あぁ、私はいったいなにをしているんだろぅ。頭の隅にできたモヤを圧するようにグッとボールペンを押し込む。するといけないところに触れ、たちまち私は胃の中のものをぶちまけてしまった。さっきのアジフライ定食がミキサーされて床に広がる。驚いた拍子に握っていたボールペンもみなそこへ落としてしまった。酸っぱい臭いが充満し口内はヒリヒリと焼けついた。
ドア越しに声が聞こえる。声は数をましてゆき、やがて私は茫然としたまま個室のドアを開けた。
結局私の胸のつっかえはとれず仕舞いだった。私は本来なら絶対にあり得ない時間帯に家にいた。朝、いつもの電車に乗れなかったのだ。怖い。深い黒に私は沈む。もう立ち上がれないのではとさえ予感した。私の胸のつっかえは底を突き破りそこから汁がどくどく溢れだしていた。しかし、喉は依然つまったまま。ありもしないアジフライがそこにあるかのようである。私は枕に頬を擦りつけた。鼻水と涙がこねくりまわされ一体となりカヴァーに染み込む。もうなにもできない。もうなにもかもだ。母を求める赤子のように私は泣きじゃくっていた。日当たりの悪い1LDKには私と私を型どる雑多なゴミにまみれていた。
私には夢があった。それは今となっては夢現のようなそんな不確定なものであったけれど。私は学者になりたかったのだ。しかし、それはあまりにも世に価値のないもののようにみえた。私は研究に明け暮れたが、世間では無駄だと後ろ指をさされた。私は成果をあげられずにいた。いや、そもそも成果なんてものはない行き止まりの学問ではあった。恐らく偉大な賢人らはそれでもなお己を貫いたのであろう。私にはできなかった。私はどうやら「学者」になりたかったのだ。つまり研究者ではなくあくまで俗な理由で学者になりたかったのだ。故に私は続かなかった。至極当然であった。だから私は…
棄てよう。なにもかも。そう、なにもかもをだ。それから私は部屋にある一切合切をゴミ袋に詰め込んだ。私のお気に入りだったものはただのガラクタへとなりさがった。私はその度に涙した。今までの思い出が走馬灯となってゴミへと変わる。懐かしさが悪魔のように後ろ髪を引いた。やめてくれやめてくれ。私を止めないでおくれ。やがて私の部屋はものが消滅した。玄関には黒い塊が積み上がった。カビだらけの畳が姿をあらわす。重たい腰をおろすとそのまま仰向けになった。枯れ地のように荒れたイグサを頭部に感じる。ホコリが小さな天使と共に舞っていた。私を型どる、あるいは規定するものはどこにも存在しなかった。いよいよ、首を括るしかないと思った矢先。大きなくしゃみが出た。同時にポロンと異物が喉から転がり落ちた。なんだこれは。「それ」はとても形容し難い異形であった。唯一わかるのはこれを持ち続けることで私の心はどうしようもなく落ち着かなくなり、ふと何かの拍子に泣き出してしまいたくなるようなものだということだ。私はあわてて取りこぼしそうになりながらも「それ」をまだ空いていたゴミ袋へと放り投げた。たしかに入ったことを確認すると再びゴロリと横になってそのまま日が暮れてゆくのを待った。
そして一月が経ち。私は押入れの隅に捨て忘れた思い出の欠片がひとつ挟まっていた。一番のお気に入りでは決してなかったが中々に愛着を覚える物だった。当然手に取るとその物に纏わる記憶の波が奔流となって押し寄せてくる。私はしばらくその物をポケットに入れたり、玄関に飾ってみたりしたがやがて他の物物と同様にわざわざゴミ袋を用意して捨てた。否、棄てた。
それから、私はなにもかもを棄てた。
私を規定する物は内にも外にも失せ、
底を突き抜けていた私の生命力は限りなくゼロに近いマイナスへと引き上げられた。残るは僅かな違和感を消すばかりだ。
「おはようございます。」
私ははっと我に帰った。ここのところ家とゴミ捨て場を往復するばかりだったように思えた。「え、えぇ。…おはようございます。」いつものように私はゴミ袋に緑のネットを被せていると前から同じアパートのおじいさんに挨拶をされた。「いつも、朝お早いのですねぇ。」それは勤勉さを讃えたものだったのだろうが、生憎私は人目を憚ってのことだったのでこの場合よく切れた皮肉にも聞こえてしまった。「こんな網張ってもカラスは悪さしよるのにねぇ。」彼は独り言ともつかない調子で自分のゴミをネットにかけた。私はそのままそそくさと立ち去ろうと考えた。どうせ私は日陰者なのだ。こんなとるにたらない、ちまいコミュニティーですら私に生きる権利などないのだ。顔色は変えずただ目線だけは合わぬよう心得て足をもと来た道へと向ける。「でも、」後ろのしゃがれ声がつぶやく。「こうしていつもきっちり網をかけてくれる人がおるから後のもんは安心してゴミが出せる。」私はポストの投函を確認するふりをして階段をかけあがった。心臓が熱く脈打っている。なんだ。なんなんだ。玄関のドアを開けてこたつに潜り込む。中はちょうどいい温度に暖まっており、冷えた私の両足をむかえいれてくれる。私は先ほどの言葉を列に並べて何度も舌のうえでころがす。よくわからなかった。彼の意図も悪意もよくわからなかった。ただ、漠然と来週もネットをきっちりと下までかけようと心に決めた。私の部屋は東向きだ。部屋には唯一、やけに眩しい陽射しを遮るための長いカーテンがある。普段はきつく閉めているそれを何故かその日は開けて見ようとおもったのだ。
【おわり】
地元じゃ負け知らずなエー君、
真面目だった委員長のエヌさん、
野球が上手くて爽やかなエフ君、
同級生の中で一番可愛かったエムさん、
どうしてみんな消えてしまったんだろう。
みんな、限りなく透明になった。
そして、彼ら彼女らの残骸がこの塩臭い町の海岸に打ち上げられたのだ。
中学の時に管楽器を吹いていたエスさんは、福祉施設の裏で煙草を吹かし。
保育園の先生を目指していたエイチさんは1度堕ろして3人目の男とこの前結婚した。
いじめられっ子だったエル君は東京の大学から中退して、実家のマイルームにひきこもっている。
みんな、
週末はショッピングモールに出かけ、
平日は数えるほどの仕事につき、
子どもの頃のヒエラルキーを保持したまま大人になって、
家族ごっこに飽きれば捨てて、
つまんなくなったら、くだらない娯楽か愛欲に溺れた。
幸せだった。
気が狂いそうなほど
幸せだった。
おかしいな、何にだってなれたはずだったのに、いつのまにか僕等はとても薄い膜のような憂いを帯びていた。
