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「禅」の奥義と哲学の未来、 無門禅師のメッセージ、1986年

2020年07月11日 | 思想
これは、今から35年ほど前に、あるチャネラーに語られた、無門禅師という方の霊界からのメッセージです。無門禅師という方は、中国の禅僧で、先立っての谷口雅春氏のメッセージにも出て来ました。「禅」と「哲学」には、どういう関係があるのか、驚きのメッセージの内容を知れば、納得頂けるかも知れません。元はインタビューですが、編集してあります。カッコ内は補注です。

(ここから)

無門です。

まず始めに、禅の本義について言いますと、禅とは、その名の示すとおり、単に示す、「単刀直入に示す」ということです。

では、単刀直入に、一体、何を示すか(ということ)ですが、単刀直入に示すものは、則ち、「仏の心」「仏の道」これです。真理は、単純なものの中にあるのです。則ち、知識によって様々な事を知ることが、真理の近道ではない、ということです。真理(というもの)は、単に、それ(自体を)を直示することが出来るのです。

真理というものは、それが、眼に見、手に取ることが出来ないものである以上、これを、また、眼に見、手に取る形で、示し、表わすことが難しいものです。眼に見、耳に聞き、そして指に触ることが出来ないものが真理であるならば、真理を感得する方法も、また、五官を超えたもので(なくて)はならないはずです。

つまり、五官を超えたものを如何にして感得し得るか(ということなのです)。

この三次元の世界という、有限の世界に生きる人間という者が、どの様にして、眼に見ることも、耳に聞くことも、指に触れることも出来ないものを、感じ取ることが出来るか。

則ち、完全に、五官によって感知し得るものではないこと、その五官を超えたものを、五官をも使うことによって、一つの(何らかの)手掛かりを通して感得することが、真理を悟る道ではなかろうか。

そうだとすれば、五官を通して、五官を超える(という)道(方法)、五官を通して五官に非(あら)ざるものを感じ取る手立てが必要なはずです。それは一体何か。これを解き明かしたのが禅なのです。

この、五官を通して五官を超える方法、これを得るために、禅は、二つの道を用意したのです。

第一の道は、只管打坐(しかんだざ)です。(これは)日常性を捨て、ひたすらに打坐(坐す)することで、きっかけをつかんでいくという道です。是が、則ち「道元」の道(やり方)です。

けれども、もう一つの道があります。この道は、天より降りた、一つのインスピレーションによって、人間の五官知を打ち砕き、そうして、自然な形で悟らしめる道です。

則ち、是が禅問答です。禅問答の公案は、人間の五官によって、気付いて(意識的に)知る事、が出来ないものなのです。これは、それを超えたものであって、知識によって判断できるものではありません。知識を超えたものなのです。

禅問答(ぜんもんどう)というのは、論理的なものには、なり得ません。論理を超えたものなのです。論理を超えたものを直示することによって、現象を超えた悟りの道を示す、という事なのです。これが、禅の第二の道です。

この第一の道、第二の道を考え合わせれば、第一の道は、心身を調和させる法、という事です。心身の調和という事、なくして、禅の一転語(てんご)も、また、価値のないものなのです。

まず、禅の意義は、第一義として、心身の調和にあります。心身の調和を経ずして、この三次元世界を超える、新たなる悟りを感得する事は出来ません。

ですから、禅の真の意義は、心身の調和だけではなく、心身の調和の後に、この、三次元(的)論理を超えたものを感得する所にあるのです。是は、則ち「イデア」の世界です。如何にして、三次元に居ながら、イデアの世界を感得するか、という事、是が、悟りの道なのです。

イデアの世界、とは何か。イデアの世界は「実相」の世界です。実相の世界は、神の世界です。神の世界は、三次元以降、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、十次元の世界です。これが「イデア」の世界であり「実相」の世界なのです。

