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生田長江 『震災記事』(39) 九月三十日
ー関東大震災後一か月の日記ー
昨年(平成25年=2013)3月20日、鳥取県日野郡日野町根雨の「日野町図書館」内にある「白つつじの会 生田長江顕彰会」より、『生田長江「震災記事」ー関東大震災後一か月の日記ー』が発行された。
生田長江(本名弘治)は、カール・ブッセの「山のあなた」を翻訳した上田敏に明治39年に「長江」のペンネームをつけてもらった。
彼は、明治40年に隣家の「与謝野晶子」に英語を教え、「成美女学校」の英語教師となり、「閨秀文学会」を発足させた。参加した人には、馬場孤蝶、与謝野晶子、平塚らいてう、山川菊枝らがいた。
彼は鋭い文学評論、さらに社会評論を執筆した。またマルクスの『資本論』を翻訳し、『ニイチェ全集』を翻訳出版した。晩年には『釈尊』を刊行した。
生田長江は、編者の河中信孝氏の解題にも明らかなように、関東大震災の起こった大正12年(1923)9月1日からちょうど1か月、詳細な日記をつけている。
現在日本では、阪神大震災、東日本大震災と大地震がつづいている中で、彼の鋭い一か月におよぶ描写は、これからの日本にとって大きな意味合いを持つと考えられる。編者の解題、注釈に沿いながら紹介してみたい。
関東大震災という呼び名が定着したのは、太平洋戦争後であるとの指摘もあるようで(北原糸子)、それまでは、「大正大震災」「大正大震火災」「関東大震火災」「東京大震災」「帝都大震災」などと呼ばれている。
河中氏は、「関東」大震災ではなく、「大正」大震災だといういいかたは、当時の政府が遷都論を早々にうち消し、「帝都復興」を掲げた手前、単に関東の局部的震災ではなく、日本国家全体の災害として、日本国民全体で復興するのだとの位置づけを「大正大震災」の呼び名に託したといわれているとしている。
あの非常時、大難のさなか、取り乱さず
冷静に社会をみつめている生田長江の精神性と、家族の中で目配りし、来客も少なくない暮らしぶりが如実に記されている。
また、河中氏は社会の動きの中で、庶民の暮らしに共感をよせ、財閥、大資本の横暴には批判的なヒューマニスト長江をみることが出来るとしている。
(注:ここで記した文章には、今日の人権意識からみれば、不適切と思われる差別的な語句、表現を含むものがありますが、時代背景を考慮し、原文のまま掲載しております)
(以下今回
九月三十日
火災保険協会保険金会社の能力の限り支払う旨声明す
風邪にて昨日来咽喉痛み、気分重し。思切って外出することにする。
(注:長江はこの頃時々風邪を引くようになっている。しかし、河中氏によると、その不快感を外出によって吹き飛ばそうという長江の積極性が見えるとしている。
恐らくこの頃、既に病状は外貌にも現れていただろうが、引きこもりとは逆の前向きの気持ちが見えるという)
泉岳寺より塩町行きにのり、四谷通りをぶらづいて予の冬物なぞを買ふ。
皈(かえ)りに白金猿町から久し振りの葡萄二斤ほど買って
皈る。頗るうまし。
(注:泉岳寺ー塩町(現四谷三丁目)電車 四谷で買物 白金猿町(現白金台2丁目)で葡萄を買って皈る 市電は1907(M40)年、四谷塩町ー信濃町間が開業している)
咽喉の痛み、いよいよ甚しく、聲しゃがれて殆んど出でず。硼酸でうがひをする。
(その他1923年、年内の動きとしては次のようなものがある)
10.28 東海道本線復旧、全通。
11.15 戒厳令適用を廃止。
12.16 右翼団体の大化会、葬儀予定の大杉ら3人の遺骨を奪う。翌年同会が返還。
12.27 難波大助、共産主義者のテロリストにより、摂政(注:のちの昭和天皇)が仕込銃(注:この銃は伊藤博文がイギリスで手に入れ、大助の父が伊藤から人を介して手 に入れたとも言われる)によって狙撃さる(虎ノ門事件)。
大助は1924.4.13死刑判決、11.15日死刑執行。
父親は山口県の衆議院議員であったが即日議員辞職し、大助処刑後、蟄居・絶 食し餓死した。