ゴミ箱みたいな小さな入江に戻ってきた。狭い浜辺にはあちらこちらでガラス片が光を反射している。とても綺麗だと思った。色褪せたコーラの缶と海藻を被った古い洗濯機がテトラポットに挟まったままこちらを見つめている。渚には足の生えた人魚がいくつか砂まみれになっていた。そろそろ泡になる頃だろう。一番近い人魚の顔を覗きこむと口元から徐々に泡にかえりつつあった。僕はエー君から頼まれたおつかいの品々が不要になったことを悟り、ひとつだけ私用に拝借した。まるで耳元に貝殻をあてがったように波の音が鮮明に聞こえる。あぁ、そうだ と僕はよたよたと音の鳴る方へ歩みよった。偽物のブロンドヘヤーが波に揺れている。その人魚は海水に顔を半分ほどひたしながら、青白い背中を僕に向けていた。あぁ、右脳が昇天して、左脳はサイケデリィックなミラーボールが高速で回転している。さっきよりも砂浜が綺麗に見えて気持ちわるい。僕はその一匹の人魚に近寄り腰をおろすと、ずぶ濡れの頭を膝にのせてやった。やけに青白い肌、二つの虚ろな瞳は閉じられることなく水面の波形を数えていた。
海が綺麗だ。
誰にも伝わらないほど冴えたブルーが真っ白な水平線に滲む。
あぁ、そういえば
たしか君は人になりたがっていた。
なのに僕はそれを引き留めてしまったんだっけ。
「足が生えたら、こんな町出ていってやるの。」
歌うように嘘をつく君のことだから、僕は顔色ひとつ変えず聞き流したけれど、どうしてかな今でもその声色を思い出すんだ。
いつだったかエフ君にフラれたとき、君はたくさん泣いていた。
あの涙はこの海に全て溶かしてしまったんだろうか。
おかげでこの海は他よりも少ししょっぱい。
ゆっくりと頭を撫でてやる。海水にずいぶんと浸っていたせいか体は冷えきっていた。傷んだ金髪を指でとかすと根元の黒い毛が数本絡みついた。
けれど、
たとえ足が生えたって僕等じゃきっとちゃんと人にはなれなかったと思うけどね。
君がもし夢を追いかけたって、作り物の足じゃ追い付けなかったろうし、
君がもし愛を求めたって、覚えたての言語じゃなにも伝わらなかったろうし、
君がもし平穏な日々を探したって、磨り傷まみれのガラス玉じゃなにも映らかったろうしね。
結局、頭がよくたってヒセーキになるだけだろうし、
結局、顔がよくたって 嬲られるだけだろうしね。
だから、安心していいよ。
ここで泡になっても。
遠くからサイレンが聞こえた。
あれ、救急車って
どっちだっけ?
【おわり】
せんせー! かたぐるまーかたぐるまー。セミがーにーげーるー!
はやく!はやく!はーやーくぅー!
うっせぇえ!
夏の高すぎる空に疲れたのか、セミは公園のショボい木に何匹も止まっていた。頭が割れそうなほどやかましく鳴くセミに負けないほど子どもたちもまたワーワーギャーギャー騒いでいて頭が割れそうだった。「教育実習に行く前にボランティアにでも行くといいよ。」なっちゃんのアドバイスはある意味よかったかもしれない。アタシ、むいてねーわ。そもそも、教職なんてみんなとるからとったようなもんだし、正直アタシなんかが学校の先生なんて自分でも想像がつかなかった。
公園にはまるで合戦場のように児童館の子どもたちが走り回り、軍旗のように虫とりあみがゆらゆらと掲げられていた。みんな、まぶしそうに日差しに手をかざしながら、セミがいないか目を凝らしていた。発見したら「いた!セミいた!」と叫んでぴょんぴょん跳ねる。だいたい届かないからアタシが肩車をして(ていうか、させられて…)つかまえる。ジージーとセミが鳴いて暴れたり、おしっこをかけられたりした時には「わぁ! こいつぅー。」とセミをつまんだまま、ブンブンと腕を振り回して公園を駆け巡る。ギャワワワワというセミの悲鳴を聞きながら、あーセミもたまったもんじゃねーなと思った。 