「実相」の世界は、人間が造った世界ではありません。実相世界は、神が造られた世界なのです。

この(実相の)世界の秘密を知る事が出来る様になることを、悟りを得る、と言うのです。これが、禅の究極の意義なのです。

簡単に説明しますと、以上の二点が禅の意義です。

この、イデアの世界を感得する方法として、坐禅という言葉に執われる必要はありませんが、坐禅は、その大道でしょう。あなた方の中には、横たわって神と霊交し得る者が、あるかも知れませんが、これは、本道ではありません。

神仏は、人間に、一つの法を与えました。これが、坐禅であり、坐禅は、体を垂直に立てる事であり、これによって、心身の調和による、一つの霊的波長を合わせるものなのです。霊的波長を合わせる事は、この地上に、神の放送を受け得るアンテナを立てる事であり、このアンテナを立てずに、神の世界の霊波を受ける事は出来ないのです。これが原則なのです。

あなた方の多くは、光の指導霊たちの霊波を受ける事が、なかなか難しいはずです。それは、その通りで、このアンテナを、この地上に立てる事は、末法の世においては、非常に難しい事なのです。何故ならば、この地上界そのものが、様々な悪想念に侵され、穢され、乱され、単にアンテナを立てるだけでは、神の世界の霊波を受信する事は出来ないからです。

あなた方の多くは、坐禅により、或いは、他の観法により、アンテナを立てる方法を修法するのですが、単に、アンテナを立てるだけでは、あの世の、実相世界と霊交する事は、不可能でしょう。

則ち、坐禅というのは、単に、この地上の三次元世界に受信のアンテナを立てる、という事ですが、これだけでは、我々(霊人)と交信する事は出来ません。

現在の様に、この三次元世界が、様々な悪想念によって乱されている時には、アンテナを立てて、しかる後に、発信をせねばなりません。こちらから呼んでいる、という事を、発信せねばなりません。そうでなければ、様々な妨害電波によって、あなた方の考える事は、私達の世界には届かないのです。

則ち、坐禅という事は、アンテナ(を立てる事)であって、坐禅を修する事によって、この中に、どの様な心を持って、どの様な、調和した波長を出し得るか、という事が、問題なのです。坐禅という名前にこだわる必要はありませんが、何らかの坐禅的なものを通さずに、私達の世界の者と、霊交することは、また難しいでしょう。

禅は、三次元世界の、三次元的生活を際断する、という事です。

前後を際断すること、です。これが禅なのです。あなた方の生き方では、三次元世界で、連綿と続くその日常生活で、三次元を超える事は、難しいでしょう。従って、この三次元生活を、どこかで、前後、際断する必要があります。これが禅なのです。

連綿と続く三次元生活の中で、人間は、悟ることが出来ません。前後を際断し、前と後を、全く別の人生とする必要があります。この、前後際断、人生の前後際断という事で、肝要な事は、一大発起(ほっき)という事です。一大発心(ほっしん)です。これは、仏法において、菩堤心(ぼだいしん)と言います。

人生の前後を際断せずして、際断する為の発心なくして、人生の一大転換は、あり得ません。

禅は、転機。禅は、転回。禅は、発願。禅は、転換。禅は、死。そして、生。禅は、終わり。そして、始まり。終わりにして始まりです。

三次元的生活の終わりとは、これは、また、三次元を超える生活の始まり、なのです。

三次元的生活を、禅によって発心する事で、前後際断し、これを転回しなさい。一躍跳入しなさい。一躍、眼を開け、(眼から)鱗(うろこ)を落としなさい。これが禅なのです。

日々、少しずつ自分を改善する、という道もあるでしょうが、しかし、この連綿と続く三次元世界を、ぶち切らずして、人間は、悟る事は出来ないのです。これが禅です。

では、如何にして際断するか。際断とは何であるか、ですが、

際断とは、三次元の空間において、その三次元に流れる時間の中において、客観的時間の中に、無限の時間を感取する事、なのです。

あなた方が生きる時間は、二十四時間、一日、二十四時間、時計の長針と短針の組合わせによって決まる。そのような一日二十四時間を、誰もが生きている。しかし、人間の実人生、人間の、真の人生においては、各人、一日二十四時間ではありません。

