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聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ローマ人への手紙9~11章

2019-02-25 | 聖書
パウロは異邦人への使徒だったけど、ホントのところはイスラエル人を救いたかったんだな、というのがよく分かる部分。自分が神に選ばれた民イスラエル人であることに誇りを持っていたし、それゆえ神の救済論(恵み)においてもイスラエル人優越思想がハンパない。

11章なんて特に。神がイスラエルを退けるなんてあり得ない。頑なにされたイスラエル人のおかげで異邦人に救いが及び、異邦人に救いが及んだことで彼らに妬みを起こさせて救うためだ。自分が異邦人の使徒であるのは(栄光ではあるが)、その妬みを起こさせて救いたいからだ。異邦人は接木されただけなんだから誇るなよ。イスラエル人よりもっと切り取られるぞ。異邦人が接木されたんだから、イスラエル人はますますもとの枝に接木されるだろう。異邦人の予定されてる数が満ちた時には、イスラエル人はすべてが救われることになろう。かつて不従順だった異邦人が(イスラエル人の不従順故に)憐みを受けたように、イスラエル人が不従順になったのはいずれ憐みを受けるためだ。なんと神の知恵の深いことか・・・アーメン。・・・みたいな感じ。(ローマ人にケンカ売ってんのかねw)

10章ではパウロは、なぜ自分の宣教がイスラエル人(ユダヤ人)に受け入れられないのか、と歯がゆかったんだろうな。自分の宣教の正しさを、旧約聖書から一生懸命論じてる。でもその引用の仕方がね・・・言いたいことの論拠として、あちこちから引っ張って来て、文脈無視してその言葉だけ当てはめる・・・みたいな(組織のやり方っぽい。そういう意味では、組織のやってることって、聖書的なのかもw)。律法の言葉を自分の宣教の言葉(10:8)にしちゃったり、捕囚の解放を知らせる伝令を宣教してる自分(10:15)にしちゃったりね。・・・まぁ、パウロ様がそのように当てはめたんだから、そう聖書に記されたんだから、それが正しいんだ、って言ってしまえばそれまでだけど・・・それでいいのかどうか。パウロも結局は、いわゆる教祖様だったというだけのことなのかもしれないし・・・。このことにどれだけ神のご意志が働いているのか・・・悩みどころです。

9章ではパウロの、絶対的な神中心の考え方もわかる。神の選びは、人間の思考や業績には関係なく、ただ神による。約束の子であるイサク、生まれる前のヤコブ。神はイシュマエルではなくイサクを、エサウではなくヤコブを選んだ(だからアブラハム、イサク、ヤコブの神、って言われてるんだね~納得)。そして、陶器師の話も。


新世界訳に突っ込みたいところもいっぱいあるんだけど、今回はパウロに突っ込ませていただきました。

ローマ人への手紙7,8章(追記あり)

2019-02-20 | 聖書
7章。
1~3節。
1節は「(モーセの)律法」2,3節は「(一般的に)法」(新世界訳はすべて「律法」)。パウロは同じ単語をいろいろ違う意味に用いて、しかも同じ「法」について議論しているかのような見せかけを作っている。

2節。
新世界訳「結婚している女」。直訳「男の下にある女」。パウロは男尊女卑の人。パウロにとっては、結婚とは女が特定の男に従属する物となった、ということ。男自身が女にとって「法」なのである。
新世界訳「彼女は夫の律法から解かれます」。直訳「彼女はその男の法から無効にされた」。本来なら、「法」が彼女に対して「無効に」なったと書かないといけないのに、男尊女卑発想があるから、彼女が無効にされた、と書いてしまうパウロ。

4節。
「あなた方も・・・律法に対して死んだ」。2,3節では、法によって支配している方(男)が死ぬ場合を考えているのに、4節では支配される方が死ぬ話にすりかわっている。パウロは、キリスト信者にとって律法は死んだのだ、と言うべきところを、我々は律法に対して死んだ、という言い方をする。律法は聖なる絶対性だというユダヤ教のタブーにふれないように(タブーを信奉してるから)、「死」の主語を「律法」ではなく「人」とする。パウロの自己矛盾の1つ。

13節。
新世界訳「罪がおきてを通していよいよ罪深いものとなる」。田川訳「罪が戒めによってはなはだしく罪的になる」。ここでの「罪」は、人間の犯す一つ一つの行為というより、人間を超えた強大な悪魔的力(それが人間の中に入り込んで罪の行為をさせる)なので、罪が罪であることを律法が示す、の意ではなく、罪は罪であるが律法によって鮮明かつ強力に罪として実現する、ということ。パウロは一方では、律法は絶対的に善なるものだとし、他方では繰り返し律法のせいで罪が働くと言う(律法に罪の原因があるかのように)。これもパウロの自己矛盾の1つ。

15~24節。パウロの自己告白。
パウロがずっと悩んできたであろう、他律性(悪と分かっていても行なわせてしまう罪の力に自分が支配されていること)の自覚が、絶対他力の救済信仰(キリストの福音)に至らせた。

