ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 14  橘寺如意輪観音菩薩坐像

2011年11月15日 | みほとけ

 橘寺の観音堂に安置される如意輪観音菩薩坐像は、やや古い頭部のみが奈良地域では稀にみる定朝様の正統的な表現を示して注目される。形のよく整った垂髻や丸くまとめられた頭髪、天冠台の紐二条と連珠文と花飾の組み合わせは定朝仏からの発展的な造形をみせて当時の正系仏師の関与を思わせる。

 なかでも注目されるのは表情のつくりで、丸味を基調とする輪郭でかたどった顔面のうえに横軸線をやや下に設定して目鼻を程よい配置におく。鼻梁の線は鋭さを秘めた柔らかい彫技でさりげなくまとめ、それとは対照的に口唇を明確な線で際立たせている。この見事な対比のうえに明るさをたたえた見開きのある眼が独特の視線を放ち、これ以上はない調和を完成させている。本邦の藤原期如意輪観音菩薩坐像を代表する優品と語られる所以である。

 こうした洗練度の高い表現は、平安京の中央仏師のなかでも類例が少なく、その原型に定朝作の平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像が想起されるのは偶然ではない。他に求めれば大蓮寺の薬師如来立像ぐらいしか思い浮かばない。この限られた類似作品によって橘寺如意輪観音菩薩坐像の作者像はおのずと絞られてくる。
 法隆寺蔵「金堂日記」収録の「注文」の記載によれば、橘寺が承暦二年(1078)に所蔵の四十九躯の金銅仏を法隆寺金堂に移安し、かつ承暦年間(1077~1080)に真言宗醍醐寺の末寺に列した。この史実は橘寺如意輪観音菩薩坐像が儀軌に忠実にのっとった本格的密教像としての容姿を表わすことと無関係ではなく、この手の密教様彫刻の表現が大和ではあまり見られない京都仏師系のものであることを考え合わせると、醍醐寺末寺になったことを契機としての如意輪観音菩薩坐像の造立もしくは奉安があったことが容易に想定されてくる。橘寺に観音堂が創設された契機は洛外の著名な観音信仰拠点であった醍醐寺との関わりを抜きにしては考えられないからである。

 これをふまえて像の造立時期を推定するならば、承暦年間(1077~1080)が最初の目安となるが、像頭部の作風はこれに矛盾しない。むしろ定朝仏からの直系的な造形感覚が承暦年間以前の成立を強く示唆してくる。加えて当該時期に定朝は既に亡く、弟子筆頭の長勢が定朝嫡男の覚助を補佐して平安京造仏界の最高基準を維持発展せしめていたことが現存遺品群より察せられる。
 しかし長勢の独特の夢幻的な優美感は橘寺如意輪観音菩薩坐像に全く見い出せず、定朝仏直系の明朗な視線を基本とする緊張感ある表情は、覚助以外に表現し得る人物が見当たらない。定朝仏直系という条件では孫の頼助も候補に挙がってくるが、彼が法橋に叙任されて造仏の第一線に登場するのは早くても康和年中(1099~1104)を遡り得ず、時期的にみても承暦年間(1077~1080)の造仏候補には無理がある。
 さらに頼助は興福寺再興造仏のため奈良に下向するという特殊な事情に置かれていたため、果たして平安京の基準作風にて本格的密教像を造る余裕があったかは疑問である。このような単純な消去法ではあるが、ここでは橘寺如意輪観音菩薩坐像頭部の作者を定朝嫡男の覚助とみておくことにしたい。

 この考えは、私にとっても実に魅力的である。父定朝を超える天才とうたわれ、しかし父とは対立が多く勘当までされるに至りながら、父のみが最もよくその実力を評価していた唯一の後継者が覚助であった。法橋叙任後僅か十年で病に倒れ、自らの造形表現の途上にあるを無念に想いつつ世を去った悲運の人である。若き日の定朝を彷彿とさせる意欲的な造仏への取り組みが、名像の数々を誕生させたことは記録にもうかがえ、円宗院の諸仏のごときは天皇の意にもかなって絶賛を浴びた。その覚助の確実な遺品はいまだに確認されておらず、公には大蓮寺薬師如来立像のみが可能性を指摘されるにとどまる。

 しかし、定朝の遺品が平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像の他にも現存していることが実感的に理解されるのと同じく、覚助の遺品も実見してきた限りでは丹波などに可能性の高い例が散見される。その類例として浮上してくるのが大和地方においては橘寺如意輪観音菩薩坐像頭部に他ならない。その素晴らしい造形表現が同時期の奈良県下遺品には見当たらない事実が、かえって孤高の天才であった覚助の関与を強く語りかけてくる。

 この想定のもとで、私が秘かに悲しみを禁じ得ない史実がひとつある。承暦元年(1077)が覚助の没年なのである。さきに橘寺如意輪観音菩薩坐像頭部の造立時期の目安を承暦年間(1077~1080)と書いたが、彼の最後の遺作となった可能性が考えられるからである。夭折した天才の最後の煌きが、あの頭部に凝縮されてあるのだと想うとき、もし更に生きてあればいかなる名像を具現せしめただろうか、と本当に残念でならない。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、橘寺様の御許可を頂いた。)


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