ebatopeko②
長谷川テル・長谷川暁子の道 (105)
(はじめに)
ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。
この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。
このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。
またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。
その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。
実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。
長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。
長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。
日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。
そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。
<満州某重大事件> 張作霖爆殺事件
この情勢を見た日本政府は、張作霖が数万の軍隊を率いて東北に撤退してくれば、山東省および東北三省に居住する日本人が戦乱に巻き込まれるという口実(考え)のもと、五月二八日、日本の田中内閣は、「在留邦人の安全を期するための自衛措置」と言う名目で大連の関東軍を山東省青島に急派することを決定した。
しかし日本政府の山東出兵は孫文の三民主義の旗印が山東省と華北一帯にたなびくことを認めない為の武力干渉であった。
五月三〇日、関東軍は大連を出発し、三一日青島に入港した(第一次出兵)。
張作霖の奉天軍との戦闘は国民政府軍に有利に展開し、七月初めには山東省の南三分の一を支配下にした。 と このような日本の国際法を無視した行動に対し、中国国内で猛烈な反日行動がまきおこり、排日ボイコットが華南、華中全域に広がった。
上海はじめ、各地で「民衆対日経済絶交委員会」が組織され、日本商品のボイコット、日本の銀行、商店との取引停止、日本の汽船への乗船禁止などの措置が取られた。
上海の対日経済絶交委員会は、七月二日、官民懲罰令を発布、実施したが、それによれば、日本商人と密かに取引した者は拘禁し、木駕篭十日以下、あるいは街を引き回す(五日間)うえ、取引貨物を没収、日貨を注文した者は、拘禁木駕篭七日以下の懲罰。中国人民で中国の糧食および各種原料を日本人に供給したものは、拘禁二十日以下などの罰則を定めた。
また上海、南京、広東などの主要都市では、排日デモ、民衆大会が盛大に行われた。 劉仁が学んでいた水産学校は、遼東湾に突き出す遼東半島の付け根にある港町営口にあり、遼東半島の突端の旅順、大連には日本海軍が駐留している。
遼東湾、さらにその先の渤海湾を挟んで西にあるのが山東半島で、大連から対岸の山東半島の青島まで、日本海軍はわずか一日で到達している。
劉仁の生まれた本渓、橋頭街から営口は200㌔、大連には約500㌔しか離れていない。日本の軍隊や、日本人が自分の家の庭にも等しい遼東半島や山東半島を我が物顔に無法に荒らし回る姿を目の当たりにした学生たちが、激しく反発したであろうことは想像に難くない。
1928年4月19日、第二次山東出兵、5月3日、斎南で日本軍と蒋介石の国民革命軍との武力衝突がおきる。斎南事件である。5月8日、日本は第三次山東出兵をする。
そして6月4日、東北軍閥の張作霖の乗った専用列車が関東軍の謀略により、満鉄奉天駅より北約1㌔のところで爆破された。
中国で皇姑屯事件と呼ばれるこの事件は、日本では満州某重大事件と呼ばれ、後年多くの中国人は、これは1931年9月18日、柳条湖で関東軍が引きおこした事件(満州事件)の前哨戦だと捉えた。
このような政治情勢は中国全土の進歩的な学生の愛国心に火を付け、中国各地に抗日愛国の学生運動が巻き起こり、各地でデモや衝突、授業放棄などを行った。とりわけ関東軍に占領された東北地方出身学生たちの日本に対する怒りと、成立したばかりで弱い中華民国政府や跋扈する軍閥に対する不満は激しく、学生たちの正義感と政治的自覚を呼び覚ました。
東北三省軍民連合会議は張学良(張作霖の長男)を父の跡を継ぎ東北三省保安総司令に推挙した。この年8月張学良は東大学校長に就任している。
張学良校長は「大学は学術を深く研究し、専門家を育成し、社会の需要にこたえ、その文化を発展させること。人材を育成し新東北を建設し以て国家の近代化を促進することで、隣邦(日本)の野心を消滅させることにある。
さらに我々が人材を育成するのは唯々諾々とした卑怯者や、以前のように、それを利用して利益を求めるのでなく、また己個人や家のためでなく国家のためである。つまるところ中華民族を危機窮乏から救い、炎黄の子孫の繁栄を以て国家の生存を図る、そのような指導者を育成するためである」と述べている。 (東北大学編『東北大学概覧』、唐徳綱、王書君『張学良世紀伝記』上巻、山東友誼出版社、華万聞主編『張学良文集』新華出版社、東北大学編『東北大学一覧要目奨励規則』)
この張学良の主張は劉仁の後の言動に大きな影響を与えている。
また、東北大学は学生の実践活動を非常に重視しており、大学は工場を備え、中国国内の鉄道の貨車や客車の修理を実習させていた。紡績科では紡績試験室を設けている。
法学部の学生は大学が北平(北京)に移転したのち直接天津、浙江省などに出掛け社会活動に従事し、ロシア語科はハルピンに居住するロシア人の家に住み言葉の勉強をするなどしている。
この頃劉仁が、高崇民、閻宝航、陳先舟など東北地方の進歩的知識人が組織した「東北民衆抗日救国協会」呼びかけにこたえ、1931年の夏休み以前に東北大学を離れ実践的活動に参加している。
この時期に東北大学も北平(北京)に移転したが、まだ授業は再開されていなかった。まもなく9・18(満州事変)が起きる。
劉仁たちは抗日の宣伝活動のため集会や演説会を開いたり、パンフレットを出版したり、ビラを撒きポスターを貼るなど、同胞の覚醒を促し、日本帝国主義の侵略の野心を暴露するために至る所を駆けめぐり、愛国抗日運動を繰り広げた。
劉仁が活動したのは、開欒欒炭坑、趙各庄などの鉱業地区や天津で最大の英米煙草会社などの工場で、主として北平と天津の労働者の中であった。
彼らは夜、座談会を開いたり、労働者の家庭を訪問し、状況を説明したり抗日救国の訴えをしたり、カンパ活動を行ったりしていた。
劉仁と東北大学で同室であった友人呉一凡氏は、「国難の時、血気ある青年が、何も行動せず座して飯を食って、満腹し何もせずにいると意気消沈するだけだ。国家、民族を憂えるならば、そのためい少しでも力を出さねばならない。そうしてこそ炎黄(中華民族の始祖とされる)の子孫だ」と劉仁はいつも我々に語っていましたと、その頃の思い出を語っている。
この頃劉仁は天津大王庄義信里第十六郵便支局長を務める劉氏の家に住んでいた。 この人は、愛国人士で劉仁たちの支持者であり、郵便局長という身分を利用し、抗日宣伝材料を当局の検査を受けることなく安全に四方八方に発送するなど劉仁たちの活動を助けることが出来た。
劉仁はここで幾月か活動した後天津を離れている(『緑川英子与劉仁』)。
しかし彼らの抗日運動は間もなく金銭的な困難と、抗日運動を反政府(中華民国政府)運動だとして進歩的学生や知識人を逮捕、投獄する国民党政府の弾圧に直面し、活動を一時中止せざるを得なくなる。
それと共に、自分の知識や経験が救国活動を続けるには余りにも乏しいことを認識し、改めて勉強をする必要を感じた劉仁は、折しも、北平(北京)で行われた留学生選抜試験に合格し、日本へと旅立った。1933年秋のことである。