り継ぎのことを聞いた。MH71便は国際線ターミナルに到着するだろうから、そのターミナルからでることなく、その中央にトランスカウンターがあるので、そこで航空券を見せれば、搭乗券を発券してくれるとのこと。

この時、改めてわかったが、われわれがツアー会社から、最初に手にするのは「航空券」というので、これを飛行会社(エアーライン)のカウンターにもっていって「搭乗券」--これに座席が書かれているーをもらわなければならない。

いつも団体でしか行かないので、前回HISのウィーンは個人であったが、乗り継ぎ便までの搭乗券が発行されていたので、乗り継ぎの手続きははじめてであった。

フィリッピン上空    
マレーシア航空には日本人のクルーが乗っていて気楽に過ごせる。マレーシア航空の女性スクルーの制服は体のラインがストレートに表現されているので、色気がある。着用する女性も大変気をつかうのではないかな。
南周りの飛行機は香港以来だから、久しぶりのことで、フィリッピン上空を飛んでいると、眼下にミンダナオ島だか大きな島が見えて、海はとても青かった。
裕子の父は南方に出征し、相当の苦労をして生きて帰国したが、戦争中のことは何も話さなかったという。また高萩の叔父も南方で、特にフィリッピンにいたと思うが、蛙でもねずみでも食えるものは何でも喰ったという話を聞かされた。
その話を思い出しながら、この青い静かな海と緑の山を見ている。まだ帰らぬままの将兵がいるに違いない。こうしてわれわれが平和を享受して、旅に出られるのもそれらの人たちの犠牲の上に築かれたものだと思うと、自然に合掌して、はるか上空から彼らの冥福を祈った。
私たちの世代はまだ戦争の匂いを体に残していると思う。若い世代が戦争を風化された土壌の上に育つのが怖い。

遠い記憶の中になるけれど、私たちが中学生のころ、教壇に立った先生は、シベリア帰りの捕虜体験者であったり、学徒出陣の戦争体験者であって、先生の言葉から、また父の話から、昭和史の一部を体感させられてきた。私は寝物語に、父から中国での戦争場面を聞かされて育った。だから戦争は身近であったけれど、今の若い世代は特に、昭和史を習うことがないように思える。
小泉首相の靖国参拝問題は、愚行で日本という国の理念なき政治の象徴と言えるだろう。
フィリッピンの上空を飛んでいる間、そんなことを考えざるをえなかった。太平洋の青い海が、まだ私には日本兵の霊が漂っている海に見えてならないのだ。

クアランプール空港

クアランプールに到着したのは時間通り午後8時過ぎであった。C-17ゲートに着いて、出発ゲートはC-37であった。コルカタ便まで2時間近くあったが、まず最初に乗り継ぎカウンターを探した。マレーシアと日本は1時間の時差がある。

 (クアラルンプール空港は清潔できれいである。)

まずはKLP(クアラルンプール)に到着してやれやれであったが、次に乗り継ぎのチェックをしなければならない。それが心配だ。

ゲートの前でインドへ行くのであろう、早くもインド人の特異な姿に出会う。いよいよインドに近づいていることを感じてくる。

さて、乗り継ぎの手続きだが、空港の中心に総合案内のカウンターがあるって、マレーシア人の小柄な女性が応対している。乗り継ぎのカウンターを聞くと、真後ろだという。

マレーシア航空とシンガポール航空の2社のカウンターがって、背の高い外国人が並んでいた。

裕子がシンガポール空港のカウンターに並んでいたら、スカーフの女の子にボールペンで隣りという仕草をされて、隣のカウンターに移る。

航空券を差し出すと、もくもくと作業をして、簡単に乗り継ぎのチェックは終わった。案ずるよりも産むが易すしのたぐいであった。

クアルンプールの空港はとても美しい。とても大きい空港であった。お店も多く、乗り継ぎの飛行機までの時間一つ一つ覗いてみた。タバコの専門店があり、私はタバコをやめようと思っていたのに、パイプタバコの私の好きなアンホーラを見つけると、裕子が買いましょうよと言う。やめるんだからと言っても、いいからと言うことで、結局2箱買うことになった。
なんと言うことだと文句を言ったけどはじまらない。どうせ吸うからと軽くあしらわれてしまった。
亭主の健康を大事に考えないんだからと、私は苦笑い。女は買い物が好きなのだ。
KLPは気温27度あって、暑い。半袖で十分である。

実のところこのクアルンプールからコルカタまでがたいへんであった。

 KLPの出発は21時50分でコルカタ到着はインド時間23時15分ということで、夜中と言え日本時間で午後1時ごろかと計算していたのだが、日本とインドは時差が3時間30分あってクアラルンプールより2時間半遅いのだ。飛行時間を文字通り1時間30分くらいと思っていたのが、なんとそれプラス2時間半、つまり4時間かかるのだ。

この飛行は疲れた。二人ともぐったりしてしまった。ひたすら眠るしかないのだが。食事もなにもでない。周りの席は全部インド人。日本人はわれわれ二人だけ。まわりはほんとに静かであった。

コルカタ到着

インドには入出国の書類が必要なので外国人は機内で記入しなければならない。さらにビサが必要なので、そのビサの番号も記入しなければならない。またサインの箇所が2ヶ所、入国、出国の両方にあるので、記入漏れのないように。

 飛行機は予定通りインド時間午後11時15分に到着。日本時間だと午前3時30分ごろである。

コルカタ空港(以前はカルカッタと呼んでいたが、それは英語読みで、今はヒンドゥー語の発音でコルカタという)は、人口1000万人の都市にしては暗い。最初の印象は暗いということだった。

それと、空港が小さいのだ。日本の地方都市の方がよっぽど立派である。真夜中であるからなおさらかもしれないが、少々驚かされながら不安になる。荷物を受け取る部屋も薄暗い。

けっしてきれいとは言えないが、不潔ではない。

「うーん、インドだぁ」という空気。少し肌寒い。

さて、うすぼんやりとした明るさの通路を通り、入国手続きをする。きわめて簡単に済んだ。係官は肌の色黒い大男だが、愛想はよかった。

いよいよインドに入国したぞ。さてあとはガイドが来ているかだ。迎えに来てなかったらたいへんだ。

さて出口は・・・小さい空港なので一直線・・・どこでもそうだが、まっすぐ進むと、小柄な色黒の男性が紺のジャンパーを着て、手にはB4の紙をもって、立っていた。直感的に彼だなと思った。その紙には私たち二人の名前が書かれていた。私は彼に、

「イエス」と言って、近づいた。

「グンジさん」

「そうですよ、よろしく」

「私はスーといいます。よろしく」 

やれやれ、これで迷子にならずにすむ。

出口の周りには大勢の人が、たむろしている。出迎えの人も多いのだろうが、色黒の大きな男たちばかりである。それから一歩外に出ると、タクシーがずらーっとならんでいる。それも同じ形の車である。色も全部白。インドの国産車TATAのセダンタイプの乗用車だ。

荷物をもって外にでるとマフラーを頭から巻いた大男が現れて、スーさんに近づくと荷物を運んでくれる。彼は運転手なのだ(写真右)。

 コルカタの静寂

真夜中に到着してホテルまで30分くらいかかると言われて車に乗る。この車がコルカタでの専用車になり、彼が専任の運転手です。

この車はインドの国産車TATAの乗用車セダンで、なつかしい昔風のスタイルをしている。乗り心地はわるくない。ともかく暗い道を走るが、空港から出るとコルカタの大通りを走る。

大通りは中央に市電が走り、その両サイドに2車線の幅がある。その通りは街灯がぽつりぽつりとついているだけで暗い。

このくらいというのは東京などで経験する暗さと違う。ほこりぽっく灰色っぽいのだ、町が。町中静かで、車も走ってない。人も歩いていない。街路樹も埃っぽいのだ。ともかく人口1000万の大都市が眠っているのだ。

インドを体感!

どこをどう走っているか、まったくわかるわけがないのだけれど、さらに真っ暗な道に入ったかと思うと、そこがホテルのある場所で、真っ暗な中庭でおろされる。守衛がいたが、守衛の顔も真っ黒だ。ロビーに入るとそこもカウンターの明かりだけで暗い。

この夜の暗さは昼間の賑わいと対照的ともいえる。インドの午後10時から翌朝の午前5時ごろまではまったくよその国のようなのだ。

つまり、インドの電力不足が原因だと思う。

LYTON HOTLE

ロビーは真っ暗で、カウンターだけ電灯がついている。はじめてインドに来た人はびっくりするに違いない。それとカウンターにはとても大きな台帳が開げられて、そこに宿泊者の名前を書くのだ。パスポートの提示が求められる。外国人は全部記入しなければならない。

ホテルの係りはパスポートの内容を全部書き写すのだ。

SURさんがヒンズー語で話し合っている。

この台帳に手書きで記入する作業に、驚かされる。インドは近年IT産業の発達が著しいと言われているのに、日常はすべてアナログの世界なのである。

ロビーで受付を済ますに10分くらいかかっただろうか。SURさんはここで今日はお別れで、明日の朝9時に迎えに来てくれることになった。

背の低いインド人ポーターが荷物を運んでくれる。部屋はロビーから一度外に出て、違う入り口から入る。エレベーターはクラシックな二重のドアつきのものである。

3階の部屋に案内される。ドアを開けて中に入る。

10畳くらいのわりと広い部屋であった。大きな東芝のテレビがおいてある。天井には大きな翼の旋風機があって空調はない。それにお風呂はなくてシャワーだけである。でもお湯はちゃんと出る。このホテルはロンリープラネット社の自由旅行ガイドでは高級ホrテルに分類されて、1泊3000ルピー以上のホテルなのだ。

 最初のインド人

荷物を運んできたインド人のポーターが、スーさんと運転手君以外のインド人である。彼はポーターという仕事で決して豊かな階層ではない。見るからに貧相な顔だ。

彼は部屋の中をいろいろと説明して、部屋から出ていかない。

あっ、そうか。彼はチップがほしいのだ。あいにくルピーをもっていないので、しかたなく1ドルをチップとしてあげた。ところが彼は礼をいうどころか、私に「このお金は日本のお金か」と聞くのだ。彼はドル札を知らないのだ。

私もこの時ドルの換算比率がわからなかった。でも彼に、このお札をカウンターの男に見せればわかるからと言って部屋から出した。彼はテレビのリモコンがいるだろうから持ってくると言って、部屋から出て行ったが、帰ってはこなかった。底辺のインド人は大方こんなものかな、などと思って原をたてることもなく、納得していた。

 このポーターのような素朴な人には、この時以外出会わなかった。

部屋の中では、裕子はいつものように荷物を広げて彼女の儀式を始めた。日本時間ではもう午前4時をすぎているのに。私はとっとと寝ることにした。

無事、インドに到着し、初日のホテルに着いた。ダブルベッドでサイズが大きいから、ゆっくり横になれる。

 ベッドの中で長い一日が終わろうとしている。さあインドの旅はどんなことになるのだろうか。

 

 

 

 

 


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