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霊界通信3の5、社会的秩序と指導者、天照大御神のメッセージ

2021年01月23日 | 思想
天照大御神の霊界からのメッセージの続きです(カッコ内は、こちらで付けた補注です)。

(ここから)

私は、本来、(霊としての)人間は完成されたものである、と思っています。(地上の人間に様々な問題が起こるのは)その完成されたものが、(地上の)いろんな環境の条件によって、様々な姿が(不完全に地上に)映し出されているだけであろうと思います。

例えば、鏡というものが完全であれば、私達の姿は美しく完全に映りますが、鏡に凸凹があったり、歪みがあったりすると、そこに映る姿は、正常なものではなくなって来るように思います。地上という世界は、この比喩を引くならば、鏡に歪みがあると思うのです。鏡に歪みがあって、本当の自己の姿(霊人としての自分)が正確に映らない(地上で正しく行動できない)でいるのではないのか、その様に私達(高級霊、霊界人)は思うのです。

ですから、今、地上の人間達にとって一番大切な事は、(例えて言う所の)鏡の出現です。自分の姿を正確に映し得る、鏡の出現であろうと思うのです。これは即ち、どの様にすれば、自分の本当の姿を知ることが出来るか、映すことが出来るか、ということでしょう。

実は、私を始め、他の高級諸神霊が、次々と霊言、霊示を世に問うている理由は、鏡が(地上の)世に欲しいからです。高級諸霊の言葉、その思想を打ち出すことによって、(それを鏡にして)如何に(地上の人々が)自らの姿をそこに映すか、という事を試しているのです。あなた方は、少なくとも、私達の言葉を読むことによって、そこに、本来の、あるべき自己の姿を、学ぶことが出来るでしょう(霊界での人間としての完全な在り方を地上の行動でも出来るようにする)。

この世において、良いとされている考え方が、必ずしも、本当に良い考え方ではありません。この世的に、最高だと言われている生き方が、本当に、最高の生き方だとは言えません。その、本当の意味での最高の生き方を呈示することが、即ち、正しく映る鏡を出して、皆さんの姿を映すことに等しいと思うのです。

私達は、一人ひとりの人に、正しい鏡(本来の人間としての自分の在り方)を見つめてもらいたいために、こうして数多くの霊示集を送ろうとしているのです。どうか、私達の本当の真意がどこにあるのか、ということを知って、そうして鏡に映った自らの姿を正して頂きたいと思います。

鏡そのものが、澄み切った美しい鏡であるならば、そこに映っている自らの姿が、美しいか、美しくないかが、はっきりと判るはずです。映っている自らの姿に問題があったならば、なぜ、そうした問題があるのか、という事を、もう一度、考え直して頂きたいのです。

なぜ、そんな問題があるのか、なぜ、醜く映ったりするのか。それを知って頂きたいのです。醜く映る理由は、やはり、思いと行いに、何らかの誤りがあるのではないのか、自分の考えに、何か足らざる所があるのではないか、改めるべき所があるのではないか、それを知って欲しいと思うのです。

神道においても、禊祓(みそぎはらい)ということを言いますが、人間は、時折、こうした正しい鏡の前に立って、自らの穢(けが)れを正していく必要があるのです。

自らが誤った心を持っているとしたら、これを反省し、神の前で虚心になって行くことが大事です。神の前で、美しい自分となって行くことが大事です。神の心が、どこにあるのかを知って、それに背いている自分があったなら、反省をすることです。詫びることです。そうして、憎んでいる人がいたら、許してあげることです。詫びることです。和解をすることです。

本当に大事なことは、この世で、誰ひとり悪く思わず、誰ひとり憎まずに生きて行くことだと思います。本当に素晴らしい生き方とは、全ての人と調和し、誰を責めるのでもなく、誰を恨むのでもなく、(心)豊かに生きていくことだと思います。それが大事であろうと私は考えるのです。

人間に、今、必要とされていることは、その本来の鏡を見いだして、その鏡に映った自らの姿を見つめ直すこと。そして、神々しい神の子としての自分を取り戻していくこと、だと思います。私の、このメッセージを読んで、自らの思いと行いに、何らかの誤りがあったと思う人は、よく正座し、手を合わせて、自分の心の、非を、私に対して謝りなさい。そうすることによって、あなたの悩みは解決して行くでしょう。

私は、あなた方一人ひとりの事を、いつもいつも心に懸けています。あなた方一人ひとりが、どうすれば、もっと素晴らしくなり、どうすれば、もっと幸せになれるか、どうすれば、清い心になれるか、それを、いつもいつも考えているのです。

どうか、一日の、ごく短い時間でも結構です。私の、この言葉を読み、そうして、時折、瞑目し、合掌の姿で、私に対して語りかけ、呼びかけてみて下さい。そうして、自らの心を見つめた時に、そこに塵や垢があると思ったならば、それを、反省して取り除いて下さい。他人に対して悪しき思いがあったなら、それも反省して取り除いて下さい。また、大いなる和解をしていくことだと思います。

自ら、潔くならなければ、潔い生き方をしなければ、人間には、永遠の苦しみが付きまとって行きます。どうか、潔い生き方をされるように。自らの欲望のために、苦悩を作り出して行かないように、そうした事を、くれぐれもお願いしたいと思います。

(ここからは、「秩序」ということについて、語られます)

まず、秩序とは一体何か、という所から、お話をして参りたいと思います。

秩序とは、結局の所、社会が安定するための方法論です。一体どの様な仕組みにすれば、社会全体が、纏まりがついて行くか、こうした事を考えるのが、秩序という考え方です。これは、確かに大事な考え方です。

例えば、目の前に、二十人、三十人の方が集まったとして、一体、どの様にまとまりをつけて行けば良いのか。一体、誰がリーダーとなれば良いのか。こうした事が非常に問題となる訳です。

秩序とは、人間関係に一定の規律をもたらす考え方です。どの様に人々の間で人間関係を形成するのが、社会にとって一番、安定感があるのか。まとまりがあるのか。こういう事を考えているのです。

古来より、年功序列であったり、或いは、生まれつきの、素性(すじょう)であったり、或いは、能力であったり、男女の別であったり、いろんな物差しが必要とされておりますが、いずれにしても、大切な考え方は、何らかの序列というものが、人間社会には必要だということ。そうして、指導者が、どうしても存在する必要がある、という考え方です。これは、人間の本質、本性から言って、少数の優れた者が、他の多くの者を教え指導するのが、歴史の中では、正しい形の人間関係であったと言えるのです。

いま、西洋型の民主主義が流行(はや)り、国民主権であるとか、万民平等の思想が広がっています。これ自体は、そう悪い事ではありませんが、ただ、全ての人が主権者、全ての人がリーダー、という考えは、一見、多くの人の心をくすぐる甘い香りは漂(ただよ)っておりますが、真実のあり方ではありません。本当は、そうした事で、結局、烏合(うごう)の衆(しゅう)へと化していく恐れが非常に強いのです。やはり、人間は、(集団で生活する為には)指導者というものが、どうしても必要で、また、その指導者選びのための方法論、組織論が、何にもまして大切となって行くのです。

結局の所、多くの人が集まった時に、その意見の統一という事が重要となって来るのです。個性の数だけ、いろんな意見がありますが、団体として、集団として 決定し、行動して行くためには、何らかのまとまりが大事です。まとまりをつけなければ、決して動くことが出来ないからです。

例えば、日本という国がありますが、この国の中で、いろんな県があります。それぞれの県で、それぞれの政策を実施して、日本という国全体で見て、まとまりがないならば、これは非常に困ったことになります。どうした点で困るかと言うと、まず、諸外国との関係において、非常に面倒なことになる、という訳です。また、県と県との間で、非常に政策が違った場合に、国民の中に、不平不満が一層高まる傾向がある訳です。ある程度の、統制、規律の中での、個性の開花、これが重要だと言えましょう。

学校生活にしても、同じようなことが言えます。それぞれの人間として、学生、生徒としての個性は、尊重はされているのですが、やはり、全体として、学校の規律に従ってもらわねばならない。こういう考えは、貫かれているはずです。また、社会に出ても、会社に勤めても、会社員という一つのまとまりの中で、その枠の中で生きなければならない、という規則は、あるように思います。

このように、団体として、まとまった行動をしなければならない、という時に、何らかの意思決定が必要であり、意思決定をして行くためには指導者が必要である。そうして、どの様に指導者を選んでいくか、という作法が、秩序の原理となって行く。このように言えるのではないかと、私は思います。

では、なぜ、その方がいいか、というと、例えば、一艘(そう)の船を思い浮かべれば良いでしょう。船の中に何十人かの乗組員がおりますが、必ず、どの船にも船長がいて、船長の意見には、皆の者が従わねばならない。こうした規則になっています。そうでなければ、船として機能しないし、嵐の時に、そうした指導者がおり、そうして、指導者の意見に従って行くという方式が必要となるのに、その嵐を乗り切っていくことが出来ないからです。

(指導者が必要なのは、)やはり、多くの人の幸せのため、共通の幸福のためです。私の考えから言えば、本来、国民は平等、万人は平等、というよりも、神の下(もと)に平等である。神の子として平等である。そういう考え方です。ですから、指導者たるべき者は、神の心を心として生きられる人、神の心を心として、日々、人々を導ける人。こうした方が指導者になるべきです。

そのために、如何なる基準で(社会の役割を担う)人々を選んで行くか、指導者を選んで行くか、また、それを何代にもわたって続けて行けるか、これが大事な考え方であろうと思います。結局、秩序というものは、何百年、何千年と、連綿と続いていく、国としての安定感、或いは、民族としての安定感に繋がって行くものであって、この考え方がないもの(国や民族)は、やがて消え去っていく運命にあると言えましょう。

今、日本という国を見てみると、一つの歴史的転換点に立っていると思います。民主主義という理念が、これほどまでに通用したことは、かつて、西の方の国、ギリシアの国にて、民主主義が繁栄した時と、非常によく似ているように思います。

ただ、これから先の、日本という国を見通して行く時に、どうしても、また、この民主主義の反動、揺り返しが来るであろう。そうした事が予想される訳です。どの様な揺り返しか、と言うと、つまり、優れた人の指導力について行きたい、という、国民の願いが強くなって来る。凡愚(ぼんぐ)の人達の話し合いによるよりは、優れた人の指導力について行きたい。こうした願いが出て来る、という事です。

危機の時代には、いつも、そうした優れた指導者を欲するのが、国の常でした。歴史の常でした。また、これからの日本にも、そうした優れた指導者が、数多く、連綿と出て行くであろうと思います。そうした、賢人(けんじん)の政治、いわゆる、賢帝(けんてい)と申しますか、賢い指導者達が続出していくような時代が、もう、そこまで来ているように思います。

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