8章。
10節。
『何を言いたいのかわからない。・・言葉を省略しすぎ、というより、適当に調子のいい言葉を並べただけだろうか。・・有難がって聞いている信者にとっては、「あなた方の身体は罪の故に死んでいる!しかし霊は義の故に生命である」などと説教されたら、そうなのだな、我々は死んでいたのだ、しかし今やキリスト信者になって神様によって「義」とされて、霊的に生きる道を教えていただいた、だから我々は本当に生きているのだ、有難や有難や、ということにもなろう。それだけの話である。・・字義通り読んだら「人間の身体は死んで、生きるのは霊だけだ」という意味にしかならない』(by田川氏)

13節。
新世界訳「体の習わしを殺す」。字義通りに読めば極端な禁欲主義になる。パウロの救済信仰は、人間の業績ではなくキリストの贖いによるものだし、前章で感動的な自己告白をしたばかりなのに、ここでは禁欲主義に励まないと救われないよ、と言ってることになる矛盾。(・・・まぁたぶん、肉は罪の支配下にあるから、肉ではなく霊によって生きるようにと強調したいだけなんだろうけど・・・)

17節。
新世界訳「キリストと共同の相続人なのです。ただし、共に栄光を受けるために、共に苦しむならばです」。田川訳「キリストとともに相続する相続人である。もしも、我々がともに栄光を受けるためにともに苦難を受けている、ということであるのであれば」。(6:8の「ともに死んだのであれば、ともに生きるのである」を言い換えた)
「ために」は目的ではなく結果。栄光を受けるための条件として苦難を受ける(苦しむ)ということではない。ここでの「苦難」とは、この世で生きていること自体(死すべき生が「苦」)で、続く18節の「今の時の苦難」は、来たるべき永遠の「時」と比較して、此の世の「時」全体それ自体が「苦」だということ。(・・・新世界訳だと意味が違っちゃう・・・)



(以下追記です)

19~23節。
新世界訳「創造物」。個々の被造物ではなく、被造物の全体を指す語。
新世界訳「神の子たちの表し示されること」。終末の救済が実現する時、救われる人間(クリスチャン)が永遠の存在となって出現すること。

19節の直訳は「被造世界の切望は神の子らの出現を待望している」。その時には地上に生きているすべての生き物も、滅びる運命から解放されて永遠に生きることができるようになるので、被造物はすべて神の子の出現を待っている、ということ。なので20節は、人間以外の生き物が虚無(=「今の時の苦難」の言い換え)に服させられている(死、朽ちる運命に定められている)のは、神がこの希望に基づいて、そういうものとして創造されたからだ、ということ(つまり、罪の故ではないと)。

新世界訳「神の子供の栄光ある自由を持つ」。田川訳「神の子らの栄光の自由へと入る」。
新世界訳「苦痛を抱いている」。田川訳「産みの苦しみを苦しんでいる」。将来に希望がある苦しみ。
新世界訳「初穂としての霊を持つ」。田川訳「霊の初穂を持っている」。クリスチャンが神の霊を受けているということは、永遠の世界の最初の味わいくらいは持っている、ということ(対し、被造世界はまだ初穂ももらっていない)。
新世界訳「贖いによって自分の体から解き放されることを切に待っている」。田川訳「我々の身体の贖いを待望している」。今のところは死すべき命を生きているのだから、他の被造物と同様に未来の救済を切望している、ということ。ここでの「贖い」は未来のことで、罪を許されて義とされることではなく、朽ちるべき身体が朽ちぬ永遠のものとされることを言っている。

エホバの証人の教理とは全く違う解釈(パウロの文を素直に読むとこうなるんだろうと思うけど)。いままでは「アバ、父よ」あたりからこの辺までは、自分と関係ない油そそがれた人たちの話で、自分たちはその人たちから恩恵を受ける、みたいに思ってた(特権意識や差別意識を感じさせるイヤな聖句だった)けど、田川訳だと、ものすごい規模が大きい救済論になる。人間だけじゃなくて、被造世界すべてが永遠の生命を待望している、という。ほんと、全然違う。びっくりだぁ。(でもパウロは人間に関しては、クリスチャンだけしか救われないって思ってたんだろうなぁ・・・)

34節。パウロにとっては、キリストの死より復活の方が重要だったことが分かる聖句。パウロが見たのは、復活したイエスだものね。

38節。
新世界訳「政府」。田川訳「支配力」。天使とほとんど同じで、宙空に居て下界を支配する神話的諸勢力。
新世界訳「力」。田川訳「諸力」。これも神話的な天的勢力。

以上、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡より、引用、参照させていただきました。


さて、ワークブックへの突込みです。

●「あなたは『切なる期待を抱いて・・・待って』いるか」の話。
上記の通り、新世界訳は全然違う解釈になっちゃってるので、話にならないなとw。でもまぁ、パウロの文章も、立ち位置によってどうにでも解釈できちゃうんだなぁっていうあたりが、困っちゃうなぁと思った次第です。で、その立ち位置によって都合よく改竄して(よく言えば真意を汲み取ってw)聖書を書いちゃうというね。新世界訳の改訂版の日本語訳がそろそろ出るという噂も聞いたので、どんなことになってるか、わくわくしてますww。

