碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (104)

2019年09月03日 20時30分03秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

 長谷川テル・長谷川暁子の道 (104)

           (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

 そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。

       (四) 「反軍閥」、「反帝国主義」の学生運動

 一九二七年、劉仁は満十八歳になっている。

 中国国内の政治情勢は実に複雑な状況を呈していた。依然として中国各地では軍閥が政治と軍事の実権を握っており、国民政府と対立していた。また一方一九二一年に創設された中国共産党もその力を徐々に増大してきていた。

 これより先の一九一一年辛亥革命を指導し清朝を倒して、中華民国を誕生させた偉大な指導者孫文が一九二五年三月十二日、北京で死去した。同年七月、中国国民党は、広東で広東国民政府を樹立している。

 この国民政府は、孫文の亡き後、右派と左派(ソ連と連携し中国共産党とも協力共闘する)に別れ、内部抗争を繰り返していた。

 蒋介石が右派の代表であるが、一九二六年六月八日、広東で開かれた国民党臨時中央執行委員会は北伐を迅速に行うことを決定し、蒋介石を国民革命軍総司令官に任命している。   蒋介石は七月、九万人の国民軍を率いて「反軍閥」と「反帝国主義」というスローガンをかかげて北伐を開始した。 

  北伐の対象となったのは、張作霖(奉天軍閥)、呉佩孚、孫伝芳(浙江軍閥)などの軍閥である。趙恒惕(湖南軍閥)は呉佩孚と組み国民革命軍と対峙するが、部下の唐生智に駆逐され、唐生智は国民軍につくというように、軍閥どうしの覇権争いも熾烈であった。

 日本政府は蒋介石の北伐に警戒しつつ後押しし、その軍事力が山東から河北省に及ばないように注意しつつ、中国共産党の勢力を抑えようと画策していた。

 国民党左派は一九二七年一月一日、長江中流域の武漢に政府を移転する。しかし蒋介石は武漢には行かず、反共路線を強め別行動をとった。

 蒋介石はこの年四月に上海、南京攻略に成功しているが、これに協力した共産党を排除すべく四月一二日、上海総工会に大弾圧を加え、おおくの共産党員や進歩的労働者を逮捕、虐殺する暴挙に出ている。これに対し上海の労働者は大ストライキを行い抵抗したが、蒋介石のクーデターにより敗北した。

 四月一八日、蒋介石は南京政府をを樹立し、「蒋総司令告全体民衆書」を発表し、外国帝国主義とならんで、国外の特殊団体の指導をうけ赤色恐怖の専制を行うものとして中国共産党を痛烈に非難し、反革命分子と規定したのであった。(臼井勝美著『日中外交史・北伐の時代』塙新書)

 そして張作霖も四月六日、奉天軍を使い北京のソビエト大使館、遠島銀行、東支鉄道駐京弁公処などを家宅捜索し、隠れていた共産党員など七〇を逮捕し、多数の書類などを押収した。

 中国共産党の創設者の一人李大釗を含む共産党員二〇名は、陸軍軍事法廷にかけられ、 四月二八日死刑の判決をうけ、同日ただちに絞首刑を執行された。

 これは北方、南方を通じてほとんど同じ時期に共産党系の活動家に激烈な弾圧が加えられたことを意味する。中国全土に白色テロが吹き荒れたのであった。

 次の記述は田中内閣によるいわゆる「山東出兵」の状況と、中国国内での「反日運動」の状況を如実に記している。

 五月武漢、南京両国民政府軍は別コースをとり華北への進行を開始した。蒋介石と武漢政府側の東生智は二方面から北上し奉天軍(北方軍閥張作霖の軍)と戦闘を開始した。

 馮玉祥(陝西の軍閥)の国民政府軍は西安から東進し、河南にいた張作霖の奉天軍は三方から攻められ、五月末tには退き、山東を防衛しなければならない情勢になりつつあった。

 この情勢を見た日本政府は、張作霖が数万の軍隊を率いて東北に撤退してくれば、山東省および東北三省に居住する日本人が戦乱に巻き込まれるという口実(考え)のもと、五月二八日、日本の田中内閣は、「在留邦人の安全を期するための自衛措置」と言う名目で大連の関東軍を山東省青島に急派することを決定した。

