涼しげな春夜に彼は帰れるはずもない故郷に思いを馳せた。
「明後日、お引っ越しなんだ。」
「たしか明日は箪笥を運ぶ。」
「だからもうあの箪笥には会えないんだ。」
ふと彼をみた。怪物が姫に焦がれて歌う情熱的なバラード。あるいは藍色の塊だ。
窓辺は暗かった。彼以外になにも映ってなんかいなかった。
彼が木っ恥ずかしそうに布団に隠れてひゃーと声をだす。幼くて、純粋で不安定だ。
卑怯者、だと私は彼に言ってやりたかった。今さら自己満足のために振りかざしてやりたかった。
けれども、それはそれとして。
彼の友達のようなその箪笥に会いたかった。
彼のこれまでを聞いてみたかった。
それ以上彼はなにも言わなかった。
【おわり】