悟った時、その人の時間は、一躍、永遠の時の中に跳入するのです。

前後際断とは、三次元生活における前後際断とは、つまり、永遠なる今、を感ずる事なのです。

平凡な日々の中に、非凡なる瞬間を見出す事です。

人生に、二種類の「時(とき)」があります。一つは、朝起き、昼を食し、夜、就寝す、この様な、二十四時間の生活です。しかし、また、人生に、新たな「時」が、あります。これは、神仏の声を聴き、神仏の気持ちを看取し、神仏と自己とが一体となる時、なのです。

この時に、我々は、永遠の「時」を、生きるのです。この「時」に、過去はなく、この「時」に、未来はなく、この「時」に、現在はなく、永遠の「時」を、生きるのです。永遠の如来を、生きるのです。これが、永遠の時にして絶対の時間、絶対の時間にして純粋の時間、なのです。この純粋なる時間を感得し得ずに、人間は、人生の前後際断を、することは出来ません。お分かりでしょうか。

「際断」は、継続(した状態)ではありません。一期(いちご)一期(一瞬?)が、際断を発する時、また新たなる際断が起きるのです。

継続を、第一にせずに、日々に、人生を際断せよ。

時々刻々に、人生を際断せよ。

迷える自分と、迷わない自分とを、一挙に際断せよ。

迷える自己を見つめた時、迷える自己を際断せよ。

この時に、新たなる自己が、現われるであろう。際断に「時」なし。際断に持続なし。際断は時時、刻刻なり。

(無門禅師著の『無門関』にある)無は、際断ではありません。無は、際断を通じて「空」の世界を観ずる事です。

無は、世界観にして、単なる際断にあらず、際断せる時、初めて感得し得るものは、無。無は、宇宙観なり。無は、空間把握なり。そして、無は、また、空間の中に存在(することの)の把握であり、存在の中に、時間の把握をも含む。無は、単なる無にあらず。無は、無の中に全てを含む。そして、また、その中に、全てを含まない。全てを含み、全てを含まざるもの、これが無なり。

無は、時間にして、存在にして、然して、虚無なり。虚無にして、存在、存在にして、時(とき)、これが無なり。「無」は、別の言葉で言えば、無は、神の意、神の意は、無にして、無にして有(ゆう)、有にして無、時にして時にあらず。存在にして存在にあらず。

坐禅は、平凡な人間にとっては、感得する大道です。けれども、他の道も、また、あるでしょう。

禅は、方法論です。ですが、老荘は、方法論ではありません。

一つの「機」というものを意識する必要があります。「機」は、人生全体において、もっとも重要な「時」です。機なくして悟りはありません。機は、先程申した発願であり、また、求道心でもあろうと思いますが、その発願なり、求道心なりを持たずして、人生を終えていく人間が大半です。この人生の中で、どこか、前後が相違う断面が、機なのです。あなたの人生にしても、そういう断面があったはずです。

その断面の時こそ機であり、この機こそ、人生における勝利の瞬間である。機なくして人生を終えた人間に勝利はありません。この人生における勝利とは、この三次元生活に流されながら、流され切れない、実相の世界にある自分を感得すること、この瞬間を「機」と言い、この機をもって、勝利の時とします。是は、人生の真理なのです。

(人間の死の問題について言うとすれば)人生には、日々に、生死があります。生があって死があります。これは他人のことではありません。自分自身の内(うち)にあるのです。人生の日々に生死があります。人生日々に臨終があります。一刻、一刻、吐く息、吸う息、この一瞬、一瞬に吐く息が止まっても、吸う息が止まっても、汝ら、あなた方の人生は、それで終わりなのです。

