碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (106)

2019年09月04日 21時55分23秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

 長谷川テル・長谷川暁子の道 (106)

           (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。

    (五) 中国人留学生と日本

 ここで我々がいささか疑問を感じるのは、劉仁を含めた多くの中国人学生が,自国中国を侵略し、中国東北三省を事実上支配している日本に、あえてなぜ留学したのかということだ。まして劉仁のように抗日運動に実際に参加した経験を持つ者がなぜなのだという疑問がある。この疑問に答えるには、中国人の立場で書かれた次の文を紹介したい。

 著者は『緑川英子』の筆者、葉君健である。1985年、山東文芸出版から中国語版の序文の一節である。

  「本世紀30年代上半期、わが国(中国)の進歩的青年たちが日本に渡った。東京が   中心であった。私も行った。これは非常に奇怪な特殊なことである。

   日本軍国主義者はすでに1931年『九・一八』事件を起こしわが国の東北三省を   占領し)、さらにつづけて華東に侵攻していた。日本政府は中国に対し侵略と敵対   的行動を取る政策を決定していた。であるのになぜ彼らは日本に行く必要があった   のだろうか?それには多くの原因がある。

   主要な原因は、当時国民党が、青年たちや進歩的な人々を逮捕し、大虐殺を行うな   ど全国的白色テロを行っていたことで、それは特にいくつかの大都市に集中してい   た。

   この状況に直面し、ある種の人たちはただ身を潜めるより方法が無かったが、     この機会を利用して、改めて革命理論を学んだり、文化的な知識などを蓄え自己の   充実を図るなどして、将来に備えようとした者たちがいた。

   都合よく、この頃日本円のレートが下がり、東京の生活費は当時の上海よりやすく   ついたので、日本に行くことは経済的にさほど困難ではなかった。これが一つの原   因である。

    別の面では、日本の知識人たちは、明治30年代以来、熱心に、マルクス主義思   想を含む西欧の新しい文化と思想を紹介していたからである。我々の多くの進歩的   知識人先輩たちは、かって日本文を通じて西欧の新文化や新知識を中国に紹介した。       たとえば中国に初めて紹介されたマルクスの著作『共産党宣言』はすなわち陳望道   同志が日本語から中国語に翻訳したものである。当時の東京大学の教授、河上肇教   授の東洋人の角度から詳しく解説されたマルクス主義に関する一連の著作も中国語   に翻訳され、我々青年に一定の思想的影響をあたえた。

   それゆえ我々は日本で多くのことを学べると考えていたのである。当時日本にいた   中国人知識人は郭沫若同志以外、聶耳(じょうじ)のような青年文芸活動家なども   多くいた。

    注:(聶耳は中華人民共和国国歌の作曲者である。作詞は田漢)

   これらの人々が東京で『質文』という刊行物を出していた。私にとってこれは大き   な魅力であり、一部分の中国の文化も日本に渡ったのである。

    事実上当時の我々のの心の中に二つの日本が有った。それは軍国主義を以て代表   されるファシストの日本と、進歩的知識人の代表する我々に友好的な日本の二つで   ある。我々が行こうとしたのは後者の日本である。

    そして我々の判断は間違っていなかった。

    私は1936年8月に東京に行ったのであるが、それから間もなく進歩的知識人    の幾人かと知り合うことができた。彼らは私を大変温かく迎えてくれた。という   のも、私はエスペランティストで、エスペラントで小説も書いていたので、最初に   接触できたのも進歩的エスペランティストたちであったからだ。

   私が東京に着いて6日目に早速著名な日本のエスペランチストが私を食事に招いて  くれた。三宅史平(日本エスペラント語学会秘書長)、大島義夫と中垣虎児郎の三人  である。

    中垣と大島は進歩的な翻訳者であるが、彼らも我々中国のインテリとあまり変わ   りは無い。彼らは職業を持てず、特に中垣は結婚もしておらず、一人小さな木造の   借家に住んでいるが、家賃は14か月も滞っている。

    彼が不在の折りなど私服の警官がウロウロと中を窺ったりしている。彼らのこの   ような境遇は瞬く間に中国人、日本人と言う取り払った。

    中垣を通じて私は秋田雨雀(エスペランティスト)や柳瀬正夢と知り合った。彼   らもみなファッシストの圧力のもとで進歩的な文化活動をしているのである。ただ   目下のところ牢屋に入れられていないだけのことだ。

       だが中垣の話によると河上肇教授は、すでに牢屋に入れられているそうである」       

 引用が少し長くなったが、これは『緑川英子』(山東文芸出版社、1986年、中国語版)の序文の一節で、筆者は葉君健である。

 この文章は当時中国から日本に留学してきた青年達の状況と心情を実によく伝えており、劉仁の日本への留学もおそらくこのような意図があったのであろう。

 しかし留学の理由や目的がどのようなものであれ、日本に来なければならなかった彼らの心情は複雑で矛盾したものであったに違いない。

 当時の日本への留学生試験がものようなものであったかは判らないが、かなり難関であったことは疑う余地も無く、多くの者が国費留学生を目指している中で劉仁が試験に合格出来たのは、日本語がよくできたことや、東北大学の予科の二年の間に英語の基礎もできていたことなどが評価されたのであろうと思われる。

 このようにして劉仁は1933年秋に、官費留学生として来日、1834年二月、正式に東京高等師範の予科に入った。


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