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朝日記181214 偶感 日本絵画とコンピュータ世界についてと今日の絵(修正版2018-12-14版)

2018-12-14 00:48:59 | 自分史

朝日記181214 偶感 日本絵画とコンピュータ世界についてと今日の絵(2018-12-14版)

今日の絵は (A Red Giant)です。

(Red Giant)

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偶感 日本絵画とコンピュータ世界についてと今日の絵(修正)

会員 荒井康全

2018/12/13(No.8330

 

  日本絵画が 現代世界思想に発信していることを バーリンスキーとロラン・バルトの二人に焦点を当てて、徒然ことを綴りました。 19世紀末のフランスに始まるジャポニズムは、ゴッホからボナール、マチスまで、西洋美術界に強いインパクトをあたえ、いまもその命脈は生きているようです。 日本人論を語るときに、文化論の切り口からくると 日本人の特質の輪郭に鮮明さを与えるようです。 その意味で、日本絵画を通じての日本の表象について 述べてみます。

 


徒然こと 1  バーリンスキー 日本絵画とコンピュータ世界[i]

 ~記号化と情報としての表徴としての絵画

 人間はみるものを対象として捉え、表現しようする努力のつみかさねに、涙ぐましく、また感動的な歴史をもっている。その典型は、対象の言語論理化をへての概念化つまりロゴス化である。 しかし、これが表現法のすべてではない。人間が五感でとらえたものを、非論理媒体、音、像、味覚、嗅覚、触覚など器官を通じての感受し、それを介しての感情表現による伝達を行う。つまりパトス化である。 さらに、人間が群れや社会を構成し、生存するための同意し、合意した内容を遵守していくために、約束やルールの表現としての規範がつづく。つまりエトス化である。

ロゴスという点に重心をおいて近代文明の成立基盤をみるなら、ニュートンやライプニッツに代表される。この二人た単に併記に留める以上に、近代科学の歴史を考えるうえで、その発想の差異に注目しておくいいがある。

ニュートンについては、宇宙全体に対しては、統一原理をめざす物理学を構築し、近代文明のひとつの系譜を形成したそのシンボルとして世界が認めるところである。ニュートンは思考対象を、その物質原理に一元集中し、その探求の結果から普遍原理を求めるものであった。

一方、ライプニッツは、バーリンスキーの表現を借りると、「ときとして、自分が表現しきれない計画に降り組んでいたよう」であったと指摘する。百科全般にわたって、壮大な体系が(少なくとも論理上)が本来あるものとして、個々の思考の括りのなかでは、未だ、はたらいていなくても、それらは、抽象度が増す方向へと発展し、統一的な原理への到達を考えていたようである。

バーリンスキーのその説明イメージとして、日本の伝統的絵画に着目して、彼らの西洋絵画との本質的な差異をとりあげたのであった。日本絵画をライプニッツ、西洋絵画をニュートンと対比したのである。

彼に語らせよう。

「ライプニッツは百科事典からその内容の痕跡をすべて取り除きあとに残ったものを純粋な記号と形式の体系のみに注目した。」これを丁度以下のイメージとして日本の絵に、彼の眼を注ぐ。 「日本の画家が最後にはパレットから黒を除くあらゆる色を取り去る(そして黒と対照をなす白を神そのものに求める)。」

つまり、 絵をみるものにとっては、表現するもの(対象)は、網膜に写るものを、像として対象認知し、表現イメージとして「対象化」される。 その「対象化」の過程は、ふたつに分かれると考えられる。ひとつは 象形文字への記号化の意識転換と表現操作の活動として、具体的には「筆」を経て、表現体が制作される。現在では「書道」もしくは「書」とよばれている。もうひとつは、象形文字に限りなく接近するが、表現イメージの「対象化」としての象形文字への記号化を嫌い、さらに言語による概念化を嫌う。画家の意志は、潜在的な意識からのものであり、その意志が対象の形を通して、対象のもつ属性を取捨捨象し、対象のなかから画家の願望を引き出そうとする活動がはじまる。対象は意識のなかのイメージへと形象し、転換し、凝縮し、表現体が制作される。 これを「絵画」とよんでおく、そして有限な線の構成する記号化として発信した。

非常に興味深いのは、ものごとの認識が、ニュートンの第二法則のように物質の統一法則からの派生として得られるというものに対して、ライプニッツは、物理学の法則をも包含した大きな原理を想像し、その対象を追求する。 その過程では、対象のもつ多様性や複雑性を認めなければならず、それらを論理表現化する便宜のために「記号」いう概念を導入している。

