早春の旅 (つづき)
青山半蔵の長女粂が、祖母おまんの斡旋で、伊那の稲葉家への結婚話が起こる。粂が十八の時である。しかし縁づく直前に、粂が自殺を図り、村中の騒ぎになったことが描かれている。粂は縁談の日が近づくに従って、無口になり、何か物思いに耽って行くようだとあって、母の民は少し気にしていて、父親から意見してくれるように言う場面がある。自殺するまでの娘の気持ちが分からなかったことを半蔵は後に悔やんでいるが、やはり、父と娘という関係は、男とは異なるものがある。あずさの場合は、多分そんなことはないだろう、何でも話をしてしまう子で、隠し事のできない性格だから。仕事にかまけて娘を顧みないのはよくない。折に触れて子どもと旅に出たいもの。半蔵の娘粂のような思いをさせてはならない。
灯りを消した部屋は真っ暗闇で、コトリッとも音もなく、雨の音だけが外から伝わってくる。暗やみのなかで、もう一度あずさの寝顔を覗いて私も目を閉じた
子が敷いたふとんに入り子を見れば見飽きぬまでの寝顔である
山の宿 沈んでゆく夜に聞こえてくる闇の雨音
半蔵の生涯は何であったのだろうか。半蔵は自分を社会の底辺において時代の変化を把え、国学思想の影響により起こった王政復古の運動による維新の達成とその成果は、徳川時代の支配体制より、下層の百姓たちには受け入れられるものと思っていたのだが、半蔵が伊勢と京都の旅にでていた折り、廃蕃置県が行われた尾張蕃が名古屋県に変わった中津川一帯で農民一揆が起こり大変な騒動になったことを帰路の途中で聞き、尾張蕃の治世では起きなかった一揆が、この新体制になってどうして起きたのかを考えさせられる。馬籠に帰宅して出入りの百姓から経緯やら心情を聴こうとするが、百姓達は半蔵であっても本音は言えぬと答え立ち去る。半蔵は表層でしか百姓を見ていなかったことを思い知らされ、自分が志した学問のもたらした王政復古は半蔵が求めたものとは異なる結果を生み出している。この維新とは一体何であったのか。神社行政の変遷とともに、彼は精神的に一人深い山の中に取り残されていく。底辺の者に心傾けた半蔵は、その心傾けた人々からもまた時代からも疎外され、そして半蔵が志した学問にも裏切られるという幾重もの挫折感を味合わされたであろう。半蔵は四十半ば、本来なら人生の実りの時期である、なおのこと受けた衝撃は耐え難いものであったに違いない。
この半蔵の心情は痛いほど私に訴えるものがある。人間はやはり幾度かは狂いたくなる時があると思う。それは狂うのではなくて狂わされてしまうだ。時代は変わろうとも、理想と現実との落差の狭間で自分をどうやって理解したらよいのか、理想への思いが強ければ強いほど、現実を受け入れることが難しくなる。自分の思いを通そうとすると半蔵のような行動に出てしまうのではないだろうか。嫌な言葉ではあるが、現実とどう妥協するかが様々な人生の結末をもたらす分岐点なのであろう。強靱な精神力とか、恵まれた才能をもたないとすれば、無知を装うか、耐えるかそのどちらかの選択しか、現代でもないのではないかと思う。耐えることの中から、何かを見つけて行かなければならないのだろう。
シーンとした冷たい部屋の空気のなかで、昨日の心地よい疲れが暗い闇に吸いこまれ、一本の細い弦が指ではじかれて響くように目が覚めた。まだ朝は夜の淵にあるようだ。
軒端よりやまず雫の落ちる音にふと目覚めれば夜の明ける前
あずさが眠い目をこすりながら、「もう起きるの。」と頭を布団の中からもたげて私の方を見る。「よく寝たね、起きようか。七時だからね。いやー、今日はいい天気だ。」
二人とも布団から這い出し、私は窓を開けて、昨日の雨模様が嘘のような青空を見渡した。
『「お民、来てごらん。きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかね、木曾川の音が聞こえるかねえ。」
「えゝ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家は河のすぐそばではありませんけれど。」「妻籠じゃそうだろうね。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手にとるように聞こえますよ。」
「それでも、まあよいながめですこと。」
「そりゃ、馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気のよい火は、遠い伊吹山まで見えることがありますよ」』
姑おまんと半蔵に嫁いだばかりのお民との会話に、この馬籠の位置が語られている。
今日は、この会話のようによく晴れわたった朝で、窓を明けると、澄んだ空気が部屋一杯に入ってくる。部屋の窓からは恵那山は見えないが、西の方がひらけて明るい。
あずさは布団を手際よくたたんで押し入れにしまうと、顔を洗いに下におりていった。天気のせいかあずさも浮き浮きしている。
今日は馬籠の町を散策して、中津川への道を歩き、名古屋へ出る。あずさの十三参りのために熱田神宮に行かなければならないので、馬籠を早めにでることにする。
藤屋のありふれた朝食を済ますと、そさくさと荷物をまとめ世話になった礼を述べて宿を出る。来た道を引き返すように、町の中へもどり、藤村記念館を見学することにする。まだ午前八時なのだが、日曜日とあって人の出は早い。早朝から賑やかである。
時には、伊勢神宮の講中にまじる旅の婦人の風俗が、あだかも前後して行き過ぎる影のように、半蔵らの目に映る。きのうまで手形なしには関所も通れなかった女たちが、男の近親者と連れだち、長途の旅を試みようとして、深い窓から出て来たのだ。そんな旅姿にも、王政第一の春の感じが深い。そのいずれもが日焼けをいとうらしい白の手甲をはめ、男と同じような参拝姿の風俗で、解き放たれて歓呼をあげて行くかにも見えていた。
「夜明け前」で描かれた維新後の木曾街道の通行の風景である。高校三年の夏、大学受験の講習を御茶の水の研数学館で受けたおりに、国語の例題としてこの文章が出た。その時の講師が、この女性の旅姿の描写に維新後の開放感がみごとに表現されていると、その読み方を教えられた。厳格な封建制度が崩れ、明るい時代が来たかのように思える一節で、文章表現の精緻さ、文学における描写、表現技術の巧みさなどに感動したのである。このような時代の明るさと、その時代の変化に裏切られていく半蔵の悲劇とが対比されるのであろう。いずれにせよ私が表現の技術に感動を受けたのはこの時であったと言える。この木曾を舞台にした島崎藤村の「夜明け前」という小説は、このような表現技術に圧倒されて、文学はとても私の及ぶところではない世界のように思えたのであった。そのような思い出につながる文章が先に引用した部分であって、今でも記憶に残っている。
馬籠は二度目であったが、前に来たときのような感動はなく、むしろ観光臭さが表にですぎて、妻籠の方がまだ地味でいい。藤村記念館は、藤村の実家で、明治二十八年の大火で消失してしまい、現存するのは隠居所だけとなっている。
あずさは、ふんふんと言った感じで、ちょろちょろと記念館の中を覗いている。あずさにはまだ藤村の文学はまだ早いだろう。私は藤村の自記筆の「夜明け前」の原稿とかをみて土蔵の中を見て歩いた。土蔵を出て裏庭にでると、そこから恵那山がよく見える。半蔵があかず眺めた馬籠の山である。天気は春めいた青空だ。人通り町の中を歩き、藤屋の前までもどると、隣に土蔵造りの喫茶店がある。店の名も「土蔵」である。
「あずさ、お父さんコーヒーが飲みたくなった。あずさは何か飲むか。」
「飲みたーい。」
と、いうことで、ドアを開けて中に入る。重厚な木造の店内は雰囲気がある。長らくコーヒーを飲んでいなかったかのような思いがして、この店での一杯は美味かった。あずさには紅茶を飲ませた。朝の爽やかなコーヒーブレイクになった。店内の奥の棚に立派なこけしが飾られている。大きなものは五十センチもあるようなもので、こけしというよりは木彫りの人形というものである。三段の棚に五体づつ置かれている。そのひとつひとつに作者と価格が書かれている。何十万円もする高価な美術品である。そのこけしの棚の前の席に座り、しげしげとそれらのこけしを眺める。
