碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (116)

2020年05月21日 23時00分59秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

         長谷川テル・長谷川暁子の道 (116)

           (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。


    (十四) 楊春揮の訪問

  劉仁は1934年夏、一度中国へ帰り橋頭の家で夏休みを過ごしているが、その後12年間一度も帰郷することなく、1938年からは手紙一本も出していない。

 日本の敗戦後、重慶から瀋陽に戻ってきた二人は、1946年11月解放区の佳木斯(ジャムス)に行くまでのあいだしばらくこの地に留まる。

 この間劉仁のもとを劉仁の原配夫人楊春揮が、弟劉劉介庸に伴われ訪ねている。

 それはまったく突然に、劉仁とテルの前に楊春揮は現れたのであった。

 劉仁はテルに楊春揮のことを話していなかった。

 彼は九年前東京から上海に行くとき、弟劉介庸には楊春揮とその子どものことを「決してテルに話すな」と固く口止めしておいた。

 その後の放浪にも似た生活は、命を削るような厳しい苦しいものであった。

 はじめは劉仁はできるだけ早く話さなければと考えていたようだ。だが移動に次ぐ移動の生活は二人だけでゆっくり話し合う時間もとれず、お金がない二人は自分たちだけの独立した部屋を持てないでいた。

 日中戦争が始まり、日本人の妻を持つ劉仁は絶えずテルの身の安全を第一に考え行動せねばならなかった。日本人妻を離縁するようにと言われたこともあった。

 妻が日本人であるため劉仁が受けるいろいろ面倒なことを、テルがどれほど心苦しく思っているかを誰よりもよく理解できる劉仁は、どうしても、これ以上テルを苦しめる話をする事ができなかったのだろう。

 それは劉仁の優しさと言えるし、優柔不断さでもあった。

 重慶と奉天(現瀋陽)は直線にして約4000㌔ある。実際に汽車や船で移動するならその距離は優に5000㌔をこえるだろう。日本の北海道から九州のはずれまでの距離に等しいくらいの距離だ。

 山の中の要塞のような戦時首都重慶に暮らす劉仁にとって、5000㌔かなたの故郷に暮らす人たちの存在が、時間の経過とともに少しずつ希薄になって行ったのは、ある意味実感できる。

 実際日本から上海に戻って間もなく始まった七・七事変(いわゆる盧溝橋事件)から、香港、広州、漢口、桂林、重慶と目まぐるしく移動し、幾多の戦場を潜り抜け、飢えや病気と闘い、その中で多くの文章を書き発表し、反戦放送のマイクの前に立ってきたテルと劉仁は1945年まで「生き続けられたこと」そのものが奇跡に近いことなのであったろう。

 劉仁がテルに楊春揮の事を話さなかったのは、彼自身生きて再び故郷の橋頭に帰ることができると考えていなかったからではないだろうか。

 それらの緊張し、また充実した8年間をテルと劉仁は夫婦として、エスペラントで反ファシズムを戦う同志、抗日の戦友として生き、その中でテルは息子劉星を生んだ。

 劉仁は奉天まで戻ってきても橋頭に立ち寄らず、直接解放区佳木斯(ジャムス)に行こうとしていた。
                                          お
 奉天はまだ蒋介石の国民党の軍隊が支配している地域で、内戦は避けられないという雰囲気で、人々に大きな不安に駆り立てていた。

 このような奉天に二人は八カ月留まった。この間国民党の特務の眼を避けるため、幾度か住居を移動している。

 そして秋も深まった頃、日本人の長谷川兼太郎というレントゲン技師の家に間借りをする。

 そんな劉仁のもとを突然楊春揮が訪ねてきた。

 弟劉介庸にお金の都合を依頼する送ったのだが、弟はお金を瀋陽まで運んで来ると共に、兄嫁楊春揮も伴って来たのであった。実に12年ぶりの再会であった。

 楊春揮にとって残酷なことであるが、かれのかたわらには幼い二人の子どもと、楊春揮より若い子どもの母親がいた。

 この時楊春揮は三日間劉仁とテルの所に泊まり、その後一人で橋頭に帰っていった。

 長谷川暁子さんの話によると、楊春揮は暁子さんのオムツをかえたりして、よくテルの子どもの面倒を見てくれたという。


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