「神の求めることは厳し過ぎると考えさせようとするサタンの思惑に屈しない」ってあるけど・・・神じゃなく組織が決めてる規則がオカシイことをサタンのせいにしてるよね、これ。自分たち組織の規則がサタン的だって認めてるようなもんじゃん、これ。

●「忍耐して切に待ち続ける」のプログラム。
8:25は、日々起きる困難や苦難や試練を忍耐しながら待つ・・・って言ってる訳じゃないと思う。未来に待っている栄光ある救済を希望しているのだから、死んで朽ちる身体である今の生を忍耐して待ち続けようよ、っていうことかなと。
ほんと、この組織は忍耐が大好きだよねぇ。やられっぱなしでも忍耐しろ忍耐しろと。押さえ付けられてる感がいつもある。これじゃ、のびのびできないよね・・・。

ローマ人への手紙4~6章

2019-02-13 | 聖書
4,5章は、1~3章の本論を旧約聖書のアブラハムやアダムから論証しようとし、6章は、救いと罪との関係を論じている。

4章では、前章までの「信」が「神の信実」を強調していたのに、ここでの「信」はアブラハムが神に抱いた「信頼(信仰)」に取って代わってしまっている。

4:12。新世界訳「それで、彼(アブラハム)は割礼のある子孫の父ですが、割礼を堅く守る者たちに対してだけでなく、無割礼の状態にありながら、わたしたちの父アブラハムが持ったあの信仰の足跡にそって整然と歩む者たちに対しても父なのです」。
田川訳では「彼はまた割礼の父祖でもあるが、それは、単に割礼出身であるだけでなく、我らの父祖アブラハムが無割礼であった時の信の足跡を歩むことする者たちに対してそうなのである」。

パウロは前節までで、アブラハムが信仰によって義とみなされたのは無割礼の時だったから、無割礼でも信仰によって歩む者の父でもあり、彼らも義とみなされるんだよ、って言ってる。この節では、アブラハムを父とするユダヤ人でも、割礼を堅く守るだけでなく信仰によって歩んでいる者たちの父なんだよ、ってことなんだね。新世界訳だと分かり難いけど、こう読むと文脈にすんなり入る。パウロはきっと、割礼や律法に縛られてる同族を救いたかったんだろうなぁと。ローマ人に宛てた手紙なのにね。

5:10。パウロの救済論。キリストの死は過去の出来事で、それによって義とされ神と和解できたのもすでに成立した過去の出来事であり、それは終末時(未来)に救われることの確かな保証となっているのだから、安心しなさい。

6:18。罪の奴隷が自由にされて義の奴隷となる。矛盾した表現を用いて深い真理のように見せかける説教。パウロはこういう話し方が得意だったんだろうな。


さて、ワークブックに突っ込みます。

●「神は・・ご自身の愛をわたしたちに示しておられる」の話。

「お名前を立証する」と本文にあるけど、この表現、ころころ見解が変わってるんだね。お名前は「神聖なものとされる」のが正しい、ということで、歌の本が代わった理由にもなってたのに、やっぱりみ名も「立証される」でいいってことになったんだね。なんだかなぁ・・・。

「贖いという贈り物に対する感謝をどのように表わせるか」と、また脅迫されてますね~こわいこわい。このあたりの文脈(5:8~21)を追って、贖いという贈り物とはどんなものなのか、をじっくり考えた方がずーっと良いと思うんだけどなぁ。この組織は考えることではなく、行動することを求めるんだよなぁ。

●6:3~5。この組織の教義ありきの解釈。文脈をどう考えてもこれはダメでしょ。ここは、キリスト・イエスへのバプテスマを受けたってことは、自分の中の罪に支配されたからだはすでに死んだんだ(=死へのバプテスマ)ってことだよね。

●6:7。ここも文脈を考えると、組織の言うように「死ぬことで罪を償った」ということではなく、「死んでしまえば罪のからだは働かないから、もはや罪の奴隷ではない」あるいは「罪の支配下にあった者(=死んだ者)が、罪から解放された」、の意味だと思う。
6:23にあるように「罪の報いは死」だけど、死ねば罪が償われるわけじゃないんじゃないかなぁ。イエスの贖いだけが罪を取り去るものなんじゃないかなぁ・・・


(以上、田川氏の「新約聖書 訳と註」を参考にさせていただきました)

罪と死

2019-02-12 | 聖書
ローマ5:12。エホバの証人にはなじみ深い聖句の1つ。アダムの原罪。故に子孫全てが罪と死を受け継いだ・・。

アダムは永遠に生きられる体で創造された。・・・どの時点で死のサイクル(遺伝子?)が入ったんだろう。

やっぱり善悪の知識の木の「実」を食べた時かなぁ。「実」に何かその原因となる物質(遺伝子操作?)が含まれてたとか。だから命の木の「実」を食べて元に戻らないように、エデンから追い出されちゃったのかな。

あるいは、神に背いた(=罪=的を外す)という心の問題が、体に影響を及ぼして(神経系統とか精神とか感情とか?)死ぬようになったってことなのかなぁ。「罪を通して死が入り」となると、こっちの方かなぁ・・・エデンを追い出され、神から引き離されたことが、人を死へと至らせるほどのものだったってことなのかなぁ・・・。

