樋口季一郎は桜会にも関係したが、回想録にはこの事柄は書かれていない。おそらく当時の役職が東京警備司令部参謀であったこと、樋口の風貌、年齢から橋本欣五郎らに強く加盟を勧められたものと思う。回想録を読むと樋口は文学青年の一面が見られるので、この面からラジカルな思想の持ち主と解されたのかもしれないが、橋本らとは肌合いが違ったのではないか。それに年譜によると樋口が東京警備司令部参謀に就任していたのは、昭和六年から七年の二年間で、翌年八月には福山に転任している。樋口の本意とは異なる名前貸しに終わったので、だから回想録で桜会にも触れなかったのでないか。
以下は小学館「日本大百科全書」より引用。
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陸軍省、参謀本部の中堅将校を中心に、国家改造を目的として結成された団体。1930年(昭和5)夏、橋本欣五郎(きんごろう)中佐(参謀本部ロシア班長)を中心に、坂田義朗(よしろう)中佐(陸軍省調査班長)、樋口季一郎(ひぐちきいちろう)中佐(東京警備司令部参謀)ら二十数名の発起人により結成された。ロンドン軍縮条約に対する不満と政党政治への反感をもとに、「本会は国家改造を以(もつ)て終局の目的とし之(これ)が為(た)め要すれば武力を行使するも辞せず」との目的を掲げ、また満州侵略を不可欠と考えていた。31年5月ごろには会員150名に達し、同年7月には尉官級を中心とした小桜会も結成され、国家改造をめぐる将校の横断的組織となった。桜会内部には国家改造と対外侵略の方式に関する意見対立が存在したが、橋本らは満州侵略のためにも、まず国家改造が必要であると主張していた。橋本らは31年の三月事件および十月事件というクーデター計画で国家改造を実行しようとしたが、いずれも未遂に終わり、その後桜会は自然消滅した。 天皇制国家機構の中枢機関である陸軍内部に、初めて国家改造を指向する組織が結成されたことは、日本ファシズム形成過程に重要な意味をもった。
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橋本欣五郎(きんごろう)(1890―1957)陸軍軍人。福岡県出身。陸軍士官学校23期。陸軍大学校卒業。参謀本部や関東軍司令部に籍を置いた。1927年(昭和2)トルコ公使館付武官となり、ケマル・パシャの革命思想の影響を受ける。30年参謀本部ロシア班長となり、陸軍中堅将校を中心に桜会を結成する。31年、三月事件・一〇月事件を企て、軍の政治的進出を促した。36年、二・二六事件後の粛軍により砲兵大佐で予備役となるが、大日本青年党を組織し積極的にファシズム運動を展開する。37年日中戦争に召集され、同年12月、揚子江(ようすこう)上のイギリス砲艦レディバード号を砲撃拿捕(だほ)した事件により退役となる。40年大日本赤誠会を結成。42年衆議院議員初当選、翼賛政治会総務となる。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑となり、55年仮釈放。56年参議院全国区に出馬したが落選。
■三月事件 陸軍内部で企図され、未遂に終わったクーデター事件。1931年(昭和6)2月幣原喜重郎(しではらきじゆうろう)臨時首相代理は衆議院の答弁で、ロンドン海軍軍縮条約を天皇が承認したことを盾に批判を封じようとした。このいわゆる失言問題で議会は混乱した。それを背景に、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長)をリーダーとする桜会の幕僚将校は、民間右翼の大川周明(しゆうめい)の協力と軍首脳部の賛同を得て、陸相宇垣一成(うがきかずしげ)を首班とする軍部政府樹立を計画、国家改造の推進を目ざした。杉山元(はじめ)(陸軍次官)、二宮治重(にのみやはるしげ)(参謀次長)、小磯国昭(こいそくにあき)(陸軍省軍務局長)、建川美次(たてかわよしつぐ)(参謀本部第二部長)らがこの計画に賛成したといわれ、資金は徳川義親(よしちか)(貴族院議員)が援助した。計画は、大川が無産政党と連絡して3月20日ごろを期して民衆1万人動員による対議会デモを実行、軍隊が議会保護の名目で議会を包囲し、民政党内閣を総辞職させ、宇垣内閣を実現させるというものであった。宇垣がのちになって参加を拒否したため計画は挫折し、事件は闇(やみ)のなかに葬られたが、それは急進ファシズム運動の呼び水になり、同種の事件が頻発する契機をなした。
