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朝日記230617 概容メモ: 思弁的リアリズムSpeculative realismについてと今日の絵

2023-06-17 09:11:15 | 自分史

朝日記230617 思弁的リアリズムSpeculative realismについてと今日の絵

これはWikipedia,the free encyclopedia(2023年6月時点版)での解説記事からの要約である。

 

原文対訳を別添:

朝日記230617 対訳・思弁的リアリズム(その1) Speculative realismについてと今日の絵

朝日記230617 対訳:思弁的リアリズム(その2)

 

朝日記230617  対訳・思弁的リアリズム(その3)

 

 

今日の絵はクレマチスです。本文のは絵後からです;

ここでは概容です。

 

Briefing note

Speculative realism

思弁的リアリズム

出典;From Wikipedia, the free encyclopedia

 

荒井康全 Yasumasa Arai,  MinamiTsukushino, Machida, Tokyo

E-mail: araraiypol1a@ozzio.jp/

 

Speculative realism(思弁的リアリズム)[1]は contemporary Continental現代の大陸での運動である、それは post-Continental philosophy)[1](ポスト大陸哲学)としても知られており、その自身が厳密ではない緩い metaphysical realism(形而上学的リアリズム)[2]の立ち位置で定義されたものである。それはpost-Kantian philosophy (ポストカント哲学) (または "correlationism"相関主義と用語化)[2]されたもの)の支配的のもとでの形式解釈に対して抵抗するものとして位置づけられるものである。 

 

 

Speculative materialism

思弁的材料主義

Quentin Meillassoux は相関主義批判のなかで、 (彼は speculative materialism をかれの位置づけにつかっている)[4]

Kantの哲学の焦点からふたつの原理を見出すのである。

 最初のものはprinciple of correlation(相関性原理)であり、これは、我々はThought(思考)と Being(存在)の相関をのみ知ることができ、その相関の外側にあるものは知りえないことを基本的とする原理として位置付ける。

第二はMeillassouxがthe principle of factiality事実的性の原理)と称するものであり、これはthings(モノ)はそれがいまあるのとは別用にもありうるという原理である。

この原理はKantが提唱したものであり、それは thing-in-itself(物自体)の理念を護ることに当たって、それ(物自体)はunknowable(知り得ないもの)であるがimaginable(想像 できるもの)としたのである。我々はリアリティを想像しうるのであり、かつ我々がリアルには決して知られていない場合でさえ、なお基本的に異なった存在のリアリティを想像することができるというものである。

 

Meillassouxは相関性原理を排除することにおいて逆の方向の戦術をとることにした。それはprinciple of factiality(事実化性の原理)に基礎に置くことを生かすために、彼が位置するpost-Kantianの哲学のなかであえてHumeへの回帰を図ったのである。

非矛盾性原理を保持することを除けば、Meillassouxは自然の物理法則の必要性を排除するだけでなく、すべての論理則の必要性をも排除する道すじを取ったのである

 

ここでthe Principle of Sufficient Reason(十分性の理由原理)を排除する。これによって物理法則の必要性のための正当性はなにもないということであり、この宇宙では斯くなるように斯く治まっているということであり、これ以外の治まりようないという理由はなんらないという意味になるのである。

Meillassouxはthe Kantian a prioriカント系の先見)を捨て、Humean a priori,(Hume系の先見)を取り入れた、それは起因性の主観についてはHumeからつぎのように学んだのである;「同じcausality (cause原因)が実際には百も、否さらに多いevents結果をもたらすであろう」[9]というものである。

 

Object-oriented ontology

対象志向存在論OOO

 

Graham Harman および Levi Bryantobject-oriented ontology (OOO)(対象帰着存在論、略称OOO) 

Harmanによればすべてのものはan object(ひとつの対象)である、たとえばmailbox(郵便受け)、 electromagnetic radiation(電磁輻射), curved spacetime(曲線座標時空), the Commonwealth of Nations(国家共同体), または a propositional attitude(提案的姿勢) であり;

すべてのものごとは、物理的もしくは仮想的を問わずひとしくobjects(対象)としてみるのである。

 

Harmanはobjects(対象)が結合するときそれらは新しいobject(対象)を創生するとしたのである。

彼はa priori metaphysics(先見的形而上学)を尊重したのであり、それはリアリティというものがobjectsのみで形成されかつ、objectsの系列はno "bottom"(底なしのもの)であるということを要求したのである。

Harmanにとっては、an objcetはそれ自身、infinite recess(無限的母容態)であり、それ自体はunknowable(不可知)でありかつ他のものによってunaccesible(アクセスできないもの)である。

これは"vicarious causality"[3]と彼自身がよぶaccount(判断算定基準)へとみちびくものである。

 

Harmanによればobjects(対象)にはふたつのタイプがある:それはreal objects(リアル対象)とsensual objects(体感的対象)である。

前者はthe things of everyday life(日常的生活のもの)であり、後者は相互作用を調整する"sensual vicar"(戯画的(モデリング)なもの)である。 

たとえば、火が綿を燃やすときに、Harmanはいう、火がその綿に及ぶまえは綿の本質についてはなんら影響がないが、いったん綿が燃焼を起こす部分に至ると燃焼というモデルによってその相互作用が戯曲化され調整される。

 

Transcendental materialism

超越的物質主義

Iain Hamilton Grant はtranscendental materialism.[12]という位置を防御した。

かれは"somatism"という術語に抵抗する。これはbodies(体)についての哲学と物理学である。

 ここでのsubstantive(実質的なもの)としてのMatter(物理的なモノ)とuseful fiction(有益な仮想)との間の区別性は今日もいきていること、

Platoの伝統のなかで“speculative physics”(思弁的物理学)に還えること、つまりphysics of bodies(体の物理学)ではなく、その"physics of the All"(すべてのものの物理学)に帰ることを要求するものである。 

Eugene Thackerは"life itself"(生命それ自身)の概念自体がもつ領域の哲学と、同時にmetaphysical properties(形而上学的特性)をもとめることになるか。

彼の著After Life では如何にしてontology of life(生命の存在論)が"Life" と"the living”の間のa split(分割)した道すじ、

そこではlife(生命)は別の形而上学的術語を使ってのthought(思考)となる、たとえばtime(時間)、form(形式)、またはspirit(精神)である。 

 

Transcendental nihilism

超越的ニヒリズム

Brassierは、哲学がextinction(絶滅)するという悪夢的観念を回避してきたが、そのかわりに、世界がits own annihilation(それ自身完全破壊消滅)というまさにその観念からの条件によって世界の意味を見出すことをこころみるのである。

Brassierはそこで過激な反相関主義者を擁護して哲学ではThought(思考)はBeingとではなくNon-Beingと連結してすすめることを提案する態度をとったのである。

 

Controversy about the term

この術語についての反論

Ray Brassierは"speculative realist movement"の過熱に警戒的である。

「私はDeleuzeの指摘に同意する、それは究極的に哲学のもっとも基礎的なしごとは馬鹿さを食い止めることにあるということだ、そこで私は"movement"そんな運動から何ら哲学的恩恵をみることがないのであって、そのようなものは愚かさのオンライン乱交を産むだけであった。」

 

 

[1] Speculative; 関わっているさま、表現しようとしている様、知識よりも推測に基づいたさまGoogle Word dictionary)(荒井)

[2] Metaphysical realismはつぎの内容の考え方である;存在するものはすべてそのようにありかつ、そのような特性と関係を所有し、それについて思考や経験から存在や自然を引き出したものとは独立にあるとする。(Philosophical realism:From Wikipedia, the free encyclopedia)(荒井)

 

[3] vicarious causality;第二者以上において共有される、あるいは複眼的な経験による因果性(荒井)

参考:vicarious;  experienced as a result of watching, listening to, or reading about the activities of other people, rather than by doing the activities yourself (Cambridge Dictionary)

朝日記230617 思弁的リアリズムSpeculative realismについてと今日の絵

 

 

別添対訳へは:

 

朝日記230617 対訳・思弁的リアリズム(その1) Speculative realismについてと今日の絵

朝日記230617 対訳:思弁的リアリズム(その2)

 

朝日記230617  対訳・思弁的リアリズム(その3)

 

 


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