公園の端においたカバンからお茶をだして飲んだ。今日は暑い。「ウチもおちゃのむー。」どこからともなくひょっこりと表れた小学2,3年生ぐらいの女の子が真似してカバンからお茶をとりだした。ワンタッチで蓋が開くデカイ水筒を両手で持ち、ぐびぐびとお茶を飲む。すると「おれもー!」「わたしもー!」と他の子たちがわらわら集まって、いつの間にかお茶タイムになった。セミたちよ!今すぐ逃げるんだ!そう内心警告したが、懲りもせず二匹が子どもたちのキルゾーンに飛んで来たのが目に入った。
「ねぇ せんせ。」
隣の少し体つきの大きい男の子が話しかけてきた。
「今日はナツキせんせ、来ないの?」
「ナツキ先生は今留学中。」
「りゅうがくちゅう?」
「外国に行って勉強してるってこと。」
「えー! すげー。」
そう言ってアタシのまわりをまた跳ね回った。
なっちゃんが誘ってくれたこの児童館のボランティア。ここでもあの子は人気者のようだった。
アタシはこっそりため息をついた。
日射しが身をチリチリと焦がす。
「アミかしてよぉー。かしてッ!!」
さっきの大きな男の子とその子より2つくらい年下の男の子がケンカしていた。大きい子の網を取り合っている。
「もうちょっと待って!」
「やだ、かして!」
「もう一匹つかまえてから!」
「さっきからずっと使ってるじゃん!」
「うるさい、バカ!」
「バカって言った方がバカだし!」
すると小さい子が網をひったくってしまった。ムッとした大きい子は自分の水筒をつかんでアタシが止める間もなくその子の背中をたたいた。ゴンという嫌な音がして小さい子がうずくまる。「大丈夫!?」アタシが駆け寄ると必死に涙をこらえながら痛みに耐えていた。「コラッ!! 水筒でたたいちゃダメでしょ!」アタシが振り返る頃には彼は遠くすべり台の方に逃げていた。
はぁ、アタシはこめかみを押さえる。こんなときなっちゃんならどうしたんだろう。
外遊びの時間が終わって公園の向かいにある児童館に子どもたちを連れて帰る。背中を叩かれた子のことを児童館の職員さんに報告すると湿布を渡され、怒られてしまった。なっちゃんなら怒られずに済んだのかなとかつい考えてしまう。
またひそひそ声でふたりは口ケンカを始めていた。それが少しだけ気になった。すると肩越しに「ちょっと頼まれてくれないかしら?」とベテランの職員さんに声をかけられ、アタシはとてもいい返事でそれを快諾した。全然体育会系ではないんだけれど。
あの子、今日は塾があるから早く帰る予定なんだけど、お迎えが来れないみたいだから、貴女おうちまで送っていってあげてちょうだい。
そうしてアタシとさっき水筒で年下の子を叩いた大きな男の子は午後4時の焼かれたアスファルトの上を縦列にトボトボと歩いていた。おうちの場所をキチンと職員さんが教えてくれなかったので、この子が前を歩いてそれをアタシが後ろからついていくように見守る構図で進んでいく。けれど日陰を探しながら歩くアタシと、日射しの中、路側帯を平均台のようにして歩くこの子との間に会話はなかった。
なんだか大昔のアタシを見ているようだった。アタシが男子にいろいろ悪口を言われた帰り道、なっちゃんは心配してずっと一緒に家までついてきてくれた。ずっとだんまりなアタシに、なっちゃんがわざと明るいトーンで言ってくれたのは…
「「しりとり しようよ!」」
え?
