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歴史ということ、ー天之御中主之神メッセージ5

2018年06月27日 | 思想
学校時代の社会科で習う歴史に、私が不満だったのは、そこに、因果関係と言いますか、教訓と言いますか、そういうものが、含まれていなかったからだと思います。ここでは、天之御中主という方の、また違った歴史認識のあり方が語られています。

(ここから)

私は、さらに、歴史ということに関して、話をしてみたいと思う。それぞれの民族には、それぞれの歴史がある。その歴史の中には魂の故郷(ふるさと)があるのである。諸君らは、この魂の故郷を大切にせねばならん。

歴史の中には、過去、この国に生きた人々の、様々な喜びや悲しみ、幸せや苦しみ、そうしたものが流れているのである。そして、彼らの苦闘の歴史が、その中に刻まれているのである。彼らの努力の跡を思え。自らが、自らの、当然の生活をしている事を、当り前と思ってはならん。

諸君が通勤電車に乗れるのは、これは当り前であるのか。諸君がマンション住まいが出来ることが、当り前であるのか。諸君が飛行機に乗れることが、これが当り前であるのか。諸君が新幹線に乗れることが、当り前であるのか。諸君が船に乗れることが、これが当り前であるのか。諸君らは、常々、与えられている物の、大切さを、考えてみねばならん。

諸君らは、何の気なく服を着、何の気なくズボンをはき、何の気なくスカートをはいているであろう。諸君らのうち、ただ一人でも、それらの物を、自分だけの力で作れる者がいるか。自分だけで背広を作れる者がいるか。自分だけでズボンを作ることが出来る人がいるか。自分だけでベルトを作ることが出来る人がいるか。自分だけで靴を作ることが出来る人がいるか。自分の力だけで、自動車を作ることが出来る人がいるか。

こうして考えてみると、現在、諸君らが恩恵をこうむっている文化的な遺産、この、諸君らの幸せを保障している物は、全て、諸君らの先人達の、努力の賜物とは言えないであろうか。諸君らは、それらに対して、いくら感謝しても、し尽くすことが、ないのではないのか。

諸君は、日本人が、全国が統一されて平和に暮らしているのを、当然と、しているかも知れぬが、ほんの百年前には、日本統一のための戦争があったのである。諸君は、その事を知っているか。

日本を統一するために、幾多の血が流れた事を知っているか。優れた人達が、骨と化して行った事を知っているであろうか。そして、日本が統一される、その、何百年か前には、それぞれの藩が確立するために、覇を競っていたことを、諸君らは知っておるか。そのために、幾多の血が流れた事を知っているか。

諸君らは、過去の人々の流した、血と涙と汗を、当然の事と思ってはならん。彼らは皆、この地上をユートピアにするために努力して来たのである。そして、自らがユートピアを手に入れることなく、この地上を去って行った人達なのである。

諸君達の現在の幸せは、そうした多くの先輩達の努力の賜物なのである。諸君らは、一日に一回、そうした人類の歴史を思え。また日本の歴史を思え。そして、どれだけ多くの事を、諸君らは、先人達に負っているか、という事を思え。

自分の一日を振り返る人は多いであろう。そして、自分の思いと行ないを反省している人は居るであろう。しかしながら、諸君らが当然と思って享受している、この権利が、本当に当然なものであるかどうか、という事を、もう一度、諸君は、検討しようと思ったことがあるか。

諸君らが、ロビンソン・クルーソーの様に、離れ小島に一人生まれたとして、現在の様な境遇を、味わうことが出来たであろうか。それを、もう一度、考えてみられたい。

どれだけ多くの、何万、何十万、何百万、何億、何十億、そうした数の人達が、現在の諸君を創るために努力して来たか、という事を、諸君らは、深く深く、考えてみなければならんと、私は思う。

それは、諸君らが享受している便益という事においても、そうであるけれども、諸君らの、肉体という事においてもそうだ。

諸君らが地上に出るためには、必ず、両親というものが居たのである。その両親にも両親がいたのである。その両親にもまた両親がいたのである。さすれば、諸君らの肉体というものは、何千年、何万年、何十万年、何百万年と、たどってもたどっても、元があったのである。

その中の、その子孫の、或いは、先祖の枝の中の、どの一本が欠けていたとしても、どの枝の一本が欠けていて、片親が、どれか欠けていたとしても、諸君らの、現在の存在はないのである。

例えば、今、タイムマシンにでも乗って、一万年前の世界に還ったとしよう。そして、諸君らの肉体先祖が、そこに居たとしよう。そのご両親が、その夫婦が結婚しなければ、諸君の現在はないのである。その片方が死んでしまっていれば諸君はなかったのである。

さすれば、諸君の肉体の中には、諸君の血液の中には、そうした過去、何万、何十万、何百万という人々の、連綿とした、そうした努力の歴史があったという事を知れ。

今から五千年前の人も、一万年前の人も、肉体生命を維持するために努力をして来たのである。その日の糧を得るために努力をし、そして、心の安らぎを求めて来たのである。

そして彼らの生命活動の営みのお蔭で、諸君らの、現在の肉体があるのである。こうした先祖達の努力によって、現在、自分が生かされている、という事を知れ。感謝せねばならん。深い感謝をせねばならん。

諸君らは、魂だけが全てであって、肉体は全てではない、というふうに考えるかも知れぬ。或いは、肉体のみが、全てであると考えるかもしれん。まあ、どちらの考えも偏ったものであると思う。魂は魂として永年の転生輪廻をくり返しているけれども、この肉体舟というものも、決して粗末にしてよいものでもないのである。それは、その中には、無限の人間の歴史が刻まれているからである。諸君は、こうした神秘を考えたことがあるであろうか。

それは、魚類が、一時的に、産卵と称して何万もの卵を産む事とは違っているのである。魚類が何万も、或いは、何億もの卵を産卵し、偶然に、そのうちの幾らかが育って行くのとは違うのである。

人間が育つには、二十年の時間がかかっているのである。諸君の両親も、そのまた両親も、その両親も、その、二十年という長い月日をかけて、子供達を育てて来たのである。それだけ手塩に掛けて造って来たのである。そうした家族の流れ、歴史があったのである。そうした事に関して、無限の感謝が必要ではないであろうか。

諸君は、現在ある文化が、当然と思ってはいけないと同様に、現在ある肉体も、当然と思ってはいけない。その肉体があるためには、一万年前の、十万年前の、百万年前の、諸君の先祖達の営みがあった、という事を知らねばならん。努力があったという事を知らねばならん。

そういう歴史があったのである。そうした事を、深く深く、振り返らねばならん。それは人間としての義務であり、人生の原点でもあるのだ。

この、日本にいる一億二千万人の人口の中で、誰が、一体、そうした事を毎日考えているであろうか。当然の如く、朝起き、当然の如く、一日を過ぎ、当然の如く就寝している。これが毎日毎日ではないであろうか。

その文化的遺産が、当然かどうか、その肉体的生命が、当然かどうか、これを、もっともっと、深く深く深く、考えてみねばいかんのではないか。こうした事について、私は、今、諸君らの注意を、深く喚起しておきたいと思うのである。

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