ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 17  薬音寺聖観音菩薩立像

2011年11月29日 | みほとけ
    
 薬音寺仏像群には菩薩像が四躯含まれる。形姿から二躯は十一面観音、もう二躯は聖観音であることが明らかだが、これらの菩薩像は薬師如来坐像を中心とする三如来形式のグループとは時期的にも内容的にも別趣の観がつよい。おそらく藤原時代に流行した観音信仰によっての追加造像と推される。
   
 そのなかで写真の聖観音菩薩立像は姿形がひときわ目立つ。彫技の確かさもさることながら、造形表現の基調を八世紀以来の精神のなかにとどめている点が見逃せない。連眉の名残を思わせる鋭い眉の線、耳上に優雅にたなびく鬢髪、三屈法による下半身の動勢表現、裳裾を強く反転せしめる風動表現、それらの全てがインド及び中国美術の系譜上にあり、全てを一木から彫出する徹底した木彫意識によって鮮やかに刻み出される。
   
 全体的な表現の形や彫りのパターンは十世紀特有の個性をみせるが、一見するともっと古い像に見えてしまう。このような像こそが、古典に学び古典の妙を吸収しての造像の成功例であろう。これほどの像は奈良県下の十世紀彫刻遺品でも滅多に見られない。薬音寺仏像群を代表する優作と言っていい。
   
 この聖観音菩薩立像は、薬師如来坐像に続く本尊級の仏像として造られた可能性が考えられる。薬音寺の寺号は、薬師と観音の寺、という意味を込めての称であったと推測されるが、案外史実を反映しているかもしれない。
 根本本尊として最初に薬師如来坐像が造られ、聖観音がこれに続いて重要な位置を与えられた成り行きが薬音寺の号に象徴されたのであろうし、何よりも薬師と観音の並立は、比叡山の根本中堂と横川中堂の位置に等しい。天台宗が薬師と観音を中心として一群の仏像を順次整備した過程が、薬音寺仏像群においても見出せる。これが薬音寺仏像群を解釈するための基本的理解となる。
   
 草創期の薬音寺においては、薬師如来坐像を軸とする三如来形式に加え、観音菩薩立像の世界観をも確立しなければ、天台系浄土変の全体構想は決して完結しなかったものと想像される。この種の仏像群の全体整備には相当の費用と期間が費やされる。主要尊像の薬師如来坐像を九世紀末、聖観音菩薩立像を十世紀前半とみればその間に長くて数十年が置かれるが、この長さこそ薬音寺が天台系拠点寺院として積極的に活動していたことの証でもある。
  
 聖観音菩薩立像の造形表現の洗練度は決して偶然の所産ではなく、当時の薬音寺の状況を如実に物語る。他の主要安置諸像の幾つかが十世紀代に置かれることから、この寺の全盛期が聖観音菩薩立像の成立した時期にあたることはほぼ間違いない。 (続く)
   
(写真の撮影および掲載にあたっては、薬音寺総代様および山添村教育委員会の御許可を頂いた。)

大和路のみほとけたち 16  薬音寺釈迦如来坐像

2011年11月25日 | みほとけ
   
 薬音寺仏像群の中心的存在とみられる如来形坐像は、前述の薬師如来坐像の他に釈迦如来坐像と阿弥陀如来坐像が挙げられる。ともに同巧同趣の作風を示すが、薬師如来坐像の雰囲気とはやや異なるため、やや遅れて追加されたものらしい。
 釈迦如来坐像は法界定印を結び、阿弥陀如来坐像は来迎印を示して薬師如来坐像の左右に位置する。最終的には天台系特有の三如来形式にて整備されたことが推定される。
   