 しかし日本政府の山東出兵は孫文の三民主義の旗印が山東省と華北一帯にたなびくことを認めない為の武力干渉であった。 

 五月三〇日、関東軍は大連を出発し、三一日青島に入港した(第一次出兵)。

 張作霖の奉天軍との戦闘は国民政府軍に有利に展開し、七月初めには山東省の南三分の一を支配下にした。                                                                              と  このような日本の国際法を無視した行動に対し、中国国内で猛烈な反日行動がまきおこり、排日ボイコットが華南、華中全域に広がった。

 上海はじめ、各地で「民衆対日経済絶交委員会」が組織され、日本商品のボイコット、日本の銀行、商店との取引停止、日本の汽船への乗船禁止などの措置が取られた。

 上海の対日経済絶交委員会は、七月二日、官民懲罰令を発布、実施したが、それによれば、日本商人と密かに取引した者は拘禁し、木駕篭十日以下、あるいは街を引き回す(五日間)うえ、取引貨物を没収、日貨を注文した者は、拘禁木駕篭七日以下の懲罰。中国人民で中国の糧食および各種原料を日本人に供給したものは、拘禁二十日以下などの罰則を定めた。

 五月武漢、南京両国民政府軍は別コースをとり華北への進行を開始した。蒋介石と武漢政府側の東生智は二方面から北上し奉天軍(北方軍閥張作霖の軍)と戦闘を開始した。

 馮玉祥(陝西の軍閥)の国民政府軍は西安から東進し、河南にいた張作霖の奉天軍は三方から攻められ、五月末には退き、山東を防衛しなければならない情勢になりつつあった。

 この情勢を見た日本政府は、張作霖が数万の軍隊を率いて東北に撤退してくれば、山東省および東北三省に居住する日本人が戦乱に巻き込まれるという口実(考え)のもと、五月二八日、日本の田中内閣は、「在留邦人の安全を期するための自衛措置」と言う名目で大連の関東軍を山東省青島に急派することを決定した。

 しかし日本政府の山東出兵は孫文の三民主義の旗印が山東省と華北一帯にたなびくことを認めない為の武力干渉であった。 

 五月三〇日、関東軍は大連を出発し、三一日青島に入港した(第一次出兵)。

 張作霖の奉天軍との戦闘は国民政府軍に有利に展開し、七月初めには山東省の南三分の一を支配下にした。                                                                              と  このような日本の国際法を無視した行動に対し、中国国内で猛烈な反日行動がまきおこり、排日ボイコットが華南、華中全域に広がった。

 上海はじめ、各地で「民衆対日経済絶交委員会」が組織され、日本商品のボイコット、日本の銀行、商店との取引停止、日本の汽船への乗船禁止などの措置が取られた。

 上海の対日経済絶交委員会は、七月二日、官民懲罰令を発布、実施したが、それによれば、日本商人と密かに取引した者は拘禁し、木駕篭十日以下、あるいは街を引き回す(五日間)うえ、取引貨物を没収、日貨を注文した者は、拘禁木駕篭七日以下の懲罰。中国人民で中国の糧食および各種原料を日本人に供給したものは、拘禁二十日以下などの罰則を定めた。

  また上海、南京、広東などの主要都市では、排日デモ、民衆大会が盛大に行われた。  劉仁が学んでいた水産学校は、遼東湾に突き出す遼東半島の付け根にある港町営口にあり、遼東半島の突端の旅順、大連には日本海軍が駐留している。

 遼東湾、さらにその先の渤海湾を挟んで西にあるのが山東半島で、大連から対岸の山東半島の青島まで、日本海軍はわずか一日で到達している。

 劉仁の生まれた本渓、橋頭街から営口は200㌔、大連には約500㌔しか離れていない。日本の軍隊や、日本人が自分の家の庭にも等しい遼東半島や山東半島を我が物顔に無法に荒らし回る姿を目の当たりにした学生たちが、激しく反発したであろうことは想像に難くない。  

