碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『生田長江詩集』を覗く ⑱

2016年03月02日 14時42分26秒 |  生田長江

  ebatopeko

 

              『生田長江詩集』を覗く ⑱

 

  (前回まで)

 先日、米子市立図書館で『生田長江詩集』を手に取った。「白つつじの会」生田長江顕彰会が発行したものである。生田長江については、鳥取の生んだ偉大な文人で、明治から昭和の初めにかけて活躍した人物である。生田長江顕彰会は詳しい「年譜」を出しておられる。それも引用しながら、生田長江が浮かび上がれば幸いである。

 生田長江についてはまた、荒波力氏による『知の巨人 評伝生田長江』が五年前の2009年に刊行されている。

 また鳥取県立図書館による『郷土出身文学者シリーズ⑥』で、生田長江が取り上げられている。大野秀、中田親子、佐々木孝文の各氏による生田長江の再現が嬉しい。

 生田長江については、私もかってブログの「三木露風を世に出した生田長江」①、②で記したことがある。→ 2009・3・13~14

  今回上記『生田長江詩集』の編集をされておられる河中信孝氏の「解題」に沿って、今や忘れられんとする明治~昭和にかけての、鳥取の生んだ「知の巨人」生田長江を知りたい。

 彼の文人(評論家、翻訳家、創作家ー小説、詩、短歌、戯曲)として、また当時の論壇の中心であったその一端を紹介し、「白つつじの会」のご活躍をお祈りしたい。


 私は、散文や歴史などは少し読んだことはあるが、詩にはまったくと言ってよいほど縁がなかった。

 それで、図書館で『生田長江詩集』を見たとき、生田長江がどんな詩を書いているのかを知りたくて借りてみたのである。しかし案の定その詩は難解で、それを味わう、観賞する能力など私にはなく、ブログのタイトルを『生田長江詩集を覗く』とせざると得なかったのである。   

 そこで、私は生田長江がこの詩集の中で、何を訴えようとしているかわからないままに、私の目についたいくつかの詩を「覗いて」みたい。

 

 

   (以下今回)

 また一つ「覗いて」みる。

     秋     ニイチェ作 生田長江訳

 今は秋。その秋の尚ほ汝の胸を破るかな!
 飛び去れよかし!飛び去れよかし!
 太陽は山に向かひて匐ひ、
 攀ぢ且つよぢて、
 一歩毎に休息す。

 如何にして世界はかくも萎びはてしぞ!
 疲れ弛みし絃の上に
 風はその歌を奏でいづ。
 望みは逃げ行きてー
 彼はそれを惜みなげくなり。

 今は秋。その秋の尚ほ汝の胸を破るかな!
 飛び去れよかし!飛び去れよかし!
 嗚呼、木の果実、
 汝は打ち震へ、落つるにや?
 かの夜の、
 いかなる秘密をか汝に教へしぞ、
 氷の如き戦慄が汝の頬を、
 深紅の頬を覆ひ去りしは?
 汝は黙したり、答へざるにや?
 何人か尚ほ物言ふものぞ?

 今は秋。その秋の尚ほ汝の胸を破るかな!
 飛び去れよかし!飛び去れよかし!
 『我は美しからず
  ー斯くゑぞぎくの語るをきくー
 されど人間を我を愛し
 人間を我を慰むるなりー
 彼等は今も尚ほ花を見るべく、
 我が方へ身をかがめ、
 嗚呼!さて我を手折るべしー
 その時彼等の目の内に
 思い出は輝き現れむ
 我よりも勝りて美しきものの思い出は。
 そを我は見る、我は見るーかくて死に行く我ぞ』

 今は秋。その秋の尚ほ汝の胸を破るかな!
 飛び去れよかし!飛び去れよかし!


   生田長江がニイチェを尊敬していたことはよく知られているところである。
編者の河中信孝氏は、佐藤春夫が長江の全作品は二万枚を超えていたこと、そのうち、『ニイチェ全集』が七千枚、その他の翻訳が七千枚、多くの評論と戯曲・小説などの創作を含めると七千枚はある、と紹介されている。

 また萩原朔太郎は、長江からの影響をつよく受けているがその中でも『秋』の詩は、その情感の深く悲痛なることにおいて、他に全く類を見ないニイチェ独特の名篇であるとしている。 
 
 「秋」が人の胸を打つものであることはよく言われるところであるが、それを、「汝の胸を破るかな!」と表現したところに、彼の翻訳の素晴らしいところである。またその秋と太陽との関わりを次のように表しているところは翻訳の日本語を感嘆するしかない。

 

「太陽は山に向かひて匐ひ、
 攀ぢ且つよぢて、
 一歩毎に休息す。」

  如何にして世界はかくも萎びはてしぞ!

 望みは逃げ行きてー
 彼はそれを惜みなげくなり。 

   氷の如き戦慄が汝の頬を、
 深紅の頬を覆ひ去りしは?
 汝は黙したり、答へざるにや?
 何人か尚ほ物言ふものぞ?

 このあたりの表現には、ニイチェが「人類は滅びるかもしれない」と洞察したことが現れているとも言えようか?

 最近の世界の「テロ」の連続、宗教として終わりなき死の追求の現状には、ニイチェの人類社会が混迷に陥っている実態を予感させるものがある。

 



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。