 釈迦如来坐像は、現状では内陣の西側に位置して阿弥陀如来坐像と並ぶ。ともに分厚い体躯に首がのっかるようなブロック状の体躯、印を結ぶ大ぶりの手、前に張り出す両膝部の造形などが共通するが、表情はそれぞれに独自である。
 そして天台系彫像の個性は釈迦如来坐像に顕著であり、目立つのは大きく高めに表わされた頭部螺髪である。近江地方の初期天台彫像と似たような傾向をみせて最澄自刻の一乗止観院根本薬師仏の面影を想像させる。薬音寺の三如来坐像のうちで最も天台彫像の感覚が濃いものの、全体的に丸みを帯びる造形基調は、薬師如来坐像より後、十世紀前半期の造立であることを示す。その時点で薬音寺における三如来形式が具体化されたとみてよい。
  
 現在までに奈良県下にて確認されている天台系三如来形式遺品は、全て藤原時代以降に置かれる。十一世紀の南明寺像、十二世紀の西福寺像および旧金剛院像、十三世紀の旧眉間寺像を挙げ得るが、十世紀の薬音寺像はしたがって最古クラスの三如来形式遺品となる。これは全国的に見ても類例が少なく、天台系三如来形式の成立と流布の問題に関わる貴重な資料である。
    
 それにもまして興味深いのは、奈良県下の三如来形式遺品の多くが大和高原地域に位置することである。藤原時代までに大和国の国中盆地の寺院は真言宗との関わりを密接に持ったようであるが、これに対抗する天台宗の動向が大和高原地域の造仏を支配的に進めたと想定出来る。
 この流れのうえに藤原摂関家の荘園拡大による荘堂建立の動きが重なり、それらの造仏規模の最たるものが三如来形式であったことは大きな意味を持つ。とくに南明寺像の作風を通じて定朝若年期の表現のかたちが見出せることは重要であり、大和高原地域における定朝様式の波及の起点の一つを三如来造仏に想定することが可能となるからである。
   
 このような考えに立つとき、三如来形式の初期遺品となる薬音寺像の史的位置および影響が決して小さくなかったことが初めて理解される。問題は、十世紀代に天台宗がどのような構想に基づいてこの地に薬音寺三如来坐像の造立を促したか、ということに尽きる。 (続く)
  
(写真の撮影および掲載にあたっては、薬音寺総代様および山添村教育委員会の御許可を頂いた。)

大和路のみほとけたち 15  薬音寺薬師如来坐像

2011年11月21日 | みほとけ
    
 山辺郡山添村薬音寺の平安期仏像群のことは以前から聞き知っていたものの、確かな情報が得られなかったこともあって、あまり関心を持たなかった。大和高原地域のほぼ中央に位置して中世街道の要衝に近接する点に着目しつつ、何らかの重要な役割を担った寺と仏像か、と漠然と思うにとどまった。
   
 しかし、柳生から山城小田原、都祁から宇陀への定朝様遺品の分布を念頭におけば、そのほぼ中間点に位置する薬音寺の存在は俄かに無視出来なくなる。大和国における定朝様式の動向を考えるに欠かせない遺品が薬音寺の仏像群に含まれているとしたらどうか。未だに解明されない部分が大きい大和地域定朝様式の輪郭がより明確に捉えられる可能性が浮上してくる。
  
 この仮定のもと、地元関係者各位の御理解と助力を得て薬音寺仏像群に接したのであるが、かすかな期待を込めた予想は完全に外れた。定朝様式の動向を考えるに欠かせない遺品どころか、もっと古い時期の貴重な複数遺品の伝存に驚き感動させられたのである。
   
 この仏像群については、その数20躯に及びながらも調査資料は明治39年の分のみで、戦後の文化財調査が皆無であるため、地元住民も地元教育委員会も詳細を把握しておらず、その意味ではまさに「奈良県最後の隠れ仏たち」であった。
 薬音寺に隣接する九頭神社を戸隠社とも称した史実からは、先ず天台系修験系統の造仏が想定されたが、実際には天台系仏像の初期例に近く、創建以来の一具性をとどめた貴重な遺品群であった。時期的には室生寺金堂の安置仏像に次ぐもので、奈良県下にこのような初期天台彫像の古例が現存すること自体が驚きである。
 本堂内陣の20躯のうち、18躯が薬音寺本来の安置像であるが、その全てを紹介することは別の機会に譲り、ここでは初期の作品と目される数例を挙げて順に報告したい。
   