あるいは、神がその時に直接、人間を死ぬように操作した。・・・う~ん・・・それはちょっとないかなぁ・・・というか、あって欲しくないなぁ。

答えの出ない疑問だけど、考えるのは楽しい。

ローマ人への手紙1~3章

2019-02-05 | 聖書
この書は、パウロが第三回宣教旅行の終盤に書いたもの。パウロがそれまでの宣教で、多くの人々に語ってきた福音(キリスト教)を、文書としてまとめたもの。パウロはこれを、まだ行ったことのないローマのクリスチャンに当てて書いた(自己紹介も兼ねて)。

いはばパウロのキリスト教思想の最重要文書。プロテスタントの著名な人たちは、これぞキリスト教だ、としてこの書の解説本を書いているらしい。

1~3章がこの書の本論。救いは、人の努力によって勝ち得るものではなく、神からの一方的な恩恵によって与えられるものである、ということ。特に1:16,17がこの書のテーマ・・らしい・・知らなかった・・。

1:16,17「すなわち、わたしは福音を恥としない。それはすべて信じる者にとって、第一にユダヤ人にとって、またギリシャ人にとっても、救いへといたらせる神の力である。何故なら神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。『義人は信から生きるであろう』と書いてあるように」(田川訳)

「神の義」とは、神の正しさ、神が正しいということ。神自身が義である、という意味で、信じる人が神から義と認められる(信仰義認。ルターがこの部分の翻訳に持ち込んだらしい)、という意味ではない。

「神の義はその中で、信から信へと啓示される」とは、「神の義は、神が信実であることから発して、それを受けて神を信頼する人間の信実へとむかって啓示される。神の義が福音の中に啓示されるとはそういう意味だ」ということ。神が「義」を啓示したのは、罪人であり本来それに価しない人間たちに対して、神の側はあくまでも誠実さを貫いてくれた、それならその啓示を受け取る側の人間も「信頼」「誠実」をもってそれに対するべき、というパウロ思想の根本。

新世界訳で読むと、この箇所は分かるような分からないような、どうとでも解釈できそうな文章だったけど、この解説ですっきりした。
分かり難い原文を、自分たちの教理に合わせて改竄して訳すのは、エホバの証人に限らず、昔から行なわれてきたことなんだね。(果たしてどれほど神のご意思が働いているのか、まったく人間の仕業なのか・・・)

「第一にユダヤ人にとって」とか、3章の「ユダヤ人の長所は・・あらゆる点で、多くある」とか、パウロはユダヤ人優越意識が抜けていないことが露呈してる。

1:26,27からは、パウロが極度に同性愛嫌いだったことも分かる。

2:16でパウロは、「私の福音」(新世界訳では「わたしが宣明する良いたより」)と書いている。自分こそが直接神によって福音を託されたという自意識過剰から出た言葉。

3:22。新世界訳「イエス・キリストに対する信仰による神の義であり、信仰を持つすべての者のためのものです」田川訳「イエス・キリストの信による、信じるすべての者へといたる神の義である」

神の義を確立するのは人間の信仰だ、となれば「神の義」という絶対的なものが人間に左右されてしまうものになり、パウロ思想(徹底した神中心)ではない。
ここは、「神の義は、イエス・キリストにおける神の信実によって、信じるすべての者のために明らかにされた」の意。「神の義」という巨大に超越的なものが、個々の人間にまで到達する、ないし顕わされる。「神の義」の中にそれまで包摂されていなかった罪人たる人間のところまで今や「神の義」が到達した、ということ。

3:26。新世界訳「イエスに信仰を持つ人を義と宣する」。田川訳「イエスの信からの者を義となす」。

イエスを信じるかどうかということではなく、「イエスの信」(イエスを通して示された神の信実)に基づいて、ないしそこから発して生きる人たち(を義となす)ということ。


ここまで、田川氏の「新約聖書 訳と註 パウロ書簡」からいろいろと引用させていただきました。


さて、ワークブックに突っ込みます。

「自分の良心を訓練し続ける」という話。2:14,15に基づく話のようですが・・・この聖句は、良心を訓練し続けることとは全く関係ない文脈の聖句です。もし、この部分を当てはめるなら、世の人だって神から与えられた良心が律法になってるんだよ、エホバの証人はキリストの律法を与えられてるんだからちゃんとそれを実践しようよ、っていう感じじゃないかと。だいたい、良心を訓練って、何が正しいか何が間違ってるかを、自分で決めちゃいけないっていう教理なのに、矛盾してるよねぇ・・つまりこれは、組織の規則を守れ、もっと組織に貢献しろ、っていう命令を守る訓練に過ぎないですね。
パウロの壮大なキリスト教思想を学ぶ機会なのに、ほんと残念なことです。

「霊的な宝石を見つける」の3:4。ここでパウロは、神が真実でないと思うなどとんでもないことだと、宣言してるのであって、それを知られるようにするにはどうしたらよいか、なんてことは述べてない。「知られる」なんて言葉を入れてるのは新世界訳だけじゃないかなぁ。