人生は、日々に、人生は、刻刻が、臨終なのです。これは(また)誕生なのです。人生には、日々に、刻々に生死があります。ですから、往生の極意は、この人生日々に生死あり、ということを知ることなのです。つまり、死が迫って、初めて悟り得て極楽浄土に行く、のではないのです。人生、日々に、時々、別々に生死があるのです。

一瞬の後に、この世を去るとしても、よき覚悟をして日々を生きる、ということ。例えば、あなたは、今、私と話をしています。私と話し終えて(すぐに)命途絶(とだ)えるあなたであってもいいような、あなたで生きねばなりません。死は、先のことではないのです。死は、ただ今の中にあります。

死は、阿弥陀如来を願って、素晴らしいものとなり、あの世へと往生できる、のではないのです。日々、刻々に、白装束で、単刀を喉元(のどもと)に突き立てている様な、この様なことが、人間の日々なのです。

これを分からないでいて、人生の本義は分かりません。人間は、日々に切腹を命ぜられている様な存在なのです。あなたの吐く息が止まっても、吸う息が止まっても、それまでです。息が止まれば、十分と持ち堪えられる体ではありません。

すなわち、禅における往生の意義とは、現在ただ今に、全人生を生きるということ。単に生きるだけでなく、全人生を生き切るということ、これに尽きるのです。分かり易く言うならば、今日、命果てても、悔なきあなたであるかどうか、こういうことです。これを、日々、自らに問いつつ生きなさい。これが、往生の意義です。是が、禅における往生なのです。禅は、つまり、生死を超える道なのです。

(我が生前の著書「無門関」の中にある)不昧因果(ふまいいんが)、不落因果(ふらくいんが)という事についてですが、まず、因果の理法とは、どの様なことをすれば、どの様な反応があるか(ということを言っているのです)。分かりやすく言えば、作用、反作の法則(のことです)、昔流の譬(たと)え話で言うならば、蒔(ま)かぬ種は生(は)えぬ。自ら蒔いた種は、刈り取らねばならぬ。こうした簡潔な言葉となるでしょう。

人間がこの世に生きていく時に、その一生に成したこと。思ったこと。思ったことを行なったこと。心に描いたこと。聴いたことに関して、思ったこと。全て、是(これ)は、自らの(言わば)作用であって、この(事に対する)反作用を受けること、これを逃がれる手段はありません。是を「不昧因果」と言うのです。

しかしながら、これを断ち切る道があります。是が、悟りの道なのです。例えば、これは、分かり易くするために、説明するのですが、十人の人を殺した人が、ここにいるとします。この者が死後どうなるか。九九パーセント、この人間は地獄にて苦しむこととなります。九九・九パーセント、と言っておきます。是が「不昧因果」なのです。たとえ、その人の地位が高かろうと、地位が低かろうとも、十人の善意な無垢な人を殺したならば、まず地獄に堕ちること、これから逃れる手段はありません。

仏教者である、あなたが殺そうとも、帝王と称ばれた人が殺そうとも、また、一通行人が、ある日、その気になって人を殺そうとも、あるいは、これまた悪霊の憑依(ひょうい)によって、気が狂って人を殺そうとも、それは悪霊の所為ではなく、その人は、その人なりの責任を負います。これが、不昧因果です。

しかしながら、それならば、人生の前半に、十人の人を殺した人が、後に、また、一大教化者となり、百万人、千万人の人の命を救った時に、果たして、この人は、地獄に堕ちるのでしょうか。これが、この問答の大事な点なのです。

かつて十人の命を奪った自分、けれども、後に、翻然と悟って、世の為、人々の為に、悟りの道を説き、世の多くの人々を救いつつ、全人生を全うし得た人。この人は、果たして地獄に堕ちるのでしょうか。「不落因果」是が、則ち、正解なのです。