 今回は薬音寺の寺名の由来ともなっている旧本尊の薬師如来坐像を見てゆこう。信迎上の事情により安置現状を尊重し厳守しての見学および撮影となったため、内陣最奥壇上に坐する姿を他像の間に視認するにとどまり、全体の細部までを捉えるには至らなかったが、それでも造形の特徴や精神は各所に明確であった。一木彫の特徴である塊量性と重量感が感ぜられ、四肢に力をこめたようなぎこちない姿勢には緊迫した感情が充満して余りある。
 それらは造形表現の未熟さではなく、日本の木彫が古代からの変遷のなかで必ず経験した造形の「定型」とみるべきである。胴体は内圧感に溢れ、充実した宗教意識の高揚が全身に漲っているかのようである。これらの迫力が怒らせ気味の両肩と「威相」とも言える森厳な表情によって像の宗教的雰囲気を威圧的に深めてゆくあたりに、作者の意図がさりげなく見え隠れする。山岳密教の主要尊像とはこうあるべきだ、という信念に通ずる意思である。
   
 こうした傾向に加えて、見逃せないのは像の左肩から腕に流れる深く彫り込んだ衣皺の表現である。類似の作例を探せば奈良国立博物館蔵の旧若王子社薬師如来坐像が挙げられ、東大寺法華堂伝来の弥勒仏坐像が続く。いずれも九世紀後半に置かれる遺品であり、ともに個性的な彫技による表情の造りが印象的である。
 これらに対して薬音寺薬師如来坐像の表情は室生寺金堂本尊薬師如来立像(伝釈迦如来立像)に近い感覚を宿す。これらの点によって薬音寺薬師如来坐像の造立時期は遅くとも九世紀末期に推定されてくる。その時期の作品は仏像の豊富な奈良県下でも数少なく、また造形の輪郭や雰囲気が初期天台彫像のそれを濃厚に漂わせるところも見逃せない。こうした遺品は彫刻史の本流に位置せしめて考察されるべきであろう。
  
 大和高原地域の仏像史は大局的には藤原時代を中心に概観されるが、なかにはこうした古像が伝わって前代の様相を断片的に示唆する。九世紀代の彫像遺品として室生寺金堂安置仏像との「近さ」を認識した時、薬音寺の所在地である室津の地名が室生と同じく「ムロ」を冠することにも気付くが、そこまで思いを巡らすのは考え過ぎであろう。
 しかし両者が大和国における初期天台彫像であることは重要であり、東山内を「山中他界」と見なした古代大和の宗教意識が反映されていることを思わずにはいられない。 (続く)
  
(写真の撮影および掲載にあたっては、薬音寺総代様および山添村教育委員会の御許可を頂いた。)

大和路のみほとけたち 14  橘寺如意輪観音菩薩坐像

2011年11月15日 | みほとけ

 橘寺の観音堂に安置される如意輪観音菩薩坐像は、やや古い頭部のみが奈良地域では稀にみる定朝様の正統的な表現を示して注目される。形のよく整った垂髻や丸くまとめられた頭髪、天冠台の紐二条と連珠文と花飾の組み合わせは定朝仏からの発展的な造形をみせて当時の正系仏師の関与を思わせる。

 なかでも注目されるのは表情のつくりで、丸味を基調とする輪郭でかたどった顔面のうえに横軸線をやや下に設定して目鼻を程よい配置におく。鼻梁の線は鋭さを秘めた柔らかい彫技でさりげなくまとめ、それとは対照的に口唇を明確な線で際立たせている。この見事な対比のうえに明るさをたたえた見開きのある眼が独特の視線を放ち、これ以上はない調和を完成させている。本邦の藤原期如意輪観音菩薩坐像を代表する優品と語られる所以である。