荒廃をもたらす嫌悪すべきもの

2019-01-30 | 聖書
マルコ13:14「・・・荒廃をもたらす嫌悪すべきものが立ってはならない所に立っているのを見かけるなら(読者は識別力を働かせなさい)、その時、ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい」(新世界訳)

に関する、田川建三氏の「新約聖書 訳と註 マルコ福音書」p406~が興味深かったので下記引用させていただきます。

 ・・・前2世紀当時ユダヤを支配していたアンティオキアのヘレニズム王朝の王アンティオコス4世(通称エピファネス)が極端に横暴なヘレニズム化政策をとって、ユダヤ教を禁止し、エルサレム神殿にオリュンピアのゼウス像を立てさせた(前168年)。これはユダヤ人にとっては耐え難い屈辱であって、以後この像を「荒廃の忌むべきもの」と呼ぶようになったのである。これがきっかけとなって、マカバイ兄弟を中心とした独立運動が起こり、ついにユダヤがヘレニズム王朝の支配を脱し、独立するにいたった。もちろんマルコは、この過去の事件を記述しているわけではなく、これから起こるであろう出来事を予測して書いているので、類似の出来事がこれからも起こるであろうけれども、その場合には・・・、というのである。・・・(中略。西暦40年頃ローマ皇帝カリグラが自分の像をエルサレム神殿に立てさせようとしたが、ローマで暗殺され実現しなかったこと)・・・当時のユダヤ住民にとっては、もしも無理に実行されれば、ユダヤ人が抵抗運動を起こしただろうし、皇帝の側は大量の軍隊を導入してこれを鎮圧する予定であったから、阿鼻叫喚の巷となったことであろう。英米軍のイラク爆撃、侵略のような事態を想像すればわかる。マルコが7節で「戦争の噂」と言う時(複数形)、当時の世界では戦争の噂ぐらいはいくらでもあっただろうから、ほかにもいろいろの可能性が頭にあっただろうけれども、カリグラのこの件が大きく記憶に残っていたのは間違いない。
 従ってここでマルコが「荒廃の忌むべきものが立ってはならないところに立つのを見たなら」と言う時、カリグラの時のような事件がもしも実際に起こってしまったら、と言っているのである。
 しかしこの文をそう解さず、違う意味に解する神学者も多い。一頃まで流行っていたのが、これは終末の時の大悪魔ないし反キリストの出現を予言したものだ、という説である。・・・(中略)・・・「荒廃の忌むべきもの」という概念は、アンティオコス4世の事件に関してしか用いられない特殊な表現であって、これを終末時の大悪魔を指す意味に用いるなどという用例はまったく知られていない。更におまけに、マルコにはそもそも「終末時の反キリスト」などという概念は出て来ない。21-22節の「偽キリスト」はそれとはまったく異なる概念である。そこでは、戦争や大騒乱の危機に乗じて新興宗教的宣伝にしゃしゃり出る多くの宣伝家を批判している。
 ・・・間違いの根本は、マルコ13章は終末時に起こるべき事柄を予言的に記述している、とはじめから思い込んで解説している点である。しかしマルコはそういう意図でこの章を書いているのではなく、むしろ逆に、戦争その他の災難は終末の前兆などというものではなく、此の世の歴史の中で生じる災難なのだから、そういうことがあっても、そら終末だ、などと騒ぎ立ててはいけない、と警告しているだけである。
 ・・・こちらはものを知らない神学者がそう思い込んでいるだけだが、これは第1次ユダヤ独立戦争の最後のエルサレム崩壊(70年)を頭に置いたものだ(崩壊そのもの、ないしその直前の危機)、という説もある。しかしこちらはますます根拠がない。それなら、何故わざわざアンティオコス4世の事件をはっきり指示する特殊な表現を用いたのか、まったく説明がつかない。70年の時は、神殿に皇帝の像を置こうなどという試みはまったくなされていない。(後略。この14節を根拠にマルコは70年前後に書かれたのだ、と言い張り、14節の解説にあたっては、マルコは70年前後に書かれたのだから14節はその意味に読まれるべきだ、という前提と結論の堂々めぐり)


以上です。この言葉がアンティオコスの事件を表す特殊な表現だなんて、学んだことなかったなぁ。自分も、もうすでに組織の教理をいろいろ刷り込まれちゃってるけど、それを全部取り払わないと、聖書をちゃんと読めないし、素直に理解できないんだろうなぁ、と思った次第です。そして、聖句を組織の資料だけで理解するのは危険なことだと、改めて思いました。

使徒たちの活動27,28章

2019-01-28 | 聖書
パウロのローマへの旅。

この27,28章の学びで組織は、パウロが囚人であっても船の中でもローマでも難しい状況の中で伝道した、ということを強調して、信者もパウロに倣って、いついかなる時いかなる状況でも伝道するよう圧力をかける。それによって信者は、追い立てられ脅されているような気持ちになる。(もっと出来る、もっとやらなきゃ神の是認は得られない)

さらに組織は、よりにもよって、犠牲を払ってパウロを歓迎したローマのクリスチャンをピックアップし、巡回監督を歓迎し励ますよう信者に圧力をかける。信者はますます追い立てられ、自己犠牲を強いられる。

これじゃあ、神からの愛を全く感じることができず、神への愛を成長させることもできないままだよ。

それなのにワークブックには、「何らかの限界があるとしても、良い知らせを伝えるために何ができるだろうか」と太字で質問されている。こんなことを真面目に考えてたら、間違いなく病気になる。信者はパウロじゃないんだよ。

さらにワークブックには、巡回監督夫妻を「励まし合う」方法(「励ます」ならわかるけど「励まし合う」って・・・)が4つ書かれている。パウロを歓迎したローマのクリスチャンは、こんな風に方法を学んだから自己犠牲を払ったわけじゃないでしょうに。こんな風に書かれて、それをやらなかったら不従順になるから、また重荷を負わされる(他人の眼や自分の良心によって責められる)。真面目に捉えてたら、間違いなく病気になる。

今回のワークブックは、聖書の内容を詳しく学ぶことをせず、組織のために聖書を都合よく用いる、という意味で際立っていたので、こんなツッコミ記事になってしまいました。

使徒たちの活動26章

2019-01-23 | 聖書
1~23節。パウロはアグリッパ王に話す。パリサイ人であったこと、父祖になされた約束の希望に関して裁かれていること、イエスに敵対していたこと、イエスの顕現、啓示に背かなかったこと、神の助けを得て宣べ伝えてきたこと、それは預言者やモーセが述べた通り、キリストが苦しみを受け死人の中から最初に復活して光を告げること、など。

この部分は9章や22章を参照しながら読むと興味深い。
特にここでは、アナニアに関連したことが省かれ、アナニアがイエスから聞いた言葉を、パウロは少し補充して、顕現したイエスから聞いた言葉として述べている。

今回は新世界訳と他の訳との比較が主です。

3節。新世界訳「精通した方」。他の訳では「よく知り抜いておられるかた」「もっともよく通じておいで」「みなよくご存じ」「よく御存じの方」など。
「精通する」っていう言い方が、エホバの証人独特でイヤだなぁ・・・

同節。新世界訳「辛抱して」。他の訳では「寛大なお心で」「忍耐をもって」「寛容に」など。
「辛抱強さ」を霊の実の一つとしてるエホバの証人らしい訳だけど、これもイヤだなぁ・・・

5節。新世界訳「崇拝方式」。他の訳は「宗教」「宗教信仰」など。
「崇拝方式」っていう言葉(7節の「神聖な奉仕」)も、エホバの証人独特でイヤだなぁ・・・

8節。新世界訳「なぜあなた方の間では、神が死人をよみがえらせるということが、信じられないこととされるのでしょうか」。
他の訳もほぼ同じ意味なんだけど、田川訳が興味深い。「もしも神が死人たちを甦らせるのであれば、皆様方がそれをどうして不信仰だなどと批判することがありましょうか」となってる。
パウロは、この文の前に父祖たちの約束の希望について語っていて、この後に復活したイエスの顕現を語るのだから、田川訳の方がしっくりくるかなぁ。新世界訳だと、唐突に相手を非難してるように感じるもんなぁ。

11節。新世界訳「変節を迫り」。他の訳は「無理やり神をけがす言葉を言わせようとし」「み名を汚すことを強い」「イエスを冒とくするように強制し」「冒瀆を犯すように強い」など。
「変節」とは、信念・主義・主張などを変えること、とある。パウロが、イエスへの信仰を捨てさせようとしていたのか、神を冒涜させて捕まえようとしていたのか、全然違う意味になるよね。こんな言葉を使ってたなんて、今回初めて気が付いた。新世界訳、恐るべしw。   

12節。新世界訳「ぱっと光る」(9:3,22:6)。他の訳は「照らす」「輝く」など。
新世界訳は言い方がほんと独特だなぁ。

14節。新世界訳「突き棒を蹴りつづける」。他の訳「とげの付いた棒をける」「尖り棒を蹴とばす」など。
ギリシャの格言らしい。自分を傷付けるだけの愚かな反抗、と言った意味。
パウロは迫害することで自分を傷付け(罪を重ね)ていた。

18節。新世界訳「相続財産」。他の訳で近いのが「(神の国の)相続」「恵みの分け前」。他は「(聖別された人々に)加わる」「(聖化された者の)中に加わる」「きよめられた人たちの)仲間に入れていただく」など。
「(相続)財産」って、なんだか貪欲なイメージ・・・さすが統治体。

19節。新世界訳「わたしは天からのこの光景に背かず」。他の訳もほぼ同じ。田川訳「この天的な顕現に私が従わないなどということはありえないので」。

20節。新世界訳「音信を伝える」。他の訳「告げる」「説き勧める」「伝える」など。
「音信」って言い方も独特。イヤねぇ・・・


24~32節。フェストはパウロに、博識がお前を狂わせている、と叫ぶ。パウロは、狂っていない、真理と節度ある言葉を話している、片隅で行なわれたのではないから王もご存知のはず、と述べ、預言者を信じておられますよね、と迫る。アグリッパ王は、クリスチャンにしようとしている(がそうはいかないぞ)、と述べ、パウロは、すべての者が自分のようになるよう願っている、と答える。立ち去りながらアグリッパ王はフェストに、上訴していなければ釈放されただろう、と。

