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パートナーと尻込みと

2013-05-06 19:40:45 | 無題
「ここ片付けて。ママがパパに叱られるから。」

近所から聞こえてきたイライラを混じらせただみ声だ。


そんなのはイヤだ。

わたしは思った。


結婚した相手から、

「なんだここ散らかってるじゃないか。」

とか

「おまえがちゃんとしつけないからだぞ。」


とか言われるのが。


そして子供に、パパに叱られるからなんて言って片付けさせるのも。


そういえばわたしは、

片付けなさいと小さい頃に怒られた記憶がない。

たぶん言われたら、普通に片付けていたんだろう。


綺麗に箱に仕舞っていく感じが好きだった。

うまいこと隙間に、いつもの場所に埋めていれていくのも、

ひとつ遊びのようなワクワク感があった。


それに母もどなりつけないで、

「もうすぐ夕飯だから仕舞いなさい。」とやさしく

言っていたように思う。


むしろ中学生くらいになってから、

家庭が崩壊し始める頃には、

片付けなさいというより、

どうして片付けられないの?といったようの状態になっていたが。

それは心の問題で、今回の記事とはまた別の話。



父と呼ばれる人は(実際に父なのだが、今はもうそんな風に思いたくない程だ)

教育のいっさいを母におしつけていたように思う。

わたしが心を閉ざしたのも、

「おまえがちゃんとしつけないからだぞ。」といった口調で、

母を責めていたように思う。

子供なりにわたしはなぜ母を責めるんだという自分を責めかけて

なにも現場を見ていない、なにが起こっているのか知ろうとしない避ける、

その一言だけですべてを支配しようとする卑怯な父に、

嫌悪感が募った。




わたしは最近、職場の人で心の広い人に出合った。

その話はもう何度もブログに書いたが、

その中でも、

常に心を平穏に保っている人がいた。

まるで心の中に嵐が来ても、それを乗りこえる、

それを消化する術でも身につけているかのようだった。


禅を身につけたような人だなと思った。

わたしは禅の詳しいことなんてしらないのに、そう感じた。


「禅の本を読んだことがあるんですよ。そこではまって」

一度だけそんなことを話してくれたことがあった。

言いにくそうというか、照れくさそうというか、

そんな感じにちょっとづつ言った。

わたしがどんな表情をするか伺っている感じでもあった。

たぶん、禅をどうとかって話したら、

人によっては引かれる可能性があることを考慮して、

そんな話し方になったんだと思う。

もしその人のことを知らないで、禅がという話をされたら、

わたしも戸惑っていたと思う。

でもその人から禅の言葉が出て、

わたしはむしろ納得がいって、話してくれてよかったとさえ思った。

その人の不思議が少しわかってうれしかった。

でも、

それ一回きりで、そのあとはぜんぜん話してくれなかった。

わたしも妙に食いついた風に興味を示しては、

逆にあやしい感じになるなぁと、

気になっても聞けなかった。


おすすめの本ぐらいは聞きたかったし、

できれば、修得しているであろうその人に、

少しでも考えを得たかった。



最初は、心穏やかな性格なのかと思っていた。

それにしても穏やかすぎて不思議に思っていた。

学も高く、実際習得力もあり、大きな目標もある人だった。

技術力も、知識も、となりの職種の分野についても長けていた。

地位も与えられ、慕って頼りにして話し掛けてくる人もいた。

わたしはうらやましかった。

さらに、

けっして驕るなく、

周囲の人を敬い尊敬する姿勢をいつも持っていた。

自分のまだ至らぬ点も把握しており、

また自分の強みになる点も把握していた。

謙虚な姿勢と、学ぼうとし、上を目指す姿勢を保っていた。

大きなミスを周りからからかわれたこともあった。

けれど卑屈になることなく、

そんな自分にしょうがないなぁと後ろ頭をかくような感じで、

周りのやっかみは耳にーというより、心に入ってみだされるということは

ないようだった。


わたしがさらにうらやましかったのは、このとき、

周りからかうというよりむしろ、

強力にサポートするような感じだったことだ。

いつもはもっと大げさに祭り立てる人たちも、

黙って強力にサポートするという感じだ。

だから驚いた。

先にからかいと書いたけれど、

そうではなく、

その人たちが大きく動くから、ミスが伝わらなくてもいいようなわたしのところまで、

知れ渡ったことだ。


ミスしてしまったことを秘密裏に、

関係各位だけで処理することもできたのに。

そこがなんだかかわいそうに見えたが、

と同時に、

それにしてはあまりにもつっつかない様子にわたしは唖然とし、

いつもなら隣りチームのだれだれがどうとか大声でいってやっかみ、

他人のせいにする人たちが、

それを一切言わずに、とにかくどうやってサポートするかということに

集中していたことだ。


それだけあとがないミスで、

シャレにならなくてやっかんだり冷やかしたりしている状況じゃなかったとも思えなくはないが、

だとしてもあの、少年マンガかアニメの

勇士のような面々様子をみるに、

その人が愛されていることが伝わってきた。



もし他の人だったり、本当にいつか引きづり降ろしてやろうと思われている人だったり、

あいつは邪魔なライバル(よきライバルにしておけない程に)だというのがあったら、

あの機会に周囲からも会社からもめっためたになっていただろう。

でもそうではなかった。

暖かく見守られている感じだ。

ライバル心がある人も、よきライバルとして見ていたようだ。



その人がイヤなことがないわけではなかった。

ある日長く話していたとき、

「僕だってね、やってられないんですよー」

と、いつもの笑顔のまま顔がつり上がって、

いかにもぶっちゃける口調で漏らしたことがあった。

笑ったまま顔が険しくなるというのは、

普段見せない感情を垣間みることだった。


わたしが2つ上の上長の姿勢とその周りのやりとりで受けた

悩みや、周囲から相談されたいた会社の制度について訊ねているときだった。


わたしはその時、

(((この人もそんな風に感じるんだ。)))

と意外だということと、やっぱりイヤなことはあるし感じるんだという2つの相対する気持ちで、

ハッとした。

そして心がより穏やかな気持ちになった。



さらに、だとするとやはり習得したなにかがあるのかな?と思った。

それが後に聞かれる禅だった。

けれどそれ以上のことは得られなかった。


この記事で書きたいのは、禅について知りたいという方の話ではなく

(それはまた別の機会に。)

そんな穏やかな人と一緒にいることで、

自分も穏やかが広がったこと。


そして、

できるなら、

そんな人がパートナーがいいということだ。


でも結婚して子供ができたら、

あんな穏やかな人でも、

片付けられていないのは誰のせいだとか、

教育は任せるからといった感じになるのだろうか?


なるとしたら、声をあらがるようではなく、逃げるような感じで

家庭内にあまり興味をもてないという感じだろう。


逆も充分ありえる。


それってやっぱり一緒になったパートナーによる感じだろうなぁと

想像がついた。


きっと一緒になる人が健やかな気持ちのいい前向きな人なら、

家庭内にも興味をもって、

むしろ積極的に介入して、

一緒に子育ても楽しむのだろうと思った。



そこでわたしは思う。

わたしもポジティブで参加したくなるような人になれたら、

と。