 こうした洗練度の高い表現は、平安京の中央仏師のなかでも類例が少なく、その原型に定朝作の平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像が想起されるのは偶然ではない。他に求めれば大蓮寺の薬師如来立像ぐらいしか思い浮かばない。この限られた類似作品によって橘寺如意輪観音菩薩坐像の作者像はおのずと絞られてくる。
 法隆寺蔵「金堂日記」収録の「注文」の記載によれば、橘寺が承暦二年(1078)に所蔵の四十九躯の金銅仏を法隆寺金堂に移安し、かつ承暦年間(1077~1080)に真言宗醍醐寺の末寺に列した。この史実は橘寺如意輪観音菩薩坐像が儀軌に忠実にのっとった本格的密教像としての容姿を表わすことと無関係ではなく、この手の密教様彫刻の表現が大和ではあまり見られない京都仏師系のものであることを考え合わせると、醍醐寺末寺になったことを契機としての如意輪観音菩薩坐像の造立もしくは奉安があったことが容易に想定されてくる。橘寺に観音堂が創設された契機は洛外の著名な観音信仰拠点であった醍醐寺との関わりを抜きにしては考えられないからである。

 これをふまえて像の造立時期を推定するならば、承暦年間(1077~1080)が最初の目安となるが、像頭部の作風はこれに矛盾しない。むしろ定朝仏からの直系的な造形感覚が承暦年間以前の成立を強く示唆してくる。加えて当該時期に定朝は既に亡く、弟子筆頭の長勢が定朝嫡男の覚助を補佐して平安京造仏界の最高基準を維持発展せしめていたことが現存遺品群より察せられる。
 しかし長勢の独特の夢幻的な優美感は橘寺如意輪観音菩薩坐像に全く見い出せず、定朝仏直系の明朗な視線を基本とする緊張感ある表情は、覚助以外に表現し得る人物が見当たらない。定朝仏直系という条件では孫の頼助も候補に挙がってくるが、彼が法橋に叙任されて造仏の第一線に登場するのは早くても康和年中(1099~1104)を遡り得ず、時期的にみても承暦年間(1077~1080)の造仏候補には無理がある。
 さらに頼助は興福寺再興造仏のため奈良に下向するという特殊な事情に置かれていたため、果たして平安京の基準作風にて本格的密教像を造る余裕があったかは疑問である。このような単純な消去法ではあるが、ここでは橘寺如意輪観音菩薩坐像頭部の作者を定朝嫡男の覚助とみておくことにしたい。

 この考えは、私にとっても実に魅力的である。父定朝を超える天才とうたわれ、しかし父とは対立が多く勘当までされるに至りながら、父のみが最もよくその実力を評価していた唯一の後継者が覚助であった。法橋叙任後僅か十年で病に倒れ、自らの造形表現の途上にあるを無念に想いつつ世を去った悲運の人である。若き日の定朝を彷彿とさせる意欲的な造仏への取り組みが、名像の数々を誕生させたことは記録にもうかがえ、円宗院の諸仏のごときは天皇の意にもかなって絶賛を浴びた。その覚助の確実な遺品はいまだに確認されておらず、公には大蓮寺薬師如来立像のみが可能性を指摘されるにとどまる。

 しかし、定朝の遺品が平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像の他にも現存していることが実感的に理解されるのと同じく、覚助の遺品も実見してきた限りでは丹波などに可能性の高い例が散見される。その類例として浮上してくるのが大和地方においては橘寺如意輪観音菩薩坐像頭部に他ならない。その素晴らしい造形表現が同時期の奈良県下遺品には見当たらない事実が、かえって孤高の天才であった覚助の関与を強く語りかけてくる。

 この想定のもとで、私が秘かに悲しみを禁じ得ない史実がひとつある。承暦元年(1077)が覚助の没年なのである。さきに橘寺如意輪観音菩薩坐像頭部の造立時期の目安を承暦年間(1077~1080)と書いたが、彼の最後の遺作となった可能性が考えられるからである。夭折した天才の最後の煌きが、あの頭部に凝縮されてあるのだと想うとき、もし更に生きてあればいかなる名像を具現せしめただろうか、と本当に残念でならない。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、橘寺様の御許可を頂いた。)