24節。「!」こんなマークは当時なかったでしょ。

他にも突っ込みたいところいっぱいあるけど、もう疲れたのであと1つだけ。

28節。新世界訳「あなたはわずかの間に、わたしを説得してクリスチャンにならせようとしている」。
他の訳「少し説いただけで」「いとも簡単に・・説き伏せて」「短い時間で・・説き伏せて」「僅かな(言葉)をもって・・説得している」など。
そう簡単にはいかないぞ、という反語的な意味合い。わずかな時間なのか、わずかな言葉なのか、わずかな労力なのか、わずかな何なのか・・・限定はできないみたい。

使徒たちの活動25章

2019-01-22 | 聖書
1~5節。フェリクスの後を継いだフェストは、まずエルサレムへ(ユダヤ人へのご機嫌伺い?)。祭司長や主立った人々は、2年経ってもパウロを殺害しようと企んでおり、フェストに、パウロをエルサレムに送ってくれるよう願う。フェストは、すぐにカエサレアに帰るので一緒に来て訴えよ、と彼らに言う。

フェストは16節で「弁明の機会を与えられないうちに、好意の処置としてその人を引き渡してしまうのはローマの人のやり方ではない」と言っているので、祭司長たちがパウロを待ち伏せして殺そうとしているのを、見破っていたのかもしれないなぁ。
3節の「好意の処置として」って分かり辛い表現だけど、他の訳では「特別の計らいをもって」「特例(で)」「よく計らって(くれるように)」など。
16節の「好意の処置として・・引き渡す」は、他の訳では単に「引き渡す」「くれてやる」など。

6~7節。フェストは彼らとカエサレアへ戻り、翌日には裁きの座に着く。彼らはパウロの回りに立って、多くの罪状を並べ立てるが立証できない。

「多くの罪状」の内容は、8節でパウロが弁明してる「律法、神殿、カエサル」に対するものだったのだろう。

8~12節。パウロは「何の罪も犯していません」と言う。フェストは「ユダヤ人の歓心を買おうとして」、エルサレムへ上ってわたしの裁きを受けたいか、と尋ねる。パウロは、わたしはカエサルの裁きの座の前に立っている、ご存知のように何も悪いことはしていないのだから、わたしをユダヤ人たちに引き渡すことはできない、カエサルに上訴する、と言い、フェストは受け入れる。

フェストもフェリクス同様(24:27)「ユダヤ人の歓心を買う」ために、パウロが無罪と分かっていても結審しなかった。あとあと面倒だと思ったからだろう。フェストがパウロに、エルサレムへ行くかどうか尋ねたのは、エルサレムへ連れて行けばユダヤ人たちは喜ぶし、たとえパウロが殺されても、自分には被害が及ばないで決着がつくだろうということで、政治家にありがちな自己保身かな。パウロも、フェストの立場を考慮して上訴したのかもしれないいな。

パウロが上訴したのは、組織が言うように「良い知らせ(「良いたより」じゃなくなったのかな?w)を擁護するため」じゃないよね。自分が殺されないために、当然の権利を用いただけだよね。ローマに行くことは、パウロ自身の願い(19:21)でもあったし、神のご意志(23:11)でもあったし。(この時の皇帝はネロ。64年のローマの大火の前に、パウロはローマの弟子たちを強めることができただろう)

そんなこんなで、同胞であるユダヤ人に殺されそうになってるパウロは、ローマ人の軍司令官やフェリクスやフェストによって、法に則って命を守られた。

組織は、当局者の前でどのように弁明するか備えておくように、なんて脅すようなこと言うけど、パウロは「罪を犯していない」ということを事実通り弁明しただけ。その通りだから告発者は証拠をあげられなかった(イエスも同じ)。(ちなみに、アグリッパ王はすでにユダヤ教に詳しい人だったから、ユダヤ人の群衆に話したのと同じように、自分がイエスを信じるに至った経験を話した。これは弁明とは違う)

13~27節。アグリッパ王とベルニケがフェストを訪問(就任の儀礼訪問)。フェストはパウロの件を持ち出す。アグリッパ王がパウロの話を聞きたいとのことで、翌日、アグリッパ王とベルニケの前にパウロが連れ出される。フェストは、パウロに罪を見いだせなかったこと、パウロは上訴したが、主(カエサル)へ書き送る訴因を得られるかと彼らの前に連れ出したことなど話す。

このアグリッパ王は、代々ユダヤを治めているヘロデ家のアグリッパ2世。父のアグリッパ1世は、使徒ヤコブを剣で殺し、神の天使に撃たれ虫に食われたように息絶えた。父のおじのアンテパスは、バプテストのヨハネを殺した。その父(アグリッパ2世の曽祖父)がヘロデ大王で、幼子だったイエスを殺そうとした。
ヘロデ家は、元はイドマヤ人つまりエドム人で、名目上のユダヤ人(割礼を受けていた)。

19節。フェストは「神に対する自分たちの崇拝(他の訳では「自分たちの宗教」)に関し、また、死んだ者なのに、生きているとパウロが主張しつづけるイエスという人物に関して、ある種の論争があるだけ」と。