中津川までは三時間はかかる。のんびりとはしていられない。昼には中津川に着きたい。十時前に馬籠を発つことにする。土蔵の前の急な坂道を道なりに曲がりながら下ると、宿場の入口で、バス停のある馬籠館の前にでる。「至る中津川」という指導標をみて二間ほどの幅の道を林のなかに入りこむように進んだ。昨日の道とは違い、これからの道は開けた道である。しばらく行くと左に古そうな諏訪神社があって、その脇に藤村の父の島崎正樹の碑がある。それには気がつかなかった。ここから十曲峠への道である。
十曲峠には新茶屋があり、峠といっても、馬籠からはそんなに上りという程のこともなく、むしろ石畳の道が、杉の森の中に長い下りになっていた。この下り道の手前に、「是より北木曾路」の碑がある。この文字は藤村が書いたという。その近くに芭蕉の句碑がある。
『 送られつ送りつ果ては木曾の穐 はせを
「これは達者に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾へんがくずして書いてあって、それにつくりが亀でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅としか読めない。」』
金兵衛と吉右衛門のこの句碑をめぐってのやりとりである。この句塚の建立の経緯が面白く「夜明け前」の冒頭に、平穏な木曾の風景を語る出来事として描かれている。
『新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、その路傍に芭蕉の句塚の建てられたころは、なんと言っても徳川の代はまだ平和であった。
木曾路の入口に新しい名所を一つ造る、信濃と美濃の国境にあたる一里塚に近い位置を選 んで句碑を置く その楽しい考えが金兵衛の胸に浮かんだという ことは、それだけでも吉左衛門を驚かした。』
この句碑は大黒屋兵右衛門、つまり小説の金兵衛が建てた。実在した大黒屋十代兵右衛門信輿の書いた「大黒屋日記」が藤村に「夜明け前」を書かせるきっかけになったという。
この出だしの長閑さから、あの暗い結末に至るとは思いもよらない。ここを通過した時には、藤村が物語の冒頭にこのようなエピソードを披露していたことなどすっかり忘れている。
『美濃落合の勝重は旧い師匠を見舞うため、西から十曲峠を登って来た。駅路時代のなごり ともいうべき石を敷きつめた坂道を踏んで、美濃と信濃の国境にあたる木曾路の西の入口に出た。』
この石畳の道を私たち親子は、中津川をめざして下る。十曲峠からの石畳の下りの道は深い木立ちに囲まれ、行きかう人もなく静かで、木立ちのつくる日陰が涼しいく、由緒ある街道をあずさとひたすら下る。これを登ってくるのはかなりきつい登りのように思える。
どのくらい下っただろうか、前方が開け、コンクリートの橋が現れて、この峠の下りがおわった。そこから落合まではゆるやかな山里の下り道となり、昔父が私をつれて歩いたときのように手をつなぎながら、高く晴れた田舎道を歩く。思わず鼻唄もでてくるというものだ。あずさも一緒になって歌う。この美濃の木曾とは違う穏やかな、そして桜の花もところどころにほころんでいる春の温みを背中一杯に受けて歩き続けた。ときどき私の顔を覗くように見上げるあずさの顔は笑っている。
落合宿は小さな町といった感じで、人家も立て込み馬籠や妻籠の風情からは遠く、現代の生活の中にあった。この落合は中津川と馬籠の間にある宿場町で、本陣の井上家が残っていて、その白壁は大変美しい。当時のままに保存されているとい言う。しかし私たちは外から眺めただけで素通りせねばならなかった。昼ひなた町の中を歩いていても人に出会うこともなく、なにか狐にでもつままれたような面持ちで、この宿場のなかを過ぎた。高校生の頃、四国の宇和島の町を歩いていた時も、武家屋敷の一角で人一人出会わない真昼の静寂を思い出す。
しかし、国道19号線に出ると、その静寂な雰囲気は一変して、車に遠慮して歩かねばならなかった。しばらく歩き、また途中から古街道の道に入った時はほっとした。やはり自動車は便利であるが、のんびりと歩く私たち親子には騒音であった。中津川まではゆるやかな下り道が続き、田舎道をのんびりと歩いた。あずさが前になり後ろになりして、中津川めざして歩く。昨日と変わり上々の天気に恵まれて、あずさとの旅は心から楽しいものになっていた。
道端のたんぽぽ指して微笑む子 青空のなか歩いてる
どこまでも澄んだ空と菜の花の道 子と手をつなぎ歌いながら歩く
あずさと三月の晴れた田舎道を歩きながら、親として、私の父がそうであったように、厳しいけれど、優しい父親でありたい考える。この子が成人する時には、私は五十才になる。その時にどんな親になっているだろうか。この子の成長に合わせて、子の気持ちを理解できる親になっているだろうか。これからこの子にしてあげられることは何か。体つきは大きくはなっていても、まだあどけない子供らしさを残しているこの子の能力は、いまだ未知数ではあるけれど、女性として自立する可能性は豊かにあると考えるのが親というものだ。長女にしてもこの子にしても女性という性的な存在の人間として、しっかりと芯の通った考え方をもってもらいたと思う。また持つように育てねばならないと考える。人としてどう生きるのかを考える女性になってほしいと願う。結婚だけが娘たちの全てだなどと考えもしない。愛する人に巡り会うことはとても素晴らしいことだが、結婚はすべてではない。私の家は娘たちが他所に嫁げば絶えてしまうことになる。それはやむを得ないことだと考えているから、娘たちを家に縛るなどという考えはない。むしろこの子たちが自由に自立してくれることを考える。
所々で休んだような気もするが、あまり覚えていない。平地に下りてきて、それらしい人家の多い集落やらを通り、中津川の街の一角にさしかかるにつれ、自動車の通行が多くなり、耳障りな騒音が増える。
この国の田園風景や山々の景色には、やはり瓦屋根が相応しい。落ち着いた瓦屋根古い町並みの通りを歩くと、電柱が目障りだが、あの高層ビルの街にない心の落ち着きが得られる。
落合から一時間半くらいかかって中津川の街の中に入っていった。こうして木曾路を歩く旅は終わりが近づいてきた。午後一時中津川の駅に着いた。
中津川は木曾の南の入口にあたる。交通の要衝として向かしから発達した美濃の歴史のある町だ。ところどころに瓦屋根の昔の建物が散見される。私たちのようにのんびり歩いても、三時間程度であつたから、昔の人はもっと早く歩けたであろう。それだけ行き来はかなり多かったに違いない。しかし、これから熱田神宮へいかねばならない私たち親子は、この町に長居することはできない。名古屋まで中央西線で一時間以上かかる。駅弁を二つ買いこんで名古屋行の電車に乗りこんだ。かくして、私たちの木曾路を歩くささやかな親子の旅がこの中津川で終った。
名古屋で名鉄に乗り換え、熱田神宮まで行く。午後三時、商店街をぬけ、広い道路を横切り、神社の境内に入ると、桜の花が「春だよ、春だよ」と言っているように満開である。広い境内のなか、玉砂利を踏みながら、巫女さんのいる祈願受所に行き、あずさの十三参りの祈願を受け付けてもらう。若い巫女さんの赤い袴姿もいいものだ。
社は桜にかこまれて赤い袴の巫女の細い指まで桜色
少し待って、定められた入口から神殿に入り、同じような祈願をする年頃の子どもたちもいて、一緒に祝詞を受ける。あずさも神殿の中ははじめてとあって、口数もすくなく神妙である。神主の祝詞とお払いを受け、玉串を捧げて一通りの儀式は終わる。
お札を受けると大事にザックのなかに仕舞い、さきほどの受所で御守りを買う。あずさも緊張から開放されて、また屈託のない笑顔をみせている。それでもちょっぴり大人びたかもしれない。
うららかな春陽のような笑みの子のすこやか祈る十三参り