ココロの仏像

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大和路のみほとけたち 11  法隆寺大講堂薬師如来坐像

2011年11月02日 | みほとけ

 法隆寺は七世紀飛鳥時代から近世に至るまでの彫刻の宝庫とされるが、大和の藤原彫刻における重要な遺品群を伝えることはあまり知られていない。その実例である大講堂の仏像群は通常の拝観順路に取り込まれて常時礼拝が可能であるので知名度は高いかもしれないが、その史的重要性は見過ごされがちである。しかし大講堂の仏像群がわからなければ、大和地方の平安仏像の本質は永遠に見きわめられないであろう。本邦の仏像彫刻史に前人未踏の多大な功績を残した仏師定朝の作風「定朝様式」の成立に大きな影響を及ぼしたのは何か、という問題への大切な手がかりをこの大講堂の仏像群が示しているからである。

 大和地方の古代からの仏像の系譜を語る言葉として「奈良様」「奈良系」がある。この用語は主に八世紀からの木彫の系統を分類するさいに多く採られ、また一般的には平安初期彫刻からの歴史において大和地方の作品群の代名詞とされる。その延長上に「奈良様式」や「奈良仏師」の用語が鎌倉彫刻史にて使用され、大和の仏像の歴史を象徴する用語となっている。
 しかしながら大和の平安時代の仏像については、作品毎の研究の他にはあまり本格的な追究がなされていないため、奈良の伝統的な作風である「奈良様」がどのように藤原彫刻に関わったかという根本的な問題が依然として解明されていない。その解答の一つは法隆寺の大講堂の仏像群が最もよく示しているように思う。

 この仏像群は寺史や文献からの検討を通して、現在の大講堂が再建された正暦元年(990)を中心とする時期に造立されたと推定され、薬師三尊像および四天王立像の一具性が作風や造形表現からみて首肯される。その中心たる本尊薬師如来坐像に当時の仏像表現の全てが集約され、正暦元年前後の大和の仏像要素を代表する点は見逃せない。正暦年間(990-995)を中心とする時期は、藤原彫刻の胎動期である康尚活躍期に相当し、次の定朝活躍期につながる平安京造仏界の躍進が準備される時期である。その時期に若き定朝が大和に乗り込んで興福寺復興造仏に携わり、彼の古典学習に大和の古代彫刻遺品群が有形無形の影響を与えたことが容易に想定されるが、その直前の時期に位置する薬師如来坐像以下の意義はどのみち小さくはなかった筈である。

 試みに正暦元年前後の彫刻遺品を京畿にみると、多くは比叡山工房を中心とする天台宗系の造仏工房との関与が推定され、実例としては永祚元年(987)の円教寺講堂釈迦三尊像、正暦四年(993)頃の善水寺薬師如来坐像、長保元年(999)の弥勒寺弥勒三尊像などを基準作品として挙げ得るが、いずれも面貌や衣襞の表現に共通性があり、康尚活躍期前半の流行的作風を反映している。これらのフレーム性は京都系なので平安京において制作されたことは間違いない。
 この造仏傾向が大和に波及していたことは現存の同時期作品からもうかがえるが、フレーム性だけは大和地方特有の正三角形に近いものを維持する。その中心的な要の位置にあるのが法隆寺大講堂の本尊薬師如来坐像である。堂の規模と仏像群の内容を考えれば、当時の大和国の造仏能力の全てが結集されたとみてよく、結果として前掲の天台宗系造仏工房作品群とは異なる仏像の形が具体化されているのは興味深い。

 大講堂本尊薬師如来坐像は、当時の作品には珍しいスマートな姿をみせる。天台宗系造仏工房作品群が一様に厚い体躯と独特の面貌表現と観念的な衣襞表現とに代表される重厚な感覚を示すのに対して、程よい抑揚をもつ軽快な体躯と形式主義に陥らない軽快かつ流麗な衣文表現を基調としており、造形上の差異は歴然としている。球体に近い頭部、伏目がちだが明瞭な視線、ゆったりと広い胸部と引き締まった腹部、張りの大きい両膝部、肩の力をやや抜きつつも脇をしっかり締める形など、天平時代以来の理想的な仏像表現の原則が要所に継承されており、「奈良様」とはこういうものかと納得させられる。大和の平安仏像は常に「奈良様」の伝統下に温存され、藤原彫刻世界の胎動期にあたっても揺るがぬ系譜を連続させていたことが理解される。
 この確かな造形感覚を、定朝が学習して京都での造仏に積極的に反映させていった過程のなかで、スマートさを基本とする定朝様式が次第に形成されていった。藤原彫刻の最盛期の遺品はいずれも「奈良様」に学んだ抑揚ある体躯表現のうえに円満具足の相を具体化しており、大和の伝統的な作風が平安京に「逆輸入」されて大きな影響を与えたことがうかがえる。

 このようにみてゆくと、「奈良様」は定朝様式の成立においても大きな意味を持ったものであることがわかる。その前提として、天台宗系造仏工房の作風が流行していた正暦元年前後の時期にも独自の路線を保持していた大和の造形世界の確かな動きが見直されるべきである。従来の史観では「奈良様」が大きな作用を及ぼすのは平安時代末期から鎌倉時代における一連の彫刻群であるとされるが、それは「奈良様」の歴史の一部に過ぎず、すでに藤原時代にひとつのピーク期があって「奈良様」の要素が常に日本の造仏界において意識されていたことが基本として理解されなければならない。
 その意味において、法隆寺大講堂の仏像群は大きな価値を有しており、知名度はともかく、重要性は飛鳥白鳳の有名仏像群に決して劣らない。薬師如来坐像以下の存在をもって初めて、大和国にはいつの時代にも伝統的な「奈良様」が生き続けていたのだと明言出来るからである。 (了)