因果の理は、昧(くら)ますことは出来ません。しかし、断ち切ることが出来るのです。

則ち、ある作用に対して反作用が起きるという法則自体は、これは、如来であろうと、菩薩であろうと、変えることは出来ない。しかしながら、その反作用を打ち消すだけの、さらに大いなる作用を起こしたならば、その反作用はなくなってしまう。つまり、悪しき作用あれば、悪しき反作用あり。これは人生の真なのです。

しかしながら、悪しき反作用に対し、さらに良き作用をしたならば、これは、悪しき反作用を打ち消すものなのです。是が、「不落因果」です。則ち、悟りは全てを超えるものであって、仏が、救いの一条を、ここに与えたものなのです。そこに一条の救いの光があるのです。どのような悪人であろうとも、どのような悪行を生きた人であろうとも、この悟りの一条によって、一躍跳入、如来地に行ったならば、因果の理に惑わされることはありません。

則ち、悟りは、大いなる青龍刀にして、全ての絆を断ち切るものなのです。則ち、是が、作用、反作用の法則は、昧(くら)ますことは出来ない。けれども、さらに大いなる「発心」によって、この作用、反作用を打ち消す如(ごと)き働きがあり、乗り越えるが如き働きがあります。是が「不落因果」なのです。

地獄にいたとしても、一躍、菩提心を起こし、翻然と悟ったならば、その人は、もはや地獄にはおりません。百年の地獄の生活も、一瞬にして、天国に変わる事が出来ることは確実です。則ち、是が、人生の「機」であり、人生の機は、生きている人間だけでなく、死後の世界に居り、地獄に居り、百年の間、二百年の間、自らを、病のうちに苦しむと思い、百年、二百年を苦しみ、自らは、自らの犯した悪によって良心を苦しむ。この様な事で、百年、二百年を苦しみます。

しかし、病いの念を持って二百年苦しんだ者が、人間には肉体がなく、霊だけで(存在しているという事)是が、実相(という事)なのです。是を、悟った時、既に病(というもの)はありません。既に地獄(というもの)はありません。是が、天国(というもの)です。

自らの為して来た悪に執われて、地獄に永く住んでいた者も、翻然と悟って菩提心を起こし、そして、世の為、人の為に尽くそうと、一大発心をしたならば、是は、もはや地獄ではないのです。

すなわち、人生には、量と質(というもの)があります。質は量を凌駕(りょうが)するものなのです。地獄に居ても、地獄で、様々な悪魔が攻め来たとしても、人間の本性は悪魔ではありません。

神は、悪魔を造られませんでした。悪魔は実在のものではありません。悪魔は存在しない、と強く悟ったならば、悪魔は、その人に対して何もすることは出来ません。悪は悪として認めて後、初めて、その力を現わすのです。

一切を際断しなさい。迷いを際断しなさい。迷いを打破し、道破しなさい。そこには、「神理」しかありません。迷いを打破し道破した時に、「神理」のみが実在し「光」のみが実在し、そこに一条の「光明」があって、一条の光明は世を覆(おお)い、全てを覆うのです。

これを見出す者は、人生の勇者です。勇者にして、初めて悟りを得るのです。人々よ、人生の勇者たれ。勇者(としての心)を奮い起こして、真なる自己を発見し、真実なる人生を生きよ。

過去に執わるることなかれ。因果の理法があったとしても、敢然とこれを断ち切れ。則ち、前後際断をしなさい。迷っている自分を際断しなさい。悪人であった自分を際断しなさい。そして、全く違った別人格として、人生を生きていけ。その時に、既に因果は断ち切られているのです。

浄土、他力門の方は、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることによって、前後際断が出来て、悟りの境地に入れると言われている、とあなたは言いますが、それは「南無阿弥陀仏」の中味によります。真実、発願を起こし、南無阿弥陀仏の中に自己投入し、自分が大宇宙の中に混然一体と化したならば、南無阿弥陀仏の世界は、光明の世界であることでしょう。

