碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

西田 税(みつぎ)のこと (76)

2019年11月09日 15時01分15秒 | 西田 税のこと

ebatopeko

         西田 税(みつぎ)のこと (76)

       ( 『無 眼 私 論』 8)  

 米子ゆかりのジャーナリストの碧川企救男は、民衆の立場から権力への抵抗、批判をおこなった。それは、日本中が戦争に狂喜した「日露戦争」のさなかに、この戦争が民衆の犠牲の上におこなわれていることを新聞紙上で訴えたことにも表れている。

 一方、同じ米子に生まれ育った西田税(みつぎ)は、碧川企救男とまったく別の角度から権力批判をおこない、結果その権力に抹殺され、刑場の露と消えたのである。この地に住む者として、西田税のことを調べてみたい。

  西田税に関する文献は多岐にわたる。米子の山陰歴史館の発行された『西田税資料』を基本資料とした。

 さらに高橋正衛『二・二六事件』中公新書、小泉順三『「戦雲を麾く」西田税と二・二六事件』)、須山幸雄『西田税 二・二六への軌跡』、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』なども参考にした。

 また、最近発刊された、堀真清『西田税と日本ファッシズム運動』(岩波書店)は、西田税に関する現在の到達点と言える研究である。実に教えられるところが大きかった。きわめて大冊であるが、関心のおありの方は是非ご覧いただきたい。

  ここではこの著をもとに記していきたい。但しあくまで私の主観で解釈し取捨選択しており、堀氏の著作をないがしろにするものではありません。堀氏の著作の価値は実際に原著をお読みいただければ十分に納得いただけます。

  はじめに西田 税の自叙伝である「戦雲を麾く」を中心に彼の道筋をたどる。「麾く」は「さしまねく」と読む。

 西田税は、明治三十四年(1901)十月三日、米子市博労町に父久米造、母つねの二男として生まれた。

 当時の歴史的資料も扱っているので、今からみると差別的な部分もありますが、ご了承をお願い致します。

  西田税が、書に秀でていたことは、小学校六年に筆で残した「整頓掃除和楽育児交際慈善」の端正な肉太の字に明らかである。私などは足許にも及ばない。

 そして彼の文章力が素晴らしいものであることは、『戦雲を麾(さしまね)く』を読めばよく理解されるところである。ところが彼の遺したまとまった著作は自伝といえる『戦雲を麾く』と『無眼(むがん)私論』の二冊しかない。

 しかし『戦雲を麾く』はわりあい知られているが、『無眼私論』はほとんど知られていない。そこで、ここでは『無眼私論』を『現代史資料5』「国家主義運動(2)」(みすず書房)にもとづいて紹介したい。

 そこには昭和維新の大立者というイメージからはほど遠い女々しい面も見られると言われる。大正ロマンチシズムもみられるとも。次の詩にはそれがよく現れている。

 「詩と死と、   死は詩なり、   死は人生生存の終焉にして永遠に生存すべき発路(ママ)なり、   ー人生の光彩は実に此間に見るべし、   死は美し、   吾人は吾人の死をして真に美しからざしめるべからず」

(以下今回)

  (大正維新)

      ※ 参考書     罵世録(ばせいろく、世をののしる)   我大日本主義   我大亜細亜主義(わがだいあじあしゅぎ)   我等ノ使命   窮天私記

時代は漸次(ぜんじ、注:しだいに、段々と)推移して行く、そして各種の事象は之れに従って凝固して行く、 而(しか)も其凝固たるや概して偏頗(へんは、注:すこぶる偏っている)である、 吾等は常に創造当時の意気と理想とを保有して此の偏流(へんりゅう)を 矯正匡救(きょうきゅう、注:ただすこと)せねばならないのである

見よ、明治維新以来の祖国に於ける事象の推移を、 当時の理想は恐らく今日其片鱗(へんりん)をも認めることが出来まい、而(しか)も当時の状況は今日のそれとは多少異なってゐなければならぬ、今日はより一層重大である

一朝にして幾百年の武断政治ー而(しか)もそれは一天万乗(いってんばんじょう、注:天下を治める君主)の至尊(しそん、注:この上なく尊いこと、そのもの)を蓋ひ(おおひ、注:ものごとをかぶせ守ること)奉った臣子(しんし)の専擅(せんせん、注:ほしいままにする)であったー

