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西田 税(みつぎ)のこと ⑪
(陸軍士官学校時代 その2 川島芳子のこと)
大正九年(1920)十月一日、西田税は士官候補生としての朝鮮羅南騎兵第二十七連隊付からもどり、陸軍士官学校に入学した。
そこで知り合ったモンゴルのパプチャップ将軍の遺児、カンズルチャップのことについて、彼がのち「東洋のマタハリ」と呼ばれた川島芳子と結婚したことを述べた。
その「川島芳子」について横道にそれるが少し記してみたい。彼女は周知のごとく清朝遺族粛親王の第十四王女である。本名は愛新覚羅顕?(あいしんかくらけんし)という。
1911年(明治四十四年)辛亥革命がおこり、清朝が倒れ、中華民国が設立された。そのとき粛親王は、川島浪速の手引きで北京を脱出し、日本の後援のもと清朝の復活をはかった。
川島浪速は、信州松本藩士の子で、外国語学校で中国語を学んだ人物である。そして粛親王と関わりを持つにいたったのである。
粛親王は川島を信頼し、やがて義兄弟の盟を結ぶことになる。そして粛親王は川島に対して、その七歳になる王女を養女として送ったのであった。
川島家に引き取られた王女は、川島芳子と名乗ることになる。七歳で川島浪速の家に養女として来た彼女は、東京で小学校から跡見高等女学校に進むことになった。
やがて川島が郷里松本に帰ると、松本高等女学校に通うことになる。松本高等女学校には騎馬で通ったとのエピソードがある。
彼女は十七歳の秋に断髪した。その原因としては、養父の川島浪速から関係を迫られたというのが通説である。そして彼女は「女をやめて男として生きる」道を選んだという。
しかし、その後1927年、パプチャップ将軍の二男カンズルチャップと結婚するが三年ほどで別れた。子どもが出来なかったことが原因で自ら身を引いたというのが真相であった。
しかし、カンズルチャップの再婚に際してはその結婚式に参列し、子どもの誕生にはお祝いを送ったという。
その後、大陸で関東軍中佐の田中隆吉に接触し、1932年の第一次上海事変に彼女は利用されることになる。満州国建国後には熱河作戦にも参加している。
しかし、満州国の実態は、彼女の考えていたものとは大きく食い違っていた。
彼女が女スパイとして暗躍したことが、「東洋のマタハリ」と言われることになったが、結局は関東軍に利用され、その結果戦後昭和二十三年国民政府によって銃殺刑に処せられることになったのである。
死に臨んだ彼女は、まったく動じず凛としていたという。王女の気品であった。処刑後、見つかった遺書には、
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん
と記されていたと言う。川島芳子の、歴史に翻弄された悲しい生涯を思う。
そして、彼女を利用し尽くしたあと見捨てた関東軍をはじめ当時の日本軍、および政府の非情をそこに見るのである。