宗教に関する論争は政治家にとってはメンドクサイだけ。なのに「法的に確立する」なんて息巻いてる組織は、厄介な存在でしかない。世から離れていなさい、と信者に強制するのなら、ご自分たちもそうなさってください。訴訟に勝ったなんて威張ってないで。

26節。ここでカエサルに使われてる「主」(キュリオス)という言葉。クリスチャンはイエス(もしくは神)を証しする時に用いていた。ローマ人にとっての我が主はネロ、クリスチャンにとっての我が主はイエス(神)だったわけだから、ネロがクリスチャンを迫害したのも、こうしたことが背景にあったんだろうなぁ。

使徒たちの活動24章

2019-01-17 | 聖書
大祭司アナニアたちは、弁士テルトロを伴ってカエサレアへ来る。
フェリクスの前で、テルトロはパウロを訴える。ほうぼうで騒動を起こしている(ローマの平和を乱している)こと、ナザレ人一派で神殿を汚そうとしたことなど。
パウロの弁明。彼らの訴えには証拠がないこと、彼らが派と呼ぶ道に従って、同じ信仰(律法と預言者)と希望(義者と不義者との復活)を持っていること、アジアから来たユダヤ人やサンヘドリンのあなた方が証拠を述べるべきことなど。
フェリクスは裁判を延期(証拠も無く有罪にできないし、無罪にすればユダヤ人の反感を買う)し、パウロを(仲間の世話を受けられる緩さで)留置する。
フェリクスは妻ドルシラと共にパウロの話を聞く。パウロが義と自制と来たるべき裁きについて話すと、フェリクスは恐れる。フェリクスはパウロが金を払う(釈放のための賄賂)と期待し、しばしば話し合う。
2年経ってフェストがフェリクスの後を継ぐ。

この2年間拘留中に、ルカが資料を集めて福音書を書いたというのが保守派の見解。エホバの組織もこれを支持してる。こういうところは保守派なんだよね。聖書の学術的研究には批判的だもんなぁ・・・まぁそういうことをすると、聖書が神の聖霊によって書かれた本だ、という確信が崩れることが分かっているからだろう。でもそういう研究してる人たちの方が、はるかに聖書の内容に精通してる。写本の単語一つ一つを分析してたり、語句の用い方や、文章の作り方の特徴なども分析して、著者について、また著者の意図を正確に理解するよう努力してる。

ネット使っていろいろ調べてると、エホバの証人って聖書をよく学んでいて詳しいって自画自賛してるけど、それはとんでもない思い違いだと分かる。組織が教えたい教理を、同じような聖句を使って同じように学んでるだけ。集会以外に聖書通読をしてるエホバの証人なんて、ほとんどいないんじゃないだろうか。

組織は一応、通読を勧めてはいるけど、一方では信仰を業(宣教、もてなし、交わり、会衆の仕事、集会参加など)で示すように強制して、通読の時間を取れないようにしてる。結局、組織の教え(主に集会、最近はライブラリアプリ)に付いて行く形でしか聖書を学べないようにしてる。もっと信者一人一人が聖書通読(短期間で何度も)するようになれば、組織がどんなにオカシイか自ずと分かると思う。組織はそうなって欲しくないから、なすべきことを常にいっぱいに持ちましょう、とか言ってごまかしてるんだよね。

話がずれたので戻します・・・

14節。新世界訳の「神に神聖な奉仕をささげている」。他の訳では「神に仕える」「神を礼拝する」など。

神に対して「仕える」ことや「奉仕する」ことを表す語を、「神聖な奉仕をささげる」とバカノヒトツオボエ的に訳すから、2重の変な訳になる。いったい神以外のだれに神聖な奉仕をささげるんだろう?・・・ねぇ。あるいは、神に神聖じゃない奉仕をささげる人もいるってことかな?・・・ww。

16節。新世界訳の「・・わたしは、神にも人にもとがを犯していないとの自覚を持てるよう、絶えず励んでいるのです」。他の訳では「わたしは・・神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています」「・・私自身も、神と人々に対して絶えずやましくない良心を持つよう努めております」「・・私自身も神に対し、また人間たちに対して、咎められるところのない意識を持とうといつも切磋琢磨しているのです」など。

この聖句、とてもいい聖句だと思うのに、この組織ではあまり用いられない。ひとつ前の聖句(義者と不義者の復活がある)はよく用いられるのにね。23:1のパウロがサンヘドリンに最初に述べた「わたしはこの日に至るまで、神のみ前で全く汚れない良心を抱いて行動してきました」と共に、パウロの生き方を表すいい聖句だと思う。でも、オンラインライブラリの聖句索引で調べてみると、23:1は引用なし、24:16も2件(1件は良心を訓練する記事)しかない。なんでだろ?
たぶん、良心に従ってもらっちゃ困るんだろうな。良心がおかしいと思っても、組織に従ってもらわないと困るから。組織は個人の良心を使えなくしたいんだろう。だから、この聖句を用いないんだろうな。組織の聖句の使い方って、ほんと偏ってる。