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霊界通信3の6、社会の理想と個人、天照大御神のメッセージ

2021年01月25日 | 思想
ここでは、アマテラス様は、社会というものの在り方について語っておられます。現在の社会が理想の反対にある理由、原因については、背後にハザール人の暗躍があることでも、ご説明して来ました。そうした秘密の権力は、いま、排除されつつありますが、その後に来る自由な社会を、形成、運営する上で、こうした社会についての基本的な考え方が、参考になるのではないでしょうか。木の実の分配を例に出しておられるのが、微笑ましいですね。

(ここから)

さて、私達は、無批判に「社会」という存在を受け入れています。そうして、人間は共同で生活して行くべきものである、という事を、これまた、無批判に受け入れています。

しかし、そうした社会という考え方、共同体という考え方、これは、如何なる見地から容認されているのでしょうか。どの様な観点から、そうした事が、あって良い、とされているのでしょうか。これについて話をしていきたいと思います。

社会の理想とは一体何なのか、という事と、同じ質問、問いになるだろうと思います。社会というものは、何故(なにゆえ)にあるのか。また、如何にあるべきなのか。それを、私は考えてみたいと思うのです。

そうしてみると、社会の理想とは、結局の所、(その社会において)より良い生活、より良い暮らし、より高度な幸福感、こうしたものを味わい経験する事が可能であるか(どうか)、これにかかっていると言えましょう。

つまり、社会というものは、それ自体がより良いものを目指す、という、一つの目的をもっているのです。ですから、社会の移り変わりは、結局、より良いものを、その社会が目指せなくなった時に、次なる形が現われて来るという事です。

ここで、私は、今後の日本を考え、また、今後の世界を考えて、社会の理想、理想的社会について、幾つか、私独自の観点を、打ち出しておきたいと思います。

それは、社会には、少なくとも三つの理想が必要だ、という考え方です。

第一は、その中に、「秩序の原理」を含んでいること。

どうやってまとまりをつけ、どうやって意思決定をするか、また、どういう人を指導者として選んでいくか、こうした仕組みが、明快に謳(うた)われていなければいけない。つまり、社会の理想のためには、まず第一に「秩序の原理」が必要である。この様に私は思うのです。

社会の理想として、第二に挙げられる事は「人の心を幸福にするような仕組み」であるかどうか、という観点です。

そこに住んでいる人達が、もし、恐怖心や、不平、不満とか、愚痴とか、こうしたもので一杯になる様では、その社会は、悪い社会だと言えましょう。結局、(社会の在り方としての)大事な考え方は、やはり、多くの人々の心が安らぎ、心に豊かさが戻って来て、そして、心の中に幸福感が広がる。そうした生き方(が出来るのが、よい社会)だという事です。これが、理想の社会の在り方だと、私は思います。

その社会に住んでいる人の心に幸福感なくして、何らの社会の理想もそこにない、と言えると思うのです。やはり、一人ひとりが、ここに住んでいて良かった、この国にいて良かった、この町にいて良かった、という気持を持って生きて行ける。これが大事なのではないでしょうか。

社会の理想の第三は、共同体、或いは、地域団体、国、何と称してもよいのですが、そうした「団体としての特色がある」という事だと思います。

多くの人が、一つの団体の下に、国の下に、組織の下に集まって行くためには、その団体に特色というものが必要です。多くの人達を結びつけるための特色、色合いというものが大事です。

今、いろんな国が世界各国にあります。そうした、いろんな国が、いろんな特徴を誇っている事が、果たして悪しき事かと言えば、そうではないのです。いろんな特徴を持っているという事は、即ち、その特徴、特色の下に、一つの団体がまとまっている、という事なのです。何の特色もない団体は、結局、人々を繋ぎ留めることも出来なくなって行きます。無個性の団体の中には、人々は入りたがらないものです。

こうした意味において、国には国の特色が必要です。そして、それがまた、そこに属する人達の帰属感となり、働きがいとなり、生きがいともなって行くのです。この様なことから、団体に、或いは、社会に、一定の色合いがあるということ自体は、決して悪い事ではありません。

ただ、それが、暗い想念の特色の下にある場合(例えば、専制主義、恐怖政治など)には、例外となります。そうした事で、恐怖心によっては、人々をまとめることは出来ないのです。恐怖心による政治は、一時期、人々を纏める事に成功したかに見えても、そう長くは続かない、という事が、その特徴となっています。恐怖心による独裁政治は、いつの時代にも、そう長くは続いていません。やはり、「人々の幸福」という事で一つの共同体の核を作って行く事が大事なのではないか。私はその様に思います。

(次に、ここからは)「個人と共同体」という事に関して、話をして参りたいと思います。これは「個人と全体」という観点の話でもあろうかと思います。

個人というものは、ともすれば、拘束される事を嫌がるものです。いろんな物事に縛(しば)られる事が嫌なものです。規則に縛られルールに縛られる、という事が嫌なものです。

これに反し、共同体は、ともすればルールという事を重視して行きます。何とかしてルールを出したい。一定のルールを打ち出したい。そうして、その中に住む人々を一定の枠の中に入れたい、こういう考え方があります。自由と規律の問題です。

共同体があるという事は、最大多数の人が、その中で、共に生業(なりわい)を立て生活をしていかねばならない、という前提があります。それゆえに、共同体が成立して行くためには、共同体への阻害要因、破壊要因、悪化要因は、これを自動的に取り除こうとする動きが出て来るものです。

例えば、犯罪者などが、その例として挙げられましょうか。どの様な国であっても、どの様な共同体であっても、犯罪者というものは組織の破壊者です。その組織の破壊者は、どうしても優遇される事はありません。それは、多くの人々の生命を危険にさらし、多くの人々の心を恐怖に陥(おとしい)れるという、その方向性のために、存在が許されなくなって来るのです。

