北野神社/宮城県気仙沼市(Kitano Jinja,Kesennuma-shi,Miyagi,Japan)
2017年4月18日(火)、気仙沼市新町にある北野神社(きたのじんじゃ)に参拝。山の上にある中くらいな神社。周囲は沢山の住宅がある。細い道をくねくねと上りやっと裏参道の駐車場に着く。砂利参道、由緒石板。表参道の石段は長い。下まで降りるのは止めた。石段を登りきると、左にサクラの花が活けてある手水舎、その奥に社務所あり。正面奥に緑黒屋根の社殿あり。お母さんと男の子が社殿内部を掃除していた。微笑ましい姿を見た。社殿左奥に末社:秋葉神社あり。石段を登り、白い鳥居。奥に小社。社殿右には、なで牛像、神楽殿。サクラ咲く。
獅子狛犬は2対居た。
1対目は、石段を登りきったところに居た。
阿吽の配置は正常。岡崎型。奉納年は、昭和17年10月25日(1942年)
2対目は、末社:秋葉神社の鳥居前に居た。
阿吽の配置は正常。岡崎型。奉納年は、不明。
ポケモンGO:ジム×1、ポケストップ×2。
------------ネットによると-----------
☆所在地
〒988-0071 宮城県気仙沼市新町8-6
tel:0226-22-0694
☆祭神
・菅原道真公(すがわらみちざねこう)
☆由緒
当神社は天和年中計仙麻(現気仙沼市)細浦館(現館山)に勧請された。後、社殿大破せるを以て、明和7年に補陀寺9世日東木食遼天和尚が再建を公儀に願い出たところ、折しも仙台藩、伊達家の重臣、鮎貝志摩藤原盛益殿御奉行のときにして志摩殿御自ら社殿を造営寄進し、八瀬の天神とお面瀬の天神と合わせ鎮め祀り、社地傍らに鮎貝家代々の位牌堂を兼ねた茶室自在庵を建てた。しかしその社地は嶮阻にして参拝人難儀なるを以て、寛政6年に地頭、鮎貝主税殿が滝の上なる浄地を定めて自在庵と共に今の地に移し鎮め奉った。そのとき木食遼天上人は、江戸、越後、九州、蝦夷松前等全国を巡りて、多くの神仏像を彫して御堂を建てて諸藩の旗本、諸大名が仏弟子となり、天満宮移築にあたり浄財、喜捨を受けたと云う。特に蝦夷、松前城主、松前志摩源道廣公の尊崇篤く、志摩殿より真筆、天満宮なる社額を、更に、御奥方より、蝦夷錦5丈の寄進と、その他種々の品を奉納された。松前志摩殿寄進の社額は今も社殿正面に掲げあり、又、遼天上人作の神仏像も全国に所々に残り祀られてある。
☆地名の由来
・気仙沼:気仙沼という地名には、「気仙沼から海を見ると、目の前に「大島」があり、その内湾がまるで沼のように見えたので、気仙沼と呼ばれるようになった」という由来があります。
こんな説も発見しました。気仙沼(けせんぬま)という地名は、古代エミシ語(アイヌ語の兄弟語)の「ケセモイ」(一番南の端の港、境目の港という意味)からきたといわれています。
地名が書き記されたのは延喜元年(901年)藤原時平らによって記された古代日本の正史である「三代実録」が最初だそうです。そこには計仙麻(ケセマ)と載っているそうです。
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2017年4月18日(火)、気仙沼市新町にある北野神社(きたのじんじゃ)に参拝。山の上にある中くらいな神社。周囲は沢山の住宅がある。細い道をくねくねと上りやっと裏参道の駐車場に着く。砂利参道、由緒石板。表参道の石段は長い。下まで降りるのは止めた。石段を登りきると、左にサクラの花が活けてある手水舎、その奥に社務所あり。正面奥に緑黒屋根の社殿あり。お母さんと男の子が社殿内部を掃除していた。微笑ましい姿を見た。社殿左奥に末社:秋葉神社あり。石段を登り、白い鳥居。奥に小社。社殿右には、なで牛像、神楽殿。サクラ咲く。
獅子狛犬は2対居た。
1対目は、石段を登りきったところに居た。
阿吽の配置は正常。岡崎型。奉納年は、昭和17年10月25日(1942年)
2対目は、末社:秋葉神社の鳥居前に居た。
阿吽の配置は正常。岡崎型。奉納年は、不明。
ポケモンGO:ジム×1、ポケストップ×2。
------------ネットによると-----------
☆所在地
〒988-0071 宮城県気仙沼市新町8-6
tel:0226-22-0694
☆祭神
・菅原道真公(すがわらみちざねこう)
☆由緒
当神社は天和年中計仙麻(現気仙沼市)細浦館(現館山)に勧請された。後、社殿大破せるを以て、明和7年に補陀寺9世日東木食遼天和尚が再建を公儀に願い出たところ、折しも仙台藩、伊達家の重臣、鮎貝志摩藤原盛益殿御奉行のときにして志摩殿御自ら社殿を造営寄進し、八瀬の天神とお面瀬の天神と合わせ鎮め祀り、社地傍らに鮎貝家代々の位牌堂を兼ねた茶室自在庵を建てた。しかしその社地は嶮阻にして参拝人難儀なるを以て、寛政6年に地頭、鮎貝主税殿が滝の上なる浄地を定めて自在庵と共に今の地に移し鎮め奉った。そのとき木食遼天上人は、江戸、越後、九州、蝦夷松前等全国を巡りて、多くの神仏像を彫して御堂を建てて諸藩の旗本、諸大名が仏弟子となり、天満宮移築にあたり浄財、喜捨を受けたと云う。特に蝦夷、松前城主、松前志摩源道廣公の尊崇篤く、志摩殿より真筆、天満宮なる社額を、更に、御奥方より、蝦夷錦5丈の寄進と、その他種々の品を奉納された。松前志摩殿寄進の社額は今も社殿正面に掲げあり、又、遼天上人作の神仏像も全国に所々に残り祀られてある。
☆地名の由来
・気仙沼:気仙沼という地名には、「気仙沼から海を見ると、目の前に「大島」があり、その内湾がまるで沼のように見えたので、気仙沼と呼ばれるようになった」という由来があります。
こんな説も発見しました。気仙沼(けせんぬま)という地名は、古代エミシ語(アイヌ語の兄弟語)の「ケセモイ」(一番南の端の港、境目の港という意味)からきたといわれています。
地名が書き記されたのは延喜元年(901年)藤原時平らによって記された古代日本の正史である「三代実録」が最初だそうです。そこには計仙麻(ケセマ)と載っているそうです。
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