そして現代では、「記号」、「情報」そしてこれを計算処理する「アルゴリズム」として、複雑・拡大した対象作動へと構造原理化へと発展し、そこに人間意志を機能させた。

彼の発想は「記号論」という新しい思想パラダイムへと啓蒙を与え、人類世界共通のあらたな価値の誕生を教唆するものであった。バーリンスキーは その意味を伝える端的なアナロジーとして、その絵画表現において、余分を削り、必要最小極限の線や色彩を残す日本絵画を取り上げていることに、絵を描く側としては、逆に強い啓発を受けるものであった。

 

徒然こと 2 ローラン・バルト

 ~画面空間を緻密にペイントするだけでは、包含しきれない表現体としての日本絵画をとらえた。[ii]

ロラン・バルトRoland Barthesは、一世を風靡したフランスの構造主義に文化人類学者といわれる。

 筆者は、「菊と刀」でつとに知られるルーツ・ベネディクトの日本人論について、この世界の状況を垣間見るために、図書館で放送大学教材「表象としての日本 ―西洋人がみた日本文化―」を出会うことになった。

バルトは、つぎのように説く;「西洋では絵筆とはあくまでも絵の具を壁面に塗装する道具である。これに対して漢字文化圏にあっては、絵筆は同時に書の筆でもあり、顔の、そして目と、それらを書く(ècrit)。 「けれども塗装する(painting)わけではない。絵筆の描く線が役割りをもつ。これがècritureの本義なのだから。」

 この世界でも、理系世界の「アルゴリズム」とは、直接相互に、意味の渡り合いをしていないようであるが、ècriture記号の意味論 つまり意味論Semioticsは重要らしい。バルトは、記号論での彼の拡張とし て 画面空間を緻密にペイントする西洋絵画では、包含しきれない表現体としての日本絵画の「虜」になってしまったようである。 その「書く」ècritureは、多分 日本語での「描く」で、英語のdrawとは基本的に異なるとみたようだ。バルト曰く;ècritureは「書く」にあたるècrireから派生し、ふつうには文体や筆跡、さらに一般にその結果としての文字一般を意味する。(中略)さらには筆記する行為そのものまでも含む概念が、ècritureであり、(中略)そこに作品内容や作家の政治的イデオロギーなどには還元できない。「書体」の純粋形式を探ろうとしてきた。(中略)バルトは、これに置き換え可能な便利な言葉を、日本語には見いだしていないが、その当の日本にこそ、自らの革新あるいは妄想に、ècritureの理想郷を見いだした -ことになる。

 彼にとっては、大げさにいえば西洋にとって大変な発見ともいえる。 ここでは、アルゴリズムとは一見逆に、言語論理の可能性の喪失ともいえる。( 筆者は、言語論理のみによるに認識可能性の限界を暗に示唆する点では 両者共通しているとみている)

ここでは、画面空間を緻密にペイントするだけでは、包含しきれない表現体としての日本絵画としてまとめておきたい。

 

徒然こと 3  見下していた方が、本来上だったかもしれない

 バルトの言をつづけてみよう[iii]

「当初謎めいていた道の対象 -日本人の行動や倫理意識-が、分析と記述を経ると、むしろ理解可能なものへと変貌してゆく。それた裏腹に、今までと全てと思っていた自分たちのふるまいのほうが、なにか奇妙で説明をようするような『気分におそわれる。これは人類学者グリフォード・ギアツが、ルース・ベネヂクトの『菊と刀』(1944)[iv]を再読した論文で述べた逆説だった(『文化を読む』。

さらに、「知的理解は、その対象を「自然」らしく見せ、最初は不合理に見えたその有様を「合理化」する。だがその過程で、認識主体が当初、対象に対して抱いていた不思議さは、いやおうなく色あせてしまう。」

バルトは、「日本」の記号に、「けっして自然を装ったり、合理化されたりはしない」様を見て取った。言い換えれば、バルト自身の「日本」へのまなざしは、この「日本」という記号に、偽りの「自然さ」や辻褄合わせの「合理化」を施すような、蛮行は、これを、最初から決然として放棄していることになる。」 つまり、バルトは、理解不能なるものに直面した認識装置の自壊告白という系譜学として発見の興奮と方向性の喪失感のなかにあったようである。グリフォード・ギアツのいう 見下していた方が、本来上だったかもしれないということであるが、さて、我が国での哲人諸賢はいかにあるか、気になるところである。

以上

 


[i]  デイヴィッド・バーリンスキー[林 大訳];史上最大の発明 アルゴリズム 現代社会を造り上げた根本原理 早川文庫 2012

 

[ii]山内久明,柏倉康夫,安倍 齋;放送大学教材「表象としての日本 ―西洋人がみた日本文化―」,2004 放送大学教育振興会

[iii] Roland Barthes, L’Empire des signes,1970) (ロラン・バルト(宗左近訳)『表徴の帝国』新潮社、1974 ;ちくま学芸文庫、1996)

 

[iv] ルース・ベネディクト(長谷川松治訳)『菊と刀』現代教養文庫 1952

 


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