が腐敗の極に達したとき「国民の天皇である、天皇の民族である」といふ純真赤子(じゅんしんせきし)の真率(しんそつ、まじめで飾り気がないこと)なる而も勇敢なる雄叫びに幾多の志士は革命の大旆(たいはい、注:大旗のこと)を掲げて起(た)ったのであった。

天朝の霊妙(れいみょう、注:人知でははかりしれないほど奥深く神秘的な尊さをそなえていること)なるそして円慈(えんじ)なるー実にては(この字不明)哲理の表現に外ならぬー明光を直ちに国民ー民族の上に浴びたい否、

浴びねばならぬこれが実際の日本であるといふのが当時専擅(せんせん、注:ほしいままにする)愚劣なる武断政治を破壊して太古の真日本に帰らうとする維新志士其他一般民族の素志であったのだ、

然(しか)して社会?覆(てんぷく)ー真日本の建設は成就せられたのである、真理は茲(ここ)に其聖光を放つにいたった、

理想の滅却否尠(すくな)くも理想の悪的転移(あくてきてんい、取り違ひもあらう)は浅間しい人間の群集の中では時の推移と共に生じ易(やす)い、ーこれは止むを得ぬ事かも知れない、 近代の日本も其例に漏れなかった、

余輩維新当時の聖的志士が建設したる真日本を思ひ、現時の日本を更に細かに正視したとき此感慨は我しらず犇々(ほんぼん、注:溢れるように、いっぱいに)と胸を襲うたのである、

民族は当年の理想を忘却して居る、

そして一度其光炎(こうえん、注:詩文や議論が雄大で勢いがあって、長く後世に伝わるたとえ、中国の「韓愈」の言葉より)を発揮した真理も正義も尽(ことごと)く今やその光りを隠して終わった、

真理の聖光を吾等は現時の国家民族の上に認め得ないのである、 皇は民族国民より望み得ず両者の中閒には蒙昧(もうまい)愚劣不正不義なる疎隔(そかく、注:ものごとにうとくなって隔たりができる、もしくは作ること)群を生ずるに至ったのである、

為に見よ、不逞(ふてい、注:勝手気ままに振る舞うこと、また不満を表すこと)、時を得て、跋扈(ばっこ、注:ほしいままに振る舞う、のさばること)し非望(ひぼう、注:分不相応な大きな望み)を抱くさへ生じたるにあらずや、

国家社会は険悪なる而も不安な状態に在って内患(ないかん、注:国内の心配事)に苦悩し更に外憂(がいゆう、注:外からの圧力、攻撃など心配事)に呻吟(しんぎん、注:苦しんでうめくこと)し前途は暗澹として逆賭(ぎゃくと、げきと、注:物事の結末をあらかじめ見てとること、先見)し難いものがあるのではないか。

如何に不明不賢、未知なものでも之れ位は気が付かねばならぬ。 真日本を再建すべき時節は将(まさ)に到来せんとす、友よ哲理を表現すべき真日本を建設せよ、

(注:「大正維新」の」前半をたどってみる。

時代は大正になってだんだんと推移して行くが、事象はしだいに凝固していってしまう。そしてその固まり方は概して偏っている。我々は明治維新の創建当時の理想をもってこれを矯正し正さなければならないのである。

維新当時の日本の推移を振り返って見よ!その理想は今やその片鱗も認められないではないか。幾百年もの徳川幕府の腐敗政治が腐敗の極に達したとき、幾多の志士が「国民の天皇である」との雄叫びをあげたのである。

その維新当時の志士の建設した真の日本を思えば、今や当時の理想を忘却してしまっている。そしてその真理や正義が今やその光を隠してしまったのである。外夷に対しては憎しみと一方で同情を感じるのである。

そして唯一の民族である我が日本民族は、ここに大声をあげて再び国家を改革して真の日本国を建設せよと絶叫せざるを得ないのである。「国民よ理想を忘れた今の民族の醜態を見よ」と言いたい。

ここには大正時代も十年を過ぎ、明治維新の理想が失われ、これからの日本の将来が予見出来ない状態になってしまっている。友よこれに気が付かねばならない。そしてここに「真日本」を再建せよと言いたい!)


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