(しかし)自他が別になっているようでは、南無阿弥陀仏、に効用はありません。迷える自分というものをそこに置いて、迷っていない他の者が自分を救ってくれる、と思っているうちは、南無阿弥陀仏に救いはありません。

ですが、南無阿弥陀仏の中に、「阿弥陀如来」と一体である自己を発見するならば、そこに救いがあります。そこに迷いはないのです。そこには悟りのみがあるのです。

要は、理解なのです。南無阿弥陀仏、ということを、迷える自分でなくて、悟れる「阿弥陀如来」よ救い給え、と言うのであるならば、迷える自分を背負って、迷いは解けません。しかし、「南無阿弥陀仏」を、迷える自分の中に、眠っている光明せる我を、信ずることであるならば、是は、迷える我ではありません。則ち、神理の理解であり、これが全てなのです。

「禅」は、方法論であって、これに執われてはなりません。今、他力の中にも真理があります。要するに、人生において、勇気を奮い起こした時に、真の求道心を起こした時に、人間は、既に仏道に入っているのです。仏道に入れば、迷いはありません。仏道は、ただ一筋に、神仏の本に通じているものなのです。

ですから、方法論にこだわる必要はありません。日々の生活の中で、前後を際断する様な、勇気ある発願をして、力強く人生を生きていくこと、そして、その持続は、必要ではありません。その刻刻に、思いつきたる時々、刻々に、際断しなさい。自らの人生を際断しなさい。それがまた、人生の秘義であると思います。

「禅」は、人生を勇気づける方法なのです。禅の言葉は、人生の勇気の言葉なのです。これによって、心に灯を、高く掲げて歩みなさい。そこに一筋の「光明」の道があるはずでです。

(中略)

私は、近年、この日本に、再誕した事があります。それは、京都大学の哲学科で教鞭(きょうべん)を執っていた西田幾多郎です。

西田の「無」の統一論と、無門の考えとは同じです。我は、西田にして、西田にあらず。無門にして無門にあらず。無門にして西田、西田にして無門、西田幾多郎は、是(これ)、無門慧開(えかい)なり。無門慧開、是、西田幾多郎なり。

宗教は、宗教として(は)、既に、世の人々を救う力がありません。今後の世界の人々を救うのは、是は、思想です。また、哲学です。あなた方も(人々に教えとして広めて行くべきなのは)思想として、哲学として、一貫した、筋のあるものでなければならない。単なる、ご利益宗教に走ってしまったのではいけない。これを忘れないことだと思う。

かつて仏教を学んだ者が、ある時、日本に生まれて哲学者となり、また、ある時は、ドイツ、フランスに生まれて、哲学者となります。哲学も、また、是は、神の教えの現われなのです。近代には、特に、そのような形で現われています。

(カントなど、ドイツ観念論派について言えば)カントは、旧約の預言者です。ヘーゲルは、かつて禅宗にて道を学んだ者です。

(現代の哲学について言えば)もはや(今の)哲学の中には、救いはない、と私は思います。もはや哲学を超えていかねばならない。哲学は、あまりにも、抽象的知識の方に走り過ぎ、この天上界から見ていると、現在の、地上に行なわれている哲学は、あまりにも、論理学、あるいは、数学的なものに走っているようです。記号論理学の中に救いなし。

天上界では、かつての哲学者、ソクラテス、プラトン、カントなどが、グループを形成しており、その中に(私も)おります。私は、以前に、ギリシャにも生まれております。(それは)アリストテレス、その人です。私は、ギリシャに生まれ、アリストテレスとなり、また、その後、中国に生まれ、無門慧開となり、(次に)日本に生まれ、西田幾多郎となっています。