アタシは一瞬、それが前方から聞こえたのか、過去からのものなのかわからなかった。
「だから! せんせ、しりとりしよう!はい、“り”!」
アタシは突然始まったしりとりに困惑しながらも「…リンゴ」と答えた。
「ゴリラ!」
「…ラッパ」
「パンツ!」
「……つみき」
「キツネ!」
「ネコ」
「こおり!」
夏の雲は高く積み上がり、上の方は光を浴びて立体的にみえた。まるで氷のお城が落ちてくるようでアタシは嫌いだった。
「…………り、りッ………りー……りぃ……」
…リストカットしか思い浮かばないことにひどく自己嫌悪する。アタシの中の“り”のボキャブラリーはリンゴとそれしかないのだろうか。
「…り、す」
「リス? じゃあ、すし!」
…しにたい と思っていた。とくに11,12歳の頃は自分の気持ちがぐちゃぐちゃで、そんなことばかり考えていた。でも本当は実際にそうしたいわけではなくて、ただ苦痛をまぎらせるための呪文のようなものだった。
そんな真っ黒なアタシとなっちゃんが仲良くなれたのはたぶんちょっとした奇蹟だ。可愛くて人気者のナツキちゃんといつも無愛想なアタシ。ふたりが仲良くなったきっかけ…
…それは、アタシとなっちゃんとのあのケンカだろう。アタシが小6だったある日、昔お婆ちゃんが作ってくれたビーズのクマのキーホルダーがバラバラに壊れていたのだ。教室の床で無惨に散るビーズ。確かにお店のものと比べたら安っぽいものだったけれど、アタシにとっては特別なものだった。だからとっても悲しくて悔しくてアタシはその時近くにいたなっちゃんを疑った。お互い言い合いになって、最後はアタシがなっちゃんの短く整った髪を思いっきり引っ張って泣かしてしまった。でもそれは冤罪で、ホントはクラスの男子がふざけてた時に引っ掻けて壊してしまったのだった。にも関わらずアタシは変に意地を張ってなかなか謝れずにいた。次の日クラスのみんながアタシにドン引く中、あの子はわざわざアタシの机まで来て「一緒にビーズ、作りなおそう」と言って来てくれた。そこではじめて「うん、こっちこそ…ごめんね。」そう自然と言えた。それはなっちゃんに対してだけじゃなくて、きっとアタシ自身を赦す行為でもあったんだ。アタシがアタシに赦されてようやく、アタシはなっちゃんとお喋りしてもよくなったのだ。それからアタシ達はずっと仲良しだ。
「せんせ、せんせ! ねぇ、聞いてる!?」
「あぁ、ごめん。今なんだっけ。」
「はぁもう、今は“すし”の“し”! せんせーの番じゃんか! 」
「ごめんごめん。し、……しー…」
ちょっと考えてアタシはニヤリと笑い答えた。
親友 !
男の子が少し不思議そうにこちらを見上げた。
そういえば、いつの間にか並んで歩いていた。もしかして、しりとりの魔法なのだろうか。
「あ、家ここ!」
小さな手が大きなマンションの入り口を指す。
「そっか、ちゃんと帰ってからも手ぇ洗いなよ。」
「うん、わかってる!」
マンションに向かっていく背中を見送りながら、今日がボランティアの最終日であることを思い出した。
「ねぇ!」
それは自分でもビックリするくらい張りのある声だった。
男の子がさっとふり返る。
「また、いつかッ 」
また、いつか君もちゃんとごめんなさいが言えたらいいね!
そして、とっても素敵な友達に出会えたらいいなって思うんだ!
だから、だから…。
次々と言葉は溢れてくるのに、その先は声にならなかった。
これはもしかしたら、この子自身が自分で気づくべきことなのかもしれない。
「………………またいつか、その……あの…。」
アタシが言い澱んでいると男の子はますます不思議そうな顔をして、やがて
「せんせ! また、しりとりしよーなー!!」
元気よく手をふり叫ぶと走っておうちへと帰っていった。
そこでアタシは、ようやく気づくことができた。
その一言は、その一瞬だけは
他の誰でもないアタシが、ここにいていいのだということに。
【おわり】
わたしは見知らぬ町にいた。どこか懐かしく感じる風景。山の緑と商店街。
田園が続く向こう側には蜃気楼のような高架線の上を新幹線が走っていて、わたしはそれに憧れていたことを思い出した。あぁ、あれに乗って行けばいったいどこまでゆけるのだろう、と。 …辺りは昼下がりで、夏らしいセミの声が賑やかだった。子どもの頃は母方のおじちゃんとよくセミ取りにいった。従兄のブン兄ちゃんとふたり、おじちゃんに連れられて自転車でキーコキーコと一緒に並んで漕いでった。セミはアブラゼミが多くて捕まえた時はちょっと怖かったけど、おじちゃんもブン兄ちゃんもケラケラ笑いながら「大丈夫だ」と頭を撫でてくれた。おかげでわたしは虫が全然怖くなくなった。雑木林のけもの道を探険して図鑑にある虫を片っ端からつかまえたりもした。カミキリムシを素手でつかむわたしをみて周りの大人からはよく「おてんば」だと呼ばれた。けど、お母さんだけには「はしたない」と怒られてばかりだったな。
少し暑い。けれど汗はあまりでない。
古びた理髪店の角を曲がり、ガードレールを伝いながら道路に沿って新幹線の高架線を目指した。路肩に停められた白い軽トラにはトマトやきゅうりが山盛り積まれていて、一本かじってみたくなる。「おいコラッ! ダメダメ、それは“しょうひん”だから食べちゃいかん。」お父さんは怒ったら恐くて頑固な人だったけど、その日の晩ご飯にはきゅうりの浅漬けが一本まるまる食卓にでてきて、かぶりつくわたしをみてニコニコしていたから決して悪い人ではなかったと思う。わたしが知るお父さんの記憶はそれで全てだ。たしか結核だった。あまり覚えていない。まぁけどお母さんはお父さんより60年も長く生きた訳だったから、結局あのふたりは仲があまりよくなかったのかもしれない。お母さんはいつも「お父さんがもう少し長生きしてくれれば」と愚痴をこぼしていた。だからわたしは母親譲りの体で父親寄り性格に育ったんだと思う。お母さんよりも3年も長く生きて、自分がしたいと思ったことは絶対した。そう、わたしは丈夫で頑固な子なのだ。
足が疲れた。とくに関節の痛みが治まらない。高架線はまだ遠くわたしはちゃんと前に進めているのか不安になった。「おまえのその真っ直ぐなところが僕は好きだ。」そう旦那が旦那になる前夜、あの人はわたしの手をとって教えてくれた。嫁の貰い手がいないと嘆いていた母は何度か見合いの話を持ってきたがどの人とも上手くいかなかった。その頃はブン兄さん一筋だったのだ。でも、わたしが21回目の誕生日をむかえる前にブン兄さんは上京してしまった。しかし失意の底にあったわたしを救ったのもやはりブン兄さんだった。ブン兄さんのもってきた縁談に母は喜んだ。相手は銀行員の息子だった。胡散臭げな人だとはじめは思った。けれど、わたしの家で家族と一緒に夕飯を食べる度に、「美味しい美味しい、おまえのとこのきゅうりは世界一美味しい」と言ってポリポリかじる姿をみるうちに、わたしもいつの間にか彼に惹かれていった。父がいなくなってから農業はほとんど辞めていたが裏の畑できゅうりだけはわたしが育てていた。「ありがとう」それがあの人にはじめて言った感謝の言葉だった。
高架線にずいぶん近づいてきた。自分の中にちいさな自信が生まれた。わたしは思いきって田んぼの畦道を通って近道をする。足元で大きなウシガエルが跳ねてひゃんと間抜けな声がでた。あぁ本当に暑い。頭がぼんやりとする。わたしは今まで歩いてきた道を振り返った。とても長い道のりだった。南から北へと風がわたしを追い抜いてゆく。今度は正面に向き直ると、そこには山間に消える高架線が伸びていた。緑の上に建つ人工物はとても不自然な存在のはずだったが、わたしは違和感がなかった。びゅおおという音とともに白く細長い物体が視界に飛び込む。のぞみだかこだまだかわからないそれは一筋の閃光のように過ぎ去っていった。わたしは旦那とあれに乗って突き動かされるようにこの地を離れた。いつかのブン兄さんと同じように…
血がドクドクと頭へ沸き上がってくるようだ。ハンカチで何度顔をぬぐっても汗はあまりかいていなかった。わたしはたまらなくなって、その場にしゃがみこんでしまう。体の節々が痛かった。「大丈夫か!」と遠くから呼びかけられた気がした。一瞬わたしはおじさんかと思っけどまったく違うただの年寄りだった。わたしはお水をもらい、一口含んだところで意識が途絶えてしまった。
くぐもった音が聞こえる。
水中で歌うような滑稽さであった。
それが男性らしき人の話し声であるとわかるまでに相当な時間がかかった。ゆっくりと水面から浮き上がるように意識が覚醒していった。ベットの上で味気ないシーツのざらざらとした手触りが伝わる。病院特有の消毒くさい空気が鼻腔を刺激する。 白い天井とハの字に伸びたカーテンレール。わたしの 目はそのどこにも焦点があわず、まだ水の中にいるような気がした。
「あっ、起きた。」
男性がわたしの顔を覗きこんでくる。
精悍な輪郭と太い眉毛は本当にそっくりであった。あぁそうか、ようやく会えたんだ。
「あぁ、ブン兄さん。探しましたよ。」
すると、ブン兄さんは静かに首を横に降った。
「文三じぃさんは10年も前に亡くなったでしょ。」
意味がわからなかった。というより、わたしにはひらがなの音の羅列にしか聞こえなかった。わたしはブン兄さんの隣に立つ旦那に助けを求めた。またいつもの冗談でわたしをからかっているのだと。
「いいや、お祖父ちゃんももういないよ、お祖母ちゃん。」
「もう、俺らのことわからないのかな…。」
そう彼らは言った。
わたしは孫達の顔を思い出そうとした。しかし、息子の赤ん坊姿ばかり浮かんだ。わたしは都会に旦那とふたりきりで上京して、隆夫と美奈子を育てたのだ。はじめは苦労はかりで辛かったが、ふたりとも立派に育って家を出ていった。隆夫はいつでも元気な子だ。小学6年生の運動会はかけっこで一番だった。美奈子はとても繊細で優しい子。ピアニカが上手で他の奥様方にはよく「将来はピアニストになれる」と言われたものだ。あの子はずっと保育園の先生になりたいといって短大にいく勉強をしていた。わたしたち家族みんなで応援していたっけ。あぁそう言えば隆夫はどこに就職したのだったろうか。初出勤の時に寄越してくれた手紙が鏡台の引き出しにあったはずだ。早く取りに行かなくちゃ。
慌ててパタパタとスリッパをはいて外に出る。いつの間にか空は真っ暗になっていて、パジャマ一枚では少し寒かった。でも家に帰ればウールのコートがあったはず。ちょっとの辛抱だ。明かりひとつない雑木林は怖かったけど、今のわたしはへっちゃらだった。なぜなら幼少の頃ブン兄さんに連れられて裏山に………………
俺は事務の女の子に回された電話をとる。やはり病院からであった。「お母様が昨晩未明から行方不明に…」という内容だった。これで三度目だった。前回は十数キロも離れた土地まで踏破し、おまけに熱中症で倒れる始末だ
。近くの人が駆けつけてくれなければあやうく手遅れになるところであった。そんな事が過去にあったというのにうかうかと患者を抜け出させてしまう病院の管理体制の甘さに毒づく。勘弁してくれ。俺は納品書の見直しと電話対応を部下に任せ、とりあえず警察と嫁に連絡した。家にオカンが来たらちゃんと引き留めておいてくれと。わかったじゃあ午後のパートは休むね、といって嫁の電話は切れた。大企業や公務員でもない俺はそうポンポンと休みは取れない。はぁっ。目頭をぎゅっと押さえて画面に向き直る。もう五十過ぎの体は年々重くなるばかりだ。
母の徘徊は収まる気配がない。
それにいつも俺や息子たちを見るたびにオヤジや文三おじさんと間違える。
ただ、母は連れ戻される度に妙にすっきりした顔をする。
なにか得心したように
それは俺の勝手な
都合のいい想像かもしれないが、
駆り立てられるように
けれどとても緩慢に
拾い集めていたのかもしれない
母さん自身が歩いてきたしるしを。
病院から少しだけ離れた村落で母は保護された。まるで少女のように目をキラキラさせながら隣家のきゅうりをかじっていたそうだ。
【おわり】