 

   (四) 「反軍閥」、「反帝国主義」の学生運動

 一九二七年、劉仁は満十八歳になっている。

 中国国内の政治情勢は実に複雑な状況を呈していた。依然として中国各地では軍閥が政治と軍事の実権を握っており、国民政府と対立していた。また一方一九二一年に創設された中国共産党もその力を徐々に増大してきていた。

 これより先の一九一一年辛亥革命を指導し清朝を倒して、中華民国を誕生させた偉大な指導者孫文が一九二五年三月十二日、北京で死去した。同年七月、中国国民党は、広東で広東国民政府を樹立している。

 この国民政府は、孫文の亡き後、右派と左派(ソ連と連携し中国共産党とも協力共闘する)に別れ、内部抗争を繰り返していた。

 蒋介石が右派の代表であるが、一九二六年六月八日、広東で開かれた国民党臨時中央執行委員会は北伐を迅速に行うことを決定し、蒋介石を国民革命軍総司令官に任命している。   蒋介石は七月、九万人の国民軍を率いて「反軍閥」と「反帝国主義」というスローガンをかかげて北伐を開始した。 

  北伐の対象となったのは、張作霖(奉天軍閥)、呉佩孚、孫伝芳(浙江軍閥)などの軍閥である。趙恒惕(湖南軍閥)は呉佩孚と組み国民革命軍と対峙するが、部下の唐生智に駆逐され、唐生智は国民軍につくというように、軍閥どうしの覇権争いも熾烈であった。

 日本政府は蒋介石の北伐に警戒しつつ後押しし、その軍事力が山東から河北省に及ばないように注意しつつ、中国共産党の勢力を抑えようと画策していた。

 国民党左派は一九二七年一月一日、長江中流域の武漢に政府を移転する。しかし蒋介石は武漢には行かず、反共路線を強め別行動をとった。

 蒋介石はこの年四月に上海、南京攻略に成功しているが、これに協力した共産党を排除すべく四月一二日、上海総工会に大弾圧を加え、おおくの共産党員や進歩的労働者を逮捕、虐殺する暴挙に出ている。これに対し上海の労働者は大ストライキを行い抵抗したが、蒋介石のクーデターにより敗北した。

 四月一八日、蒋介石は南京政府をを樹立し、「蒋総司令告全体民衆書」を発表し、外国帝国主義とならんで、国外の特殊団体の指導をうけ赤色恐怖の専制を行うものとして中国共産党を痛烈に非難し、反革命分子と規定したのであった。(臼井勝美著『日中外交史・北伐の時代』塙新書)

 そして張作霖も四月六日、奉天軍を使い北京のソビエト大使館、遠島銀行、東支鉄道駐京弁公処などを家宅捜索し、隠れていた共産党員など七〇を逮捕し、多数の書類などを押収した。

 中国共産党の創設者の一人李大釗を含む共産党員二〇名は、陸軍軍事法廷にかけられ、 四月二八日死刑の判決をうけ、同日ただちに絞首刑を執行された。

 これは北方、南方を通じてほとんど同じ時期に共産党系の活動家に激烈な弾圧が加えられたことを意味する。中国全土に白色テロが吹き荒れたのであった。

 次の記述は田中内閣によるいわゆる「山東出兵」の状況と、中国国内での「反日運動」の状況を如実に記している。

 五月武漢、南京両国民政府軍は別コースをとり華北への進行を開始した。蒋介石と武漢政府側の東生智は二方面から北上し奉天軍(北方軍閥張作霖の軍)と戦闘を開始した。

 馮玉祥(陝西の軍閥)の国民政府軍は西安から東進し、河南にいた張作霖の奉天軍は三方から攻められ、五月末tには退き、山東を防衛しなければならない情勢になりつつあった。

 この情勢を見た日本政府は、張作霖が数万の軍隊を率いて東北に撤退してくれば、山東省および東北三省に居住する日本人が戦乱に巻き込まれるという口実(考え)のもと、五月二八日、日本の田中内閣は、「在留邦人の安全を期するための自衛措置」と言う名目で大連の関東軍を山東省青島に急派することを決定した。

 しかし日本政府の山東出兵は孫文の三民主義の旗印が山東省と華北一帯にたなびくことを認めない為の武力干渉であった。 

 五月三〇日、関東軍は大連を出発し、三一日青島に入港した(第一次出兵)。

 張作霖の奉天軍との戦闘は国民政府軍に有利に展開し、七月初めには山東省の南三分の一を支配下にした。                                                                              と  このような日本の国際法を無視した行動に対し、中国国内で猛烈な反日行動がまきおこり、排日ボイコットが華南、華中全域に広がった。

 上海はじめ、各地で「民衆対日経済絶交委員会」が組織され、日本商品のボイコット、日本の銀行、商店との取引停止、日本の汽船への乗船禁止などの措置が取られた。

 上海の対日経済絶交委員会は、七月二日、官民懲罰令を発布、実施したが、それによれば、日本商人と密かに取引した者は拘禁し、木駕篭十日以下、あるいは街を引き回す(五日間)うえ、取引貨物を没収、日貨を注文した者は、拘禁木駕篭七日以下の懲罰。中国人民で中国の糧食および各種原料を日本人に供給したものは、拘禁二十日以下などの罰則を定めた。

 五月武漢、南京両国民政府軍は別コースをとり華北への進行を開始した。蒋介石と武漢政府側の東生智は二方面から北上し奉天軍(北方軍閥張作霖の軍)と戦闘を開始した。

 馮玉祥(陝西の軍閥)の国民政府軍は西安から東進し、河南にいた張作霖の奉天軍は三方から攻められ、五月末には退き、山東を防衛しなければならない情勢になりつつあった。

 この情勢を見た日本政府は、張作霖が数万の軍隊を率いて東北に撤退してくれば、山東省および東北三省に居住する日本人が戦乱に巻き込まれるという口実(考え)のもと、五月二八日、日本の田中内閣は、「在留邦人の安全を期するための自衛措置」と言う名目で大連の関東軍を山東省青島に急派することを決定した。

 しかし日本政府の山東出兵は孫文の三民主義の旗印が山東省と華北一帯にたなびくことを認めない為の武力干渉であった。 

 五月三〇日、関東軍は大連を出発し、三一日青島に入港した(第一次出兵)。

 張作霖の奉天軍との戦闘は国民政府軍に有利に展開し、七月初めには山東省の南三分の一を支配下にした。                                                                              と  このような日本の国際法を無視した行動に対し、中国国内で猛烈な反日行動がまきおこり、排日ボイコットが華南、華中全域に広がった。

 上海はじめ、各地で「民衆対日経済絶交委員会」が組織され、日本商品のボイコット、日本の銀行、商店との取引停止、日本の汽船への乗船禁止などの措置が取られた。

 上海の対日経済絶交委員会は、七月二日、官民懲罰令を発布、実施したが、それによれば、日本商人と密かに取引した者は拘禁し、木駕篭十日以下、あるいは街を引き回す(五日間)うえ、取引貨物を没収、日貨を注文した者は、拘禁木駕篭七日以下の懲罰。中国人民で中国の糧食および各種原料を日本人に供給したものは、拘禁二十日以下などの罰則を定めた。

  また上海、南京、広東などの主要都市では、排日デモ、民衆大会が盛大に行われた。  劉仁が学んでいた水産学校は、遼東湾に突き出す遼東半島の付け根にある港町営口にあり、遼東半島の突端の旅順、大連には日本海軍が駐留している。

 遼東湾、さらにその先の渤海湾を挟んで西にあるのが山東半島で、大連から対岸の山東半島の青島まで、日本海軍はわずか一日で到達している。

 劉仁の生まれた本渓、橋頭街から営口は200㌔、大連には約500㌔しか離れていない。日本の軍隊や、日本人が自分の家の庭にも等しい遼東半島や山東半島を我が物顔に無法に荒らし回る姿を目の当たりにした学生たちが、激しく反発したであろうことは想像に難くない。  


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。