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霊界通信3の4、礼節と政治、天照大御神のメッセージ

2021年01月21日 | 思想
ここまで、霊界通信シリーズと称して、何人かの、いわゆる女性霊と言われる方々の、霊界からのメッセージを、ご紹介してきました。そして、ここに来て、はたと、気が付いたことがあります。それは、小桜姫や紫式部と、天照大御神のメッセージの内容の違いです。

小桜姫や紫式部のメッセージには、私は霊界でどうしている、こうして暮らしている、といった、ご自分の生活のお話が、よく出て来ました。それに対して、アマテラス様のお話は、そうした事よりも、国土や、秩序、徳、光といった概念的と言いますか、思想的と言いますか、そうしたお話が主なんですね。で、どこまで行っても、そうしたお話なんです。

まず、このシリーズを始めようとしたのは、女性霊の方の、霊界での暮らし向きをご紹介することで、霊界という、私たちがエネルギー体、即ち、霊として存在する世界について知り、親しんで頂こうという趣旨だったわけです。ところが、ここに来て、アマテラス様をご紹介して、ちょっとシリーズとしての連続性に疑問が生じたわけなんです。うーん、どうしたものかな?

そもそも、その違いというのは、波動の違い、なんですね。つまり、意識の違い、認識の違いなんです。小桜姫や紫式部は、いわゆる六次元(当時)のエネルギー粒子密度の、そうした意識世界の住人です。それに対して、アマテラスが居られるのは、八次元の意識世界なんです。これは次元が高いから、あるいは、低いから、良い悪いではなく、優劣でもなく、まあ、おしなべて言えば、意識の違いということなんです。

六次元世界というのは、いわゆる神界ですが、霊としては、個人と言いますか、「個」としての意識が存在する世界で、八次元になると、そうした事よりも、もっと広がった意識、認識で存在されている世界になります。もう、個人としての自分のことは、あまり意識にない世界なのでしょうね。その違いが、メッセージの内容に、違いとして出て来るようです。

で、まあ、こうして、その違いをご説明して、ご理解頂けるようであれば、一緒に同じシリーズの中で続けても問題ないかな?とか思っているところなんです。本来ならば、ちょっと別にした方が分かり易いかも知れない、と思ってはおります。そういうことですので、どうか、あらかじめ、ご了承頂ければと思います。

そして、アマテラスという方のお話には、まあ、今の方の考えからすれば(私などにも、そう感じられる部分はありますが)、古風と言いますか、悪い言葉で言えば、堅いといいますか、取っ付きにくいと言いますか、そんな感じの考え方のようなものが多く出て来ます。これは、どうも、道徳の星と言われる、アマテラスの元の御出身の星の波動を体現しておられることから來るもののようで、それが、地上では、東洋と呼ばれて来た、独特の意識や価値観の世界を作って来たようなんです。まあ、是非はともかくとして、そういうものだということなんです。

(ここから)

私は、我が教えの根本の一つとして「礼節」という事を、語っておきたいと思います。

礼、という事は、人に対する敬(うやま)いの気持ちであり、節という事は、織り目正しい作法、という事です。礼節という言葉によって表される事は、結局、人間が、この世において、節度ある生き方をして行くための作法、であると言えましょうか。

礼節には、二つの種類があります。その一つは、神に対する礼節であり、いま一つは、人間社会における礼節です。

まず、神に対する礼節、これを「信仰」という名で呼んでいるのです。信仰という名で呼ばれているものが、即ち、礼節でもあるのです。神に対する礼儀を尽くす、ということ、そして、節度ある毎日を送る、ということ、これが礼節の意味です。

では、なぜ、神に対して礼節を尽くす必要があるのでしょうか。その意味は、一体、どこにあるのでしょうか。

それは、結局のところ、謙虚さ、という事が一つ、もう一つは、真実に学ぶため、この二つの理由があるのです。人間は、大いなる神から創られた、小さな小さな存在です。その小さな存在が、全知全能であるかの如き傲慢な思いを持ってはならないのです。だからこそ、謙虚さが必要とされているのです。しかも、単に謙虚であるだけではなくて、教えを請う、という態度が大事です。物事を学ぼうとする時には、やはり、恭(うやうや)しい態度をとるべきである、ということです。

従って、神、あるいは、高級諸神霊は、全て、私達が地上にある時の、師と仰ぐべき人達であるから、それだけの礼儀を尽くさねばならない、ということです。これが、信仰の根本にある考え方です。

もう一つの、人間社会での礼節についてですが、なぜ、人間社会において礼節が必要であるか。

それは、まず第一に、我も、また神の子であるが、彼も、また神の子である、という考え方です。人間は、それぞれ、最高度に神が愛しておられる存在であり、神の分け御霊であり、神の一部でもある、という考え、これが真実の考えなのです。

ですから、お互い、他人に対して敬意を表しているだけではなくて、神の創り給うたもの、神の愛し給うたものに対して、礼節を尽くしているのだという事になりましょう。

つまり、神が愛し給うたもの、であるからこそ、他をも愛する。他も、素晴らしいものと感じる。そうして、お互いに愛し合い、誉め合い、尊敬し合う様な、人間関係が出来て来るのです。