犯罪者と並んで、他に規律されるべきものは、結局、人間の欲望の統制という事でありましょう。それぞれの人間が、その欲望のままに行動した時に、社会の一定の秩序、調和というものを保つことが出来なくなって行きます。それゆえに、欲望の統制という事が、共同体にとっては、とても大事になって来ます。

いかにして、その欲望の統制をするか、と言うと、「公平」という観点から、それを統制して行く事となります。

例えば、一つの山で、どれだけの木の実が採れたか、その山に関わって生活している人が、一体何人いるか、この二つの観点から、その木の実を、どのように分配すればよいか、という結論が出て来るようになります。これは、結局、欲望の統制に他なりませんが、公平性の観点から、そうした事がなされていく訳です。

ある時には、山で一番木の実を採った人であっても、別の時には、一個も採れないかも知れない。自分が採れた時は、全てを一人占めにするが、採れなかった時には、ひとつも手に入らない、という事であっては、生活に安定性がない訳です。

そうすると、どうするかというと、その人の働きがい、というものを、ある程度認めながら、多く採れたからといって、全て自分のものになる訳でなく、少ないからといって、それ以上、一向にもらえない訳ではなく、また、ある時には採れ、ある時には採れないという事も考慮しながら、その人が生活に困らない様な分配方法を考えて行く。これが共同体の在り方です。

税金のあり方、などというものも、基本は、ここから出ていると思うのです。より多くの所得を有する者が、税金という形で、その所得を他の者に公平に分配されていく。そういう考え方があろうと思います。それは、個人として働いても、非常に成功して大きな収入がある時もあれば、収入の少ない時もあるだろう。収入が少ない時には厚く受けられて、収入が多い時には、自分は、ある程度我慢しなければいけない。こうした公平の観点から分配をされるという事があり、この公平という観点を、どう見るか、そうして、どの様な分配を実施するか、という事が、為政者、政治家、支配者の仕事となって来た訳です。

こうしてみると、個人としての利益追求や、欲望の自由化とは離れた面がある、という事です。個人が、どれほど自分のために収入を得たいと思っても、それが、そのまま自分の収入にはならない事はあるが、考えてみれば、そうした大きな成功が出来た理由は、そうした社会があったからであり、そうした共同体があったからでもあります。だからこそ、自分が成功出来たのであって、そうした組織そのものを、社会そのものを、自分が造った訳ではありません。


そうした社会に住んでいるがために、いろんな成功を収められた、という事ならば、社会が出来ているという、その事のために、何らかの負担をするべきである、という考えがあると思います。税金という考え方も、もとより、こうした所から出て来ているものであり、公平な税制というものは、神の目から見ても、決しておかしいものではありません。

さて、今の日本を見た時に、個人のあり方を考えてみると、幾つかの不思議な面があると言えましょう。

それは、日本には、例えば、高所得者であっても、なかなか、その財産が子々孫々に伝わらない、という事があると思います。個人としての収入の大部分は、累進課税によって徴収され、また財産家であっても、その財産を譲り受ける時に多額の相続税を払わねばならない。こうして、金持ちが三代続かない様な制度となっていると思います。

これに関して、私は、どの様に考えるか、という事ですが、私は、税というものを、やはり、ひとつには、徳を蔵(くら)に積む事と同じだろう、と考えています。自分の収穫の中から一定のものを神に捧げる。こうした考えが、税の発生原因であり、それが、やがて、役所、或いは、幕府であるとか、天皇家であるとか、そうした者への貢物(みつぎもの)の形になったものであろうと思います。

こうしてみると、税金に対しては、一定の賦課(ふか)、義務という考えよりも、これは、喜びという考えがなければならないと思います。自分が、健康で、幸福に暮らせて頂いているのは、神のお陰である。従って、自分の収穫の中の一部を神に献上する。神は、その献上された物を、他の貧しい者に分け与える。こういう考え方が、大事であろうと思います。

従って、私は、今の日本の様に、一律、累進課税で高額所得者に課税する形を、必ずしも良いとは思いません。それが、十パーセントであるか、二十パーセントであるか、そうした事を、私は詳しくは申しませんが、それは一定の限度でよいと思います。そうして、高額所得者は、それ以外の分を、もっと人類の幸福化のために使って行く、これが大事ではないでしょうか。

例えば、国税として収めなければならないのは、二十パーセントなら二十パーセント、三十パーセントなら三十パーセントを限度として、それ以上に収める場合には、自分の、やはり使いたい事に投資が出来る、即ち、人々の幸福のために、そのお金を税金代わりに使える、という方法が望ましいと思うのです。五割、六割、七割、八割の税金を取られても、その税金の使途が全く判らない、という所が、多くの高額所得者の不満の原因となっていると思います。

従って、使途の判らない税金として払う限度は、二割とか三割でよいと私は思うのです。それ以外のものは、自分が、こうしたもののために使って頂きたい、という事を、一定の方向性をもって申し出られる様な、こうした方法が良いと思うのです。

例えば、貧しい人のために使ってもらいたい。そのための負担を二割にする。或いは、教育事業のために使いたい。道路事業のために使いたい。或いは、国際交流のために基金として使いたい。この様に、納税者が、自らの希望でその使途を決められる様な、選べる様な、そうした方法が望ましいと思います。

個人と共同体のあり方には、結局、公平という観点から、再分配という事が、どうしても必要となって来ますが、その時に、あくまでも個人の自由性というものを認めながら、公平の観点で、どう考えていくか、そういう見地が大切であろう、と私は思います。

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