碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『生田長江 評論選集』 ⑤

2015年06月01日 11時23分18秒 |  生田長江

  ebatopeko

 

           『生田長江 評論選集』 ⑤

 

 昨、平成二十六年(2014)、『白つつじの会』生田長江顕彰会から

       『生田長江 「評論選集」』が発行された(編者河中信孝)。

 
 内容は次の通りである。
 
   はじめに

  凡例とお断り


 第一部 生田長江の評論文

      1 「近代」派と「超近代」派との戦

      2 超近代派としての重農主義芸術

    3 非文明へのデカダン的 憧憬


 第二部 生田長江に関する評論文

    「超近代派宣言」解説   神谷 忠孝

    生田長江の生涯と思想   猪野謙二

    生田長江氏        三木 清

      生田長江論        新島 繁

    解題

    参考文献 


  ここで、私は猪野謙二氏の「生田長江の生涯と思想」をまず取り上げ、紹介してみたい。

    

 

   (以下今回)

 
     (生田長江の生涯と思想)  ⑤
 
   [生い立ちからニイチェとの邂逅まで] ④


 というよりむしろ、初期のキリスト教からさらにその後におけるニイチェへの転換を通じて、かれの資質とその努力の方向とは、やはり、終始して「明星」派や樗牛、柳村などを受けつぐロマンティシズム文学の完成へと向かっていたというべきであろう。

 (注:要するに生田長江は「明星」派などのロマンティシズム文学の完成に向かっていた、ということである)

 この三十九年(注:1906年)の七月には、『悲壮美論』という樗牛の美学論の焼き直しの様なものを卒業論文として、東大哲学科美学科を卒業した。

 その冬、佐々醍雪(注:「黙翁日録」によると、佐々は「文学界」の主筆で、石川啄木が失意のうちに盛岡中学を退学し、仕事を求めて佐々に面会を求めたが断られた。それは、この年、啄木が「岩手日報」で佐々および「文学界」を批判したからだという。

 その啄木の文はこうであったという。

 「醍雪の所謂温健な態度は世の一部では歓ぶであらうが、吾々はとらない。何故となれば、往々温健は懸念が多すぎると無気力となり、無気力はまま没見識に終わるからである。

 「文学界」は材料豊富な代わり、雑駁之誹りを免れない。殊に所謂青年文士の為にすると云ふ寄書欄の如き、アンナ制限をつけないで大いに奨励してもらひたいものである。

 主筆醍雪さては肝の小さい人」と書いたという。

 ここには当時の啄木の若さが前面に出ており、これでは相手にされなかったのもやむを得なかったと思われる)

 なお、私のブログ「米子の生んだジャーナリストの先駆 碧川企救男」の中でも、明治四十三年(注:1910)の十二月、石川啄木が職を求めて碧川企救男の家を訪ねたことを記している。彼は不在であったが、長男の道夫が啄木に会ったという。

 

 またもう一つ私のブログ「碧川道夫・・・カラー映画の草分け」 ①に、道夫の「幼い記憶」がある。そこに若き日の石川啄木の姿を描いているがそれが次のものである。

 

 「碧川道夫の幼少期の記憶で鮮やかに残っているのは、明治四十三年(1910)年暮れである。

 彼は五歳すこし前であった。十二月のある日企救男とかたの両親は留守で、ひとりで家にいた道夫は一人の男の来訪を受けた。

 夕方であった。表はまだ明るいが、訪ねてきた男の顔は逆光でシルエットになってよくは見えなかった。企救男が留守であることを知り男は帰っていったが、それが父碧川企救男からあとで聞いた話によると、誰あろうあの石川啄木であったのである。

 石川啄木はこのころ小樽日報に勤めていたが、事務長の小林寅吉と殴り合いの喧嘩をしたという。身体の弱い啄木はすぐにうちのめされたが、小林は啄木を哀れみ「お母さんや妻子を抱えて、寒空にどうするつもりだ」と啄木に言ったという。

 これに対して啄木は「これから樽新(小樽新聞)の碧川のところに行く」と言ったのである。小樽新聞の社会部長をしていた碧川企救男を頼ろうとしたのである。

 碧川企救男に会えず、石川啄木の就職はかなわなかったが、それが幼い碧川道夫の見た石川啄木の姿であった。」

 

 生田長江は、佐々醍雪の「家庭文芸」という雑誌を手伝うようになったが、間もなく退職して九段の成美女学校の英語教師となった。

 四十年(注:1907年)の春には亀田藤尾と結婚し、与謝野夫婦の隣家に居を構えたが、その秋、馬場孤蝶らとともに与謝野晶子を中心とする「閨秀文学会」を作った。

 その聴講者の中には平塚雷鳥、山川菊栄らもいた。自信にみちて円転滑脱たる彼の態度と弁舌は、文学に心引かれる多くの若い女性たちを魅了したという(らいてう『わたくしの歩いた道』)。

 (注:生田長江はその文の素晴らしさはもちろんであったが、その弁舌の闊達さも与謝野晶子、平塚雷鳥、山川菊栄らを引きつけた素晴らしいものであったらしい)

 ところで、その頃から次第にニイチェへの傾斜を深めつつあった彼は、四十二年(注:1909年)の中頃から『ツアラトゥストラ』の反訳にとりかかって、四十三年(注:1910年)の末に及んだが(四十四年新潮社から刊行)、その際しばしば鴎外を訪ねて難解な箇所の教えを乞うたりもした。

 彼がキリスト教からニイチェへと進んだ経緯は必ずしも明らかではないが、ニイチェは、明治三十四、五年(注:1901~2年)頃から高山樗牛、登張竹風、上田柳村らによってすでに様々に紹介されており、初めはやはりそれらの影響によるものであったろう。

 しかし、長江とニイチェとの関係は決して単に一介の反訳者紹介者といったものではなかった。それはやがて、彼の文学や文名批評のバックボーンをなすものとなり、その全集の反訳は彼が畢生の大事業となったのである。



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