ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 22  覚恩寺薬師如来坐像 下

2012年05月05日 | みほとけ
    
 覚恩寺薬師如来坐像は、まずその技法が注目される。頭体の根幹部を桧の一材から彫出して前後に割矧ぐ。これに左右の体側部と横木一材の両膝部を矧ぎつけ、内刳を施して割首とする。定朝活躍期を通じて見られる技法であり、寄木造が確立して後にも並行して採用されている。定朝一門の造仏における基本原則としての一木割矧造が、覚恩寺像のような小像にも適用されていることは見逃せない。内刳がやや浅い点は古式を残すのか、それとも実年代が古いかのどちらかになる。

 造形表現を見ると、肉付けの豊かさが目立つ。両頬を丸くとり、体躯も丸味を帯びて全体的に円形を意識した輪郭が意識される。これは定朝活躍期より以前の康尚活躍期によくみられる形式である。首がやや短く、胴部が伸びて膝部が薄いのも康尚活躍期からの作風の現れである。
 この体躯のうえに今度は自在に整えた浅い衣襞を少なめに配って、なるべく肉身の起伏を心がける。この表現は定朝活躍期から次第に発展して完成に至るもので、膝部分を無文とする手法も定朝の発案と推定される。この姿とよく似た仏像が各地に散見されるが、その幾つかに定朝作伝承が付されるのは決して偶然ではない。肉髻の頂きを平たくならし、左肩から左肘にかけての衣襞を最低限に抑えて丸味を強調するあたりも定朝の工夫と思われるが、それが標準化されて造仏の手本となったことによって定朝一門仏師の作風のなかに定着してゆく。この定着への段階で覚恩寺薬師如来坐像が成立したものと考えられる。

 表情は独特のもので、眼は開きが少なく長く伸び、鼻と口は顔面の中央に寄せられる感じで小さくまとまる。康尚活躍期の目鼻を中央に集める形とは別種のもので、青年風の引き締まった感覚をにじませるあたりはやはり定朝工房ならばでの特色である。「佛師定鳥ノ作」の伝承は「定朝工房の作」であることを伝えるものとみていい。定朝その人の関与の可能性は大いにあり得るのである。
 全体として定朝活躍期の前半に位置づけられる造形基調であるが、平安京の内外においてもこれだけの優れた作域を示す作品は少ない。かつての薬師寺がかなりの規模と重要性を中央に認識されていたことを物語るのであろうか。

 ここで気になるのが、在地武士牧氏の菩提寺に関する口碑である。要約すれば、龍門郷の鎮めとして治安の頃に南朝が覚恩寺を再興し牧氏が菩提寺と定めた、という内容である。しかし南朝の再興であるという確証はなく、治安の年号は南北朝時代には存在しないので、従来はこの口碑は誤伝の類として片付けられていたようである。現存する十三重石塔を南朝長慶天皇の墓塔と言い伝えるのも同様の俗伝とされているが、覚恩寺が龍門郷の鎮めとして成立したのは間違いなく史実であろう。
 龍門郷の中核寺院はいま遺跡のみを残す龍門寺であるが、その寺域の鬼門に覚恩寺が位置して厄除けの効験も有する薬師仏を配置するのは単なる偶然ではない。龍門郷の仏教空間世界を設定する要の寺のひとつが薬師寺と呼ばれた覚恩寺であり、その創建事情はおそらく龍門寺の隆盛を背景としたものと推測される。

 この考えに立てