第0017号
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(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0010号・第0011号・第0012号と第0047号もお読み下さい。)
~~~~~予言の書・序章「人類滅亡」まで~~~~~(第0011号・第0012号参照)
・≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その1(第0014号参照)
・≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その2(第0015号参照)
・『予言の書・序章「人類滅亡」まで』
・≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その3
・日本人としての危機
『日本人としての危機』は、本来≪鎖国政策と徳川政権の長期安定によって町人文化が成熟し、都市部に限られてはいたが、週休二日制で適度な仕事をするのが当たり前であり、宵越(ヨイゴ)しのお金を持たないで享楽(キョウラク)に興(キョウ)じる事が粋(イキ)だと考えられ、日本人であることを謳歌(オウカ)していられた江戸時代の夢物語が、欧米列強の「優良な人間による先進的民主主義的体制の正義の実現に奉仕する帝国主義国家が、その他大勢の劣等な国々を作り変え・人間を使役する権利を独占出来るとする」民主主義制度の流入によって一旦打ち砕かれてしまった明治維新≫以来の富国強兵を目差した「民主主義の覇権争いに食い込もうとしての」帝国主義体制下の軍拡競争の時代にあったモノだが、大正の時代に入るころにはある程度の国家的成果を上げてきたおかげで、大正ロマンと呼ばれる日本的国民文化が花開き、日本人固有の文化的「生きがい」や職人的「仕事」をみんなが堅持(ケンジ)しそれを楽しみながら、世界中の文化を相手にして「異彩を放つ日本人」として一時期復権出来たのですが。
昭和の時代に入り、アメリカ合衆国がアメリカ的民主主義を振りかざして太平洋の対岸に位置する大日本帝国を標的にした「国際連盟などを悪用しての国際圧力(国際連盟総会での1933年2月24日決議の『リットン報告の採択』や、アメリカ合衆国主導(イギリス・オランダ同調)の枢軸国側である大日本帝国を主要対象国とした1941年8月1日の『全侵略国への石油輸出の全面禁止』までの『1940年6月5日米国による工作機械の対日輸出禁止』・『1940年9月26日米国による屑鉄の対日輸出全面禁止』・『1941年7月25日在米日本資産の凍結』など)」を仕掛けてきて、大日本帝国政府(軍部)がその悪質な挑発(アメリカ合衆国フランクリン・ルーズベルト大統領による露骨な戦争誘導の対日政策で、1941年11月26日には『ハル・ノート』を提示 )に1941年12月8日(ハワイ時間12月7日)ついに乗ってしまい、「真珠湾攻撃」から始まる太平洋戦争に突入してしまって、善戦したものの原爆を実戦使用してきたアメリカ合衆国の思惑どおりに1945年8月14日(玉音放送8月15日正午)に全面降伏させられてしまい、同年9月2日の『大日本帝国政府の降伏文書への調印』以降アメリカ合衆国を中心とする連合国側によって日本人固有のアイデンティティを全て強制否定させられて、戦後半世紀以上もアメリカ合衆国の保護下のままで平成の時代をむかえてしまった事によって。
現在の『日本人としての危機』は、欧米諸国などと比較して日本の国民一人々々の教育レベルや、国家としての科学的認識が完全に時代遅れとなりはじめてきていて、【人間が学んで来た事、考えて来た事が、現実世界の中のどの範囲の事なのかを実験・観察・フィールドワークなどで再考察し検証し再構築しながら、それらを『ネットワーク化:人間は自(ミズカ)らの習熟の深まりの先において正しく新発見を見出(ミイダ)せるとする“人間正善主義”の限界を踏(フ)まえての、客観的事実だけを元にした世界構造の見取り図の作成行程(コウテイ)の“制作行為”それ自体の事』していく事で未発見な部分を少しでも予測し易くし、新発見に必要な実験研究の“独善的ミス:客観的視点から見えてくるはずだった新データ・貴重な情報への勝手な解釈による事実の見過ごし・歪曲”を減らして行ける実験観察力の向上に努める事を科学者や研究機関が率先し、子供にも教育の場で{自然科学における実験観察などの実施や、社会科学における各種実践行為を経験している事}が{例題を解く能力}よりも重要とされる】といった『科学の新規格:実験考察・ネットワーク化主義:《専門図式》』から多くの日本人が取り残されていて、“真似(マネ)は上手”でも“新規開発”や“企画立ち上げ”は何時までも日本人は苦手であり、それによる弊害が国際化を進めてきた日本の各方面で徐々に現れてきてしまって、そのために、その悪い状況の打開のために外国語を社内標準語にしたり外国人の雇用を優先させたりするなどの「外国の力」や「外国人の個の力」を借りる事が得策だと安易に考えてしまう日本の企業がふえてきてしまい、多くの日本人が日本人としての「生きがい」を感じられなくなり、日本人として日本人らしい「仕事」に付く事が出来にくい世の中になってしまった昨今、明治維新以来の悪化状態に陥っていて。
アメリカ合衆国の保護下にあってこそ日本が生きていけるように日本そのモノが作り変えられているため、今さらアメリカ合衆国が日本への保護を止めたからといって、危機意識の薄い日本人が頑張って『科学の新規格』を取り込もうと奮起するとも思えないし、仮に『科学の新規格:実験考察・ネットワーク化主義』を日本国内に根付かせるために、日本人仕様にして取り込もうと本気で取り組んだとしても、少なくとも20年・30年はかかってしまう科学技術と教育の見直しに関わる国家戦略的な重要問題であるので、今すぐに日本がアメリカ合衆国の保護下から抜け出さなかったとしても、日本が国民的に遅れを取ってしまった今日(コンニチ)、日本で暮らしている日本人の多くが、「日本人が日本人らしく頑張る事でその独自性が世界に対してのアドバンテージ(前進・優位性)を生むとする考え」の裏づけとなってしまっている“人間正善主義”の殻を自分で破り捨てて、『科学の新規格:実験考察・ネットワーク化主義:《専門図式》』ではるかに先行している欧米を追い抜くために、まだまだもっと「今以上の苦労を長期にわたって背負い込む必要に迫られるだろう」という事を知っておく必要があると思うのです。
・参照〈第0010号参照〉
【『パラダイム』とは、『科学史家 トーマス・クーン』によって提唱された科学史上の概念で、1962年に刊行された『科学革命の構造』で科学史の特別な用語として用いられた事によって有名になったモノですが、多くの誤解釈や「誤解に基づく非難」に直面し[=本来の意味から逸脱(イツダツ)して、「『パラダイム』という『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」が安易に“一般的な言葉として理解されてしまった事”によって、ビジネス書などにも登場するほど一般化してしまい、それによって大きな転換点を社会にもたらしはしたが、それは『クーン』自身の意図した事とはかなり異なるものであり、『クーン』自身も「自然科学に対して『パラダイム』の概念を考えたのであり、社会科学には『パラダイム』の概念は適応できない」と発言しているのだが、そうした“拡大解釈のしすぎた”一般的な理解にもとづいて、『クーン』は『カール・ポパーたち』から科学の合理性と客観性を否定する相対主義者・非合理主義者と断罪され、厳しい論難を浴びてしまったいきさつがあり=]、その“概念の曖昧さなどの問題”もあったために、8年後の1970年の改訂版では『パラダイム概念』が放棄され、『《専門図式》の概念』が導入されて、『問題意識を再定式化:=例題を解くだけでは発生しえないが、実験やフィールドワークなどではよく起こる予想外の実験データや観察結果などの新しい情報を、主観的解釈を交(マジ)えずに問題意識を持って客観的事実だけで結びつけて、人間の希望と意図で集められたデータによって構築された既存の科学観に捉(トラ)われないで、自身で新たなネットワーク化をする事=』を“自然科学の研究者自信が重視する”コトの大切さが宣言された云(イ)われのある用語であります。】
【一般的に使われる『パラダイムシフト』は、過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられるモノで、厳密な定義は特になく、「発想の転換」や「見方を変える」・「固定観念を捨てる」・「常識を疑う」などから「斬新なアイディアにより時代が大きく動くコト」まで、さまざまな意味で広義に使われるモノだが。
元々の狭義な『パラダイムシフト』の定義によると、“その時代”や“ある分野”において{主流だった「問題を抱えてしまっている」古い考え方に代わり、「その問題を解決できる」新しい考え方が主流となる事}を意味するモノであって、個人の物の見方が変わる事は意味していない。】
【『《専門図式》の概念』とは、要約すると、『パラダイム』的に「『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」の論理と言ってしまうような、科学研究者が「現在進行形《から未来》において扱う諸々の科学的な理論における“段階的”な進歩についての理論」を頭で“論理立てるだけのモノ”などではなくて。『パラダイム』と同じで「科学史などの歴史家の“転換期の歴史的観点”として、『実験精度の高まりと客観的な研究姿勢』が大きな意義を持つモノである」という事はもちろんだが、今回新たに焦点が当てられたのが、「自然科学の専門にこれから携(タズサ)わっていくであろう若い研究生達が受ける{頭の中での“理論体系の反復”学習}よりも{実験機器などへの”精度の高い慣れ”と“問題意識”による確認作業に励む姿勢の両立}が重視される教育の大切さ」や「自然科学における“未知の実験データ”や“想定外のフィールドワークの観察結果”に携(タズサ)わる時の専門の科学研究者達自身の、“頭の中での既存のルールに基ずく理解と解釈と矛盾の無い論理の構築”よりも“問題となっている作業の事実問題としての適正さの確認と適正な分析と客観的反省”に重きを置く姿勢の重要性」にこそ意義があると、問題が再定義化されたモノだという事であるが。
にもかかわらずポパーらは、「科学知識は何よりも“理論とルール”であらわされているのだから、それらの正しい学習をせず、深く理解もしない」若い研究生達では、科学の問題を解くコトなど出来ないはずだ」という批判を繰り広げたのだが。
逆にそれでは、実験に未熟な未訓練の素人が、いくら理論とルールだけを教え込まれても、それが“実験室での実験中にどのような見え方をするのか”が分からなければ、“何に着目”すればよいのかすら分からずに「実験中の実験機器の計器の針の位置が見た目の位置や数値以上の何の意味をどう持つのかが認識出来ないまま」であっては、“精度の高い結果”と“適正な実態把握”の伴った実験や観察としての研究など何時まで経っても出来る分けがなく。
理論やルール等々を知識としていくら反復学習が出来ていようとも、「極めて厳密な一定の条件下においてだけ、予測どうりに理論やルール等が“適用される”自然科学の厳しい仕組み」の現実がわからないまま、実験そのものに習熟する事が出来ていなければ、実際の実験・研究過程においては、厳密さを欠いた手違いや勘違い・不適正で勝手な思い込みを積み重ねてしまうだけの事態から何時まででも抜け出せないという、目の前で起こる現実の事態を見落としていたみたいなのである。
それは、実験や観察の現場において、「“何に対して何がどう反応するのか”とか、“何処にどう『着目』すればよいのか”」という「実験や観察を高い精度で適正に行い、高度な問題意識で“多彩”に“用心深く”に事態の究明をする事」とかを若い研究生達が習得するコトとは。机の上だけで「問題を解く過程を“頭の中”でする」ような、「“理論や概念を適用する”手順が問答無用で決められた問題」で手順通りに間違えずに解答を出すという“反復作業”によって「“理論や概念を適用する”手順を習得するコト」とは違うモノであって。多様な実験や観察による“客観せいの高いデータ”や“実態に近い記録”を基に「実験や観察の多様な結果を『多彩な発想で用心深く』把握する」コトによって、徐々に多様な結果の一つ々々の存在場所となる“何らかの関連性”や“類似的関係性”を『発見』して、“自身で新しくネットワーク化”していくコトに習熟する事であり。この時・特に、「理論や概念を“適用する”」という“反復作業”が、もはや“意義を持たない”という事に注意しなければならないのだが。
その注意の意味とは、若い研究生達が「机の上だけで問題を解く」過程を想定条件を変えながら何千回・何万回と繰り返したとしても、習熟出来るモノとは「過去に証明されている特定の“その条件の場合”においてのみ特定の“その理論や法則などが適用出来る”という“その過去の事実一個だけ”」だという事であり。言い換えるとするならば、どんな実験や観察の研究においても「研究過程に先立って理論や概念が“事前に用意”され、その理論や概念が充分に考慮(コウリョ)されていて、失敗することもなく必ず“適用する”ように仕立て上げられた実験や観察」を何千回・何万回としようとも何の意味も発見出来ないという事であり。
まさしく、どれ程“基本的”で適用頻度の高い理論であれ、“要”となっていて欠く事の出来ない概念であれ、それは人間が人間の都合でそう判断したに過ぎず。多様な実験や観察による客観性の高い結果を多彩な発想で用心深く分析して何らかの関連性や類似的関係性に基づいて自身で新規に構築する“ネットワーク化”の上に置けたときに、そしてそう出来た時に初めて「自然界の物体の形状や性質が条件の変化とともに連続して多様に変化していく“物質の多彩さと流動性”が示す“ネットワーク的自然の形態”」と同じ意義を持てるようになるのであり。どんな理論や概念であろうとその立場は自身による新たな『ネットワーク化』を一度通した後に初めて正しく確定されるのである。
すなわち、自然科学における何らかの関連性や類似的関係性に基ずいての“自身による新たな『ネットワーク化』”とは、これまでの“人間による人間のための都合”をその時代ごとに可能な限り排除して行くコトで、「自然界の物体の形状や性質が条件の変化とともに連続して多様に変化していく“物質の多彩さと流動性”が示す“ネットワーク的自然の形態”」にその時代ごとに段階的に近ずくモノであり、“実験と観察の習熟”とは、「“ネットワーク的自然の形態”を高い精度で察知(サッチ)し適正に認識する」ためのその時代で出来る最高レベルの作業である。そして、それこそが「『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」の新しい枠組みとしての《専門図式》なのである。】
第0010号『パラダイム、だから!何?』参照
・『民主主義』(1)「総括」
以上までを総括すると、20世紀前半に起こった二度の世界大戦以前の、主流派の宗教による信仰の恩恵の独占や・主流派の民族による政治的優位の独占や・主流派の国家による経済的豊かさの独占のために、主流派側の人間が“人類の代表としての『実質責任者』気取り”で『傲慢(ゴウマン)さ』を際限なく増長(ゾウチョウ)させて、多くの非主流派側の人間を大儀の名の下に凶暴な武力・暴力で虐(シイタ)げ、虐殺(ギャクサツ)してきた過酷な人類史程ではないが。
戦後から現代に到るまでも、「台頭する民主主義」の「世界中での席巻(セッケン)」を“テコ”にしての、アメリカ合衆国という民主主義の盟主による「世界のコントロール」に現れる、民主主義側の欧米人による「“優遇処置の采配を振るう優越者としての『管理責任者』気分”が生み出す『軽率さ』」のために、大量殺戮(タイリョウサツリク)を減少させながらも、イスラム教諸国や・アフリカ諸国や・中南米諸国などでは、上意下達の政策や・軍事行動を民主主義の表面的形式の裏側で頭ごなしに横行させてしまい、民衆レベルでの「強い反米感情」や「反射的欧米批判」を招いてしまうだけの不幸な歴史を築いてきていて。
ノーベル平和賞でも「自由競争社会でも自分だけは勝ち残れる自信があって民主主義を主張しているだけの勝手な人や無責任な人」を意図的に選んでいて、主流派側の勝手な民主主義的理想で、非主流派側の弱者に不安や不満・不幸などを招いている現代世界の先進的潮流は「人類史上で普遍的に繰り返されてきた『人類への悪虐行為』を今も繰り返しているにすぎない」と言える。
~~~第0018号へ続く~~~
~~~第0017号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
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~~~~~予言の書・序章「人類滅亡」まで~~~~~(第0011号・第0012号参照)
・≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その1(第0014号参照)
・≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その2(第0015号参照)
・『予言の書・序章「人類滅亡」まで』
・≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その3
・日本人としての危機
『日本人としての危機』は、本来≪鎖国政策と徳川政権の長期安定によって町人文化が成熟し、都市部に限られてはいたが、週休二日制で適度な仕事をするのが当たり前であり、宵越(ヨイゴ)しのお金を持たないで享楽(キョウラク)に興(キョウ)じる事が粋(イキ)だと考えられ、日本人であることを謳歌(オウカ)していられた江戸時代の夢物語が、欧米列強の「優良な人間による先進的民主主義的体制の正義の実現に奉仕する帝国主義国家が、その他大勢の劣等な国々を作り変え・人間を使役する権利を独占出来るとする」民主主義制度の流入によって一旦打ち砕かれてしまった明治維新≫以来の富国強兵を目差した「民主主義の覇権争いに食い込もうとしての」帝国主義体制下の軍拡競争の時代にあったモノだが、大正の時代に入るころにはある程度の国家的成果を上げてきたおかげで、大正ロマンと呼ばれる日本的国民文化が花開き、日本人固有の文化的「生きがい」や職人的「仕事」をみんなが堅持(ケンジ)しそれを楽しみながら、世界中の文化を相手にして「異彩を放つ日本人」として一時期復権出来たのですが。
昭和の時代に入り、アメリカ合衆国がアメリカ的民主主義を振りかざして太平洋の対岸に位置する大日本帝国を標的にした「国際連盟などを悪用しての国際圧力(国際連盟総会での1933年2月24日決議の『リットン報告の採択』や、アメリカ合衆国主導(イギリス・オランダ同調)の枢軸国側である大日本帝国を主要対象国とした1941年8月1日の『全侵略国への石油輸出の全面禁止』までの『1940年6月5日米国による工作機械の対日輸出禁止』・『1940年9月26日米国による屑鉄の対日輸出全面禁止』・『1941年7月25日在米日本資産の凍結』など)」を仕掛けてきて、大日本帝国政府(軍部)がその悪質な挑発(アメリカ合衆国フランクリン・ルーズベルト大統領による露骨な戦争誘導の対日政策で、1941年11月26日には『ハル・ノート』を提示 )に1941年12月8日(ハワイ時間12月7日)ついに乗ってしまい、「真珠湾攻撃」から始まる太平洋戦争に突入してしまって、善戦したものの原爆を実戦使用してきたアメリカ合衆国の思惑どおりに1945年8月14日(玉音放送8月15日正午)に全面降伏させられてしまい、同年9月2日の『大日本帝国政府の降伏文書への調印』以降アメリカ合衆国を中心とする連合国側によって日本人固有のアイデンティティを全て強制否定させられて、戦後半世紀以上もアメリカ合衆国の保護下のままで平成の時代をむかえてしまった事によって。
現在の『日本人としての危機』は、欧米諸国などと比較して日本の国民一人々々の教育レベルや、国家としての科学的認識が完全に時代遅れとなりはじめてきていて、【人間が学んで来た事、考えて来た事が、現実世界の中のどの範囲の事なのかを実験・観察・フィールドワークなどで再考察し検証し再構築しながら、それらを『ネットワーク化:人間は自(ミズカ)らの習熟の深まりの先において正しく新発見を見出(ミイダ)せるとする“人間正善主義”の限界を踏(フ)まえての、客観的事実だけを元にした世界構造の見取り図の作成行程(コウテイ)の“制作行為”それ自体の事』していく事で未発見な部分を少しでも予測し易くし、新発見に必要な実験研究の“独善的ミス:客観的視点から見えてくるはずだった新データ・貴重な情報への勝手な解釈による事実の見過ごし・歪曲”を減らして行ける実験観察力の向上に努める事を科学者や研究機関が率先し、子供にも教育の場で{自然科学における実験観察などの実施や、社会科学における各種実践行為を経験している事}が{例題を解く能力}よりも重要とされる】といった『科学の新規格:実験考察・ネットワーク化主義:《専門図式》』から多くの日本人が取り残されていて、“真似(マネ)は上手”でも“新規開発”や“企画立ち上げ”は何時までも日本人は苦手であり、それによる弊害が国際化を進めてきた日本の各方面で徐々に現れてきてしまって、そのために、その悪い状況の打開のために外国語を社内標準語にしたり外国人の雇用を優先させたりするなどの「外国の力」や「外国人の個の力」を借りる事が得策だと安易に考えてしまう日本の企業がふえてきてしまい、多くの日本人が日本人としての「生きがい」を感じられなくなり、日本人として日本人らしい「仕事」に付く事が出来にくい世の中になってしまった昨今、明治維新以来の悪化状態に陥っていて。
アメリカ合衆国の保護下にあってこそ日本が生きていけるように日本そのモノが作り変えられているため、今さらアメリカ合衆国が日本への保護を止めたからといって、危機意識の薄い日本人が頑張って『科学の新規格』を取り込もうと奮起するとも思えないし、仮に『科学の新規格:実験考察・ネットワーク化主義』を日本国内に根付かせるために、日本人仕様にして取り込もうと本気で取り組んだとしても、少なくとも20年・30年はかかってしまう科学技術と教育の見直しに関わる国家戦略的な重要問題であるので、今すぐに日本がアメリカ合衆国の保護下から抜け出さなかったとしても、日本が国民的に遅れを取ってしまった今日(コンニチ)、日本で暮らしている日本人の多くが、「日本人が日本人らしく頑張る事でその独自性が世界に対してのアドバンテージ(前進・優位性)を生むとする考え」の裏づけとなってしまっている“人間正善主義”の殻を自分で破り捨てて、『科学の新規格:実験考察・ネットワーク化主義:《専門図式》』ではるかに先行している欧米を追い抜くために、まだまだもっと「今以上の苦労を長期にわたって背負い込む必要に迫られるだろう」という事を知っておく必要があると思うのです。
・参照〈第0010号参照〉
【『パラダイム』とは、『科学史家 トーマス・クーン』によって提唱された科学史上の概念で、1962年に刊行された『科学革命の構造』で科学史の特別な用語として用いられた事によって有名になったモノですが、多くの誤解釈や「誤解に基づく非難」に直面し[=本来の意味から逸脱(イツダツ)して、「『パラダイム』という『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」が安易に“一般的な言葉として理解されてしまった事”によって、ビジネス書などにも登場するほど一般化してしまい、それによって大きな転換点を社会にもたらしはしたが、それは『クーン』自身の意図した事とはかなり異なるものであり、『クーン』自身も「自然科学に対して『パラダイム』の概念を考えたのであり、社会科学には『パラダイム』の概念は適応できない」と発言しているのだが、そうした“拡大解釈のしすぎた”一般的な理解にもとづいて、『クーン』は『カール・ポパーたち』から科学の合理性と客観性を否定する相対主義者・非合理主義者と断罪され、厳しい論難を浴びてしまったいきさつがあり=]、その“概念の曖昧さなどの問題”もあったために、8年後の1970年の改訂版では『パラダイム概念』が放棄され、『《専門図式》の概念』が導入されて、『問題意識を再定式化:=例題を解くだけでは発生しえないが、実験やフィールドワークなどではよく起こる予想外の実験データや観察結果などの新しい情報を、主観的解釈を交(マジ)えずに問題意識を持って客観的事実だけで結びつけて、人間の希望と意図で集められたデータによって構築された既存の科学観に捉(トラ)われないで、自身で新たなネットワーク化をする事=』を“自然科学の研究者自信が重視する”コトの大切さが宣言された云(イ)われのある用語であります。】
【一般的に使われる『パラダイムシフト』は、過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられるモノで、厳密な定義は特になく、「発想の転換」や「見方を変える」・「固定観念を捨てる」・「常識を疑う」などから「斬新なアイディアにより時代が大きく動くコト」まで、さまざまな意味で広義に使われるモノだが。
元々の狭義な『パラダイムシフト』の定義によると、“その時代”や“ある分野”において{主流だった「問題を抱えてしまっている」古い考え方に代わり、「その問題を解決できる」新しい考え方が主流となる事}を意味するモノであって、個人の物の見方が変わる事は意味していない。】
【『《専門図式》の概念』とは、要約すると、『パラダイム』的に「『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」の論理と言ってしまうような、科学研究者が「現在進行形《から未来》において扱う諸々の科学的な理論における“段階的”な進歩についての理論」を頭で“論理立てるだけのモノ”などではなくて。『パラダイム』と同じで「科学史などの歴史家の“転換期の歴史的観点”として、『実験精度の高まりと客観的な研究姿勢』が大きな意義を持つモノである」という事はもちろんだが、今回新たに焦点が当てられたのが、「自然科学の専門にこれから携(タズサ)わっていくであろう若い研究生達が受ける{頭の中での“理論体系の反復”学習}よりも{実験機器などへの”精度の高い慣れ”と“問題意識”による確認作業に励む姿勢の両立}が重視される教育の大切さ」や「自然科学における“未知の実験データ”や“想定外のフィールドワークの観察結果”に携(タズサ)わる時の専門の科学研究者達自身の、“頭の中での既存のルールに基ずく理解と解釈と矛盾の無い論理の構築”よりも“問題となっている作業の事実問題としての適正さの確認と適正な分析と客観的反省”に重きを置く姿勢の重要性」にこそ意義があると、問題が再定義化されたモノだという事であるが。
にもかかわらずポパーらは、「科学知識は何よりも“理論とルール”であらわされているのだから、それらの正しい学習をせず、深く理解もしない」若い研究生達では、科学の問題を解くコトなど出来ないはずだ」という批判を繰り広げたのだが。
逆にそれでは、実験に未熟な未訓練の素人が、いくら理論とルールだけを教え込まれても、それが“実験室での実験中にどのような見え方をするのか”が分からなければ、“何に着目”すればよいのかすら分からずに「実験中の実験機器の計器の針の位置が見た目の位置や数値以上の何の意味をどう持つのかが認識出来ないまま」であっては、“精度の高い結果”と“適正な実態把握”の伴った実験や観察としての研究など何時まで経っても出来る分けがなく。
理論やルール等々を知識としていくら反復学習が出来ていようとも、「極めて厳密な一定の条件下においてだけ、予測どうりに理論やルール等が“適用される”自然科学の厳しい仕組み」の現実がわからないまま、実験そのものに習熟する事が出来ていなければ、実際の実験・研究過程においては、厳密さを欠いた手違いや勘違い・不適正で勝手な思い込みを積み重ねてしまうだけの事態から何時まででも抜け出せないという、目の前で起こる現実の事態を見落としていたみたいなのである。
それは、実験や観察の現場において、「“何に対して何がどう反応するのか”とか、“何処にどう『着目』すればよいのか”」という「実験や観察を高い精度で適正に行い、高度な問題意識で“多彩”に“用心深く”に事態の究明をする事」とかを若い研究生達が習得するコトとは。机の上だけで「問題を解く過程を“頭の中”でする」ような、「“理論や概念を適用する”手順が問答無用で決められた問題」で手順通りに間違えずに解答を出すという“反復作業”によって「“理論や概念を適用する”手順を習得するコト」とは違うモノであって。多様な実験や観察による“客観せいの高いデータ”や“実態に近い記録”を基に「実験や観察の多様な結果を『多彩な発想で用心深く』把握する」コトによって、徐々に多様な結果の一つ々々の存在場所となる“何らかの関連性”や“類似的関係性”を『発見』して、“自身で新しくネットワーク化”していくコトに習熟する事であり。この時・特に、「理論や概念を“適用する”」という“反復作業”が、もはや“意義を持たない”という事に注意しなければならないのだが。
その注意の意味とは、若い研究生達が「机の上だけで問題を解く」過程を想定条件を変えながら何千回・何万回と繰り返したとしても、習熟出来るモノとは「過去に証明されている特定の“その条件の場合”においてのみ特定の“その理論や法則などが適用出来る”という“その過去の事実一個だけ”」だという事であり。言い換えるとするならば、どんな実験や観察の研究においても「研究過程に先立って理論や概念が“事前に用意”され、その理論や概念が充分に考慮(コウリョ)されていて、失敗することもなく必ず“適用する”ように仕立て上げられた実験や観察」を何千回・何万回としようとも何の意味も発見出来ないという事であり。
まさしく、どれ程“基本的”で適用頻度の高い理論であれ、“要”となっていて欠く事の出来ない概念であれ、それは人間が人間の都合でそう判断したに過ぎず。多様な実験や観察による客観性の高い結果を多彩な発想で用心深く分析して何らかの関連性や類似的関係性に基づいて自身で新規に構築する“ネットワーク化”の上に置けたときに、そしてそう出来た時に初めて「自然界の物体の形状や性質が条件の変化とともに連続して多様に変化していく“物質の多彩さと流動性”が示す“ネットワーク的自然の形態”」と同じ意義を持てるようになるのであり。どんな理論や概念であろうとその立場は自身による新たな『ネットワーク化』を一度通した後に初めて正しく確定されるのである。
すなわち、自然科学における何らかの関連性や類似的関係性に基ずいての“自身による新たな『ネットワーク化』”とは、これまでの“人間による人間のための都合”をその時代ごとに可能な限り排除して行くコトで、「自然界の物体の形状や性質が条件の変化とともに連続して多様に変化していく“物質の多彩さと流動性”が示す“ネットワーク的自然の形態”」にその時代ごとに段階的に近ずくモノであり、“実験と観察の習熟”とは、「“ネットワーク的自然の形態”を高い精度で察知(サッチ)し適正に認識する」ためのその時代で出来る最高レベルの作業である。そして、それこそが「『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」の新しい枠組みとしての《専門図式》なのである。】
第0010号『パラダイム、だから!何?』参照
・『民主主義』(1)「総括」
以上までを総括すると、20世紀前半に起こった二度の世界大戦以前の、主流派の宗教による信仰の恩恵の独占や・主流派の民族による政治的優位の独占や・主流派の国家による経済的豊かさの独占のために、主流派側の人間が“人類の代表としての『実質責任者』気取り”で『傲慢(ゴウマン)さ』を際限なく増長(ゾウチョウ)させて、多くの非主流派側の人間を大儀の名の下に凶暴な武力・暴力で虐(シイタ)げ、虐殺(ギャクサツ)してきた過酷な人類史程ではないが。
戦後から現代に到るまでも、「台頭する民主主義」の「世界中での席巻(セッケン)」を“テコ”にしての、アメリカ合衆国という民主主義の盟主による「世界のコントロール」に現れる、民主主義側の欧米人による「“優遇処置の采配を振るう優越者としての『管理責任者』気分”が生み出す『軽率さ』」のために、大量殺戮(タイリョウサツリク)を減少させながらも、イスラム教諸国や・アフリカ諸国や・中南米諸国などでは、上意下達の政策や・軍事行動を民主主義の表面的形式の裏側で頭ごなしに横行させてしまい、民衆レベルでの「強い反米感情」や「反射的欧米批判」を招いてしまうだけの不幸な歴史を築いてきていて。
ノーベル平和賞でも「自由競争社会でも自分だけは勝ち残れる自信があって民主主義を主張しているだけの勝手な人や無責任な人」を意図的に選んでいて、主流派側の勝手な民主主義的理想で、非主流派側の弱者に不安や不満・不幸などを招いている現代世界の先進的潮流は「人類史上で普遍的に繰り返されてきた『人類への悪虐行為』を今も繰り返しているにすぎない」と言える。
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ちび猫のコメント参照
次回につづく。
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