■十月事件 桜会の橋本欣五郎が首謀者となり計画、未遂に終わった本格的なファッショ的クーデター事件。錦旗(きんき)革命事件ともいう。1931年(昭和6)3月事件の失敗後、橋本らは関東軍の満州謀略計画と連携した国家改造クーデターを計画していたが、同年9月満州事変勃発後、それを具体化しようとした。計画には隊付青年将校らのグループも参加し、大川周明(しゆうめい)、北一輝(きたいつき)、西田税(みつぐ)、橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)らの右翼勢力も加わった。計画の内容は、10月21日を期して、桜会の将校が率いる十数個中隊の兵力を動員し、閣議の席などを襲撃して全閣僚、政党幹部、財界人を殺害、戒厳令を布告し、荒木貞夫中将(教育総監部本部長)を首班とする軍部政権を樹立しようとするものであった。しかし計画は事前に発覚し、10月17日、橋本ら13名前後が憲兵隊に検挙され、クーデターは未発に終わった。以後青年将校グループは、幕僚将校らの運動に不信感をもち、彼らから離脱して直接行動による国家改造運動を展開するようになっていった。
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桜会での樋口の姿については回想録末尾に──跋──として、稲葉正夫氏が次のようなことを書いている。
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なおこの桜会に関係深く、唯一の政策参謀でもあった前記田中清少佐は昭和七年一月、有名な「所謂十月事件二関スル手記」をひそかに発表している。これによれば、発起人は橋本、坂田および樋口季一郎(21期-東京警備参謀)の三中佐で、発会当時は二十数名の会員であった。そしてその志すところは、国家改造を終局の目的とし、これがためには、要すれば武力行使も辞せずというのである。会員は、中佐以下の現役将校で私心なき者に眠られた。
目的達成の準備行動としては、
一切の手段をつくして国軍将校に国家改造の必要なる意識を注入
二 会員の拡大強化(昭和六年五月ころには会員約一五〇名あり)
三 国家改造のための具体案作成
などであったが、会員の目的を本質的に考察すれば建設当時から既に、(一) 破壊第一義、(二) 建設を主とする、(三) 中間浮動、にわかれていたという。
樋口、坂田、橋本三中佐はいずれもロシア班に奉職した因縁あり、同憂同志であっても不思議ではない。当時、重厚な樋口中佐を発起人の筆頭に推戴したというのが本筋ではなかったか。土橋少佐手記にも結成時、樋口中佐の名はあがっていない。さらに田中少佐手記の三月事件および十月事件には、樋口中佐活動の記事は一切ないのみならず、かえって「十月十五日(全員逮捕は十七日)警備参謀樋口中佐ハ桜会ニ於ケル関係ヨリ個人的ニ橋本中佐ヲ説得セントシ遂二激論ヲ交へ終レリ」とある。
要するに、トルコ武官から帰った橋本中佐は桜会を根城にして、トルコの例にならい最初からクーデターによる革新を狙ったもので、三月事件から十月事件まで終始、橋本中佐を中心にロシア班の小原重厚大尉、田中弥大尉およが支那班の長勇少佐等の少数過激派の盲動によるものであったようであるが、樋口中佐はじめ桜会多数の会員とは、根本において異なるものであった。ともあれ、桜会の少数過激派の行動が、のちの五・一五及び二・二六事件とあわせて軍部に武力革命の意図ありとして日本の朝野にショッタを与えたことは否めない事実であった。
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稲葉正夫氏については以下を参照されたし。
http://ww1.m78.com/topix-2/army%20officers.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no72.htm
近年、故人樋口季一郎を冒涜するような形で担ぎ出してきたのは、桜会関係者ではないかといううがった見方もできるのである。必ずしも樋口季一郎にとっては好ましいことではない。