ココロの仏像

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大和路のみほとけたち 16  薬音寺釈迦如来坐像

2011年11月25日 | みほとけ
   
 薬音寺仏像群の中心的存在とみられる如来形坐像は、前述の薬師如来坐像の他に釈迦如来坐像と阿弥陀如来坐像が挙げられる。ともに同巧同趣の作風を示すが、薬師如来坐像の雰囲気とはやや異なるため、やや遅れて追加されたものらしい。
 釈迦如来坐像は法界定印を結び、阿弥陀如来坐像は来迎印を示して薬師如来坐像の左右に位置する。最終的には天台系特有の三如来形式にて整備されたことが推定される。
   
 釈迦如来坐像は、現状では内陣の西側に位置して阿弥陀如来坐像と並ぶ。ともに分厚い体躯に首がのっかるようなブロック状の体躯、印を結ぶ大ぶりの手、前に張り出す両膝部の造形などが共通するが、表情はそれぞれに独自である。
 そして天台系彫像の個性は釈迦如来坐像に顕著であり、目立つのは大きく高めに表わされた頭部螺髪である。近江地方の初期天台彫像と似たような傾向をみせて最澄自刻の一乗止観院根本薬師仏の面影を想像させる。薬音寺の三如来坐像のうちで最も天台彫像の感覚が濃いものの、全体的に丸みを帯びる造形基調は、薬師如来坐像より後、十世紀前半期の造立であることを示す。その時点で薬音寺における三如来形式が具体化されたとみてよい。
  
 現在までに奈良県下にて確認されている天台系三如来形式遺品は、全て藤原時代以降に置かれる。十一世紀の南明寺像、十二世紀の西福寺像および旧金剛院像、十三世紀の旧眉間寺像を挙げ得るが、十世紀の薬音寺像はしたがって最古クラスの三如来形式遺品となる。これは全国的に見ても類例が少なく、天台系三如来形式の成立と流布の問題に関わる貴重な資料である。
    
 それにもまして興味深いのは、奈良県下の三如来形式遺品の多くが大和高原地域に位置することである。藤原時代までに大和国の国中盆地の寺院は真言宗との関わりを密接に持ったようであるが、これに対抗する天台宗の動向が大和高原地域の造仏を支配的に進めたと想定出来る。
 この流れのうえに藤原摂関家の荘園拡大による荘堂建立の動きが重なり、それらの造仏規模の最たるものが三如来形式であったことは大きな意味を持つ。とくに南明寺像の作風を通じて定朝若年期の表現のかたちが見出せることは重要であり、大和高原地域における定朝様式の波及の起点の一つを三如来造仏に想定することが可能となるからである。
   
 このような考えに立つとき、三如来形式の初期遺品となる薬音寺像の史的位置および影響が決して小さくなかったことが初めて理解される。問題は、十世紀代に天台宗がどのような構想に基づいてこの地に薬音寺三如来坐像の造立を促したか、ということに尽きる。 (続く)
  
(写真の撮影および掲載にあたっては、薬音寺総代様および山添村教育委員会の御許可を頂いた。)


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