人間が尊敬し合うためには、礼節という事が、とてもとても、大事である様に思います。その礼節が欠けた時に、人間は、お互いに孤独な存在となり、孤立した存在となって行きます。孤立した群れの中に生きて行くことになります。その様に、単に生きるのではなくて、お互いを、もっともっと伸ばし、お互いを、もっと尊重し、尊敬して行くためには、どうしても礼節という事が必要なのです。

「親しき仲にも礼儀あり」と言いますが、それは、相手をよく知っている、と思う、その心に、相手が分かり得る、という心に、既に傲慢の芽があるのです。

人間は、お互いに、完全に理解することは出来ません。相手の中に、どれほど素晴らしいものが潜んでいるか、埋もれているかは、分かりません。だからこそ、お互い、礼儀を尽くして、相手の中にある神性なるもの、神なるものを拝み出す必要があるのです。ここに、拝み合いの生活が始まって行くのです。お互いの中にあるキラキラと光るものを拝み出して行くこと、これが大事です。そのためには、まず、お互いに認め合う、ということが大事です。

もう一つは、人間関係における縦の序列、というものが、あるかと思います。

親子の関係、或いは、先輩と後輩の関係、上司と部下の関係、こうしたものがありますが、これは、小さな形での信仰と、同じ事になると思います。子が親を尊敬する理由は、それだけの長い人生経験を経ながら生きて来て、しかも、自分を愛し続けてくれた唯一の存在でもあるからでしょう。同じく、部下が上司を尊敬するのも、自分の仕事について、より良き指導者となり得るからでしょう。

この様に、地上においても、自分より優れたもの、自分が一目置くべきものを認める、ということも大事です。自分だけが全てであり、自分だけが一番偉くて、他の者は皆んな自分より下だ、という考えには、危険な思想が潜んでいます。その思想には、危険なものが、やはりあるのです。

だからこそ、地上にあっても、自分より優れた、と思う人に対して、敬意を表する必要があるのです。

私は、そうした礼節というものは、とてもとても大事なものであると思いますし、これが、人間が、より美しく、より香り高く、より誇り高く生きて行くための潤滑油であると信じています。


政治、という事に関してですが、古来より、神近き者が国を治める、という事を、第一義としていました。しかし、現代では、政治が、職業政治家によって為されていて、職業政治家には、神を信じる、という事が、義務とはされていないと思います。ここに、現在、政治が乱れている理由の一つがある、と思えるのです。

やはり、政治の根本にあるものは、神への帰依であり、神の心の代弁です。政治家たる者、まつりごとをするべき者は、神の心を、この地上に翻訳して、人々を統治せしめる必要があるのです。それが、政治についての考え方の根本です。

政治は、やはり、徳治主義以外にないのです。より徳ある者が、まだ、そこまで行っていない者達を治める。ここに、リーダーの発生原因があって、そのリーダーが人々を導く、ということになって行くのです。

本来は、神ご自身が、この大宇宙を、また、この地球を治められている訳ですから、地上の人間にとって、統治者がいる必要はないかも知れませんが、やはり、神を直接的に感じ取ることが非常に難しいために、神に代わるべき人としての統治者が必要になってきます。

私は、現代においては、政治に一番の問題があると考えます。徳治主義を、もう一度、復活させる必要があるのです。尊敬される人を、政治の原点に据えることが大事です。より徳高き人を選ぶべきです。単なる数の論理で指導者を決めてはならない。世の尊敬を受けられない人ならば、政治に携わってはならない、という事です。決して決して、神は、この事を許されない、ということです。

神の願いは、いつも一つ、神近き人を通じて地上を治めたい、という気持ちです。それは、太陽が出れば草木がそちらになびく様に、神の徳を慕って人々が付いて来る事を望んでいるからです。

ですから、この地上で、神近き人が、一日も早く指導出来るような、そうした制度にしていかねばならない。そうしない限り、根本的に、この国は良くならない。私は、そのように思います。

選挙制度という様なものが、最高であるかの如く言われていますが、本当に、政治家と言われている者が優れた方であるならば、自分の後任を指名して、そうして、その人の信任を世に問えば、それで済むのではないでしょうか。それが、「私も、私も」と、偉くなりたいという人が一杯出て来て、お互いに争い合う事が、非常に問題になっているのではないでしょうか。政治の中心に争いを置いてはならない。そうした争いの心を置いてはならない。私は、これを、声を大にして言っておきたいと思います。

また、人の上に立つ者は、それだけ大きな負担を負うべきである、とも私は思っています。恥ずべき事をした時には、速やかに職から離れること。人々の指導者である事に対して問題があれば、それを潔く認めること。自ら身を退くという、その身の退き方が大事です。無欲で、どうやったら国政をうまく持って行くことが出来るか、そうした考え方が大事です。それは有名な方でなくともよいのです。無名な方でもよい。徳高き人を選んで行くという姿勢が大事です。

今は、知名度選挙とも言うべき現象が現れていますが、大変悲しい事です。残念な事です。そうではなくて、徳高き人を、如何にして選び出すか、という事に心を砕いて頂きたいと思います。

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