あなた方も、「禅」の中で一番大切なものは、やはり「機」だと思うでしょう。人生には、やはり、かつての人生と(新たに)違った人生を歩むべき(岐路の)瞬間というものがあります。この「機」というものを大切にして、人々を導いて頂きたいのです。

あなた方の(人々に対する)教えの中に、「一転語」として、やはり、何か翻然と悟らしめるものが、なければいけない。これが人生の機であろう、と思う。この時に、前後を際断して、永遠なる宇宙の中の自分、永遠なる「実相世界」の中の自分、これを悟ることが必要です。

(あなたの言われる様に)機は気に通じるというのは、もちろん、その通りです。しかし、気力だけでは駄目です。気力だけで生きている人は、幾らでもいるのです。気力の中に、ある時点で、それをつきつめた時に、翻然と悟る、量が質に変わる転換点、それがあります。――ある時点で、核融合が起きる様に、ある時点で核分裂が起きる様に、その瞬間があります。物質が変化する瞬間です。それは、あなた方の人生の質が、転換する瞬間です。

自らの人生を、鉛を転じて黄金とせよ。黄金とする為に、様々な坐法もあり、観法もあり、教えがあるのだ、ということ、これを悟りなさい。つまり、悟りというものは、鉛の人生を、黄金の人生に変える為の錬金術だということです。

私は、かつて、西洋において、西洋哲学の、まあ、基礎を造った人間の一人ですが、西洋哲学と東洋哲学は、それぞれ性格を異にしている様に見えながら、本質においては同じだ、ということです。

私が、西洋哲学をやっていた時、私が、アリストテレスとして生まれた時に、論理学という思考体系を組み立てていきましたが、やはり、論理だけでは超えられないものがある。それを知らしめる為に(再び)無門慧開として(地上に)出て「禅」というものを深めていき、これを体系化していきました。

そして、また、日本の地において、今後、様々な思想世界を広げていく。私は、その一つの布石として、西田幾多郎として、また(地上に)出たのです。

やがて、日本を中心にして、新たな文化文明が、興(お)きていくでしょう。その時に、哲学の一つの始祖となる為に、私は(日本に)出て来たのです。日本は、やがて、かつてのギリシャとなるでしょう。文明の淵源の地となるでしょう。

ギリシャ、エーゲ海の、あの小さな小島を擁したギリシャの半島に、あれだけ質の高い文明が栄えたのです。それと同じく、この日本の地が、また、未来の人類にとって、一つのギリシャの地となるでありましょう。我々は、その為に出て来たのであり、我々の中には、私もあり、あなた方もある、ということです。

(その)新たな時代に(私、西田幾太郎の属したという)京都の学派は問題ではありません。哲学も、前後裁断、人類の歴史の中で、幾人かの大哲学者が出て、歴史を前後際断しています。ソクラテス以前と以後とでは、人類の歴史は違います。デカルト以前と以後では、人類の歴史は、違うのです。

あなた方も、また、新たな、前後を際断するような存在となって頂きたい。あなた方の仕事は、大変に多いように思われるでしょうが、一つに、それは、各人の想いの方向を、転換、百八十度の転換させることです。これをさせるということです。それに尽きているのです。

悟る、悟らない。救う、救われないは、やはり各人の問題なのです。そこまでは、あなた方が面倒をみる必要はありません。あなた方は、人生を転換させる為の、一つの「活」を与える、という、そういう役目の為に来ているのです。一人一人の人を救うために来たのではないのです。あなた方の教えに触れた一人一人が悟る、ということです。

禅は、どの宗派に属しても、悟りは、個人に属するものです。宗派に属するものではありません。同じです。

ですから、あなた方の教えを聴いても、悟る人、悟らぬ人、様々でしょう。以上の様なことですが、それ以外に何がありますか。

「禅」としては、もう、これ以上のことは、私は言えません。禅を超えた場合には、もちろん、これ以上の話があります。ただ、現在の、あなた方の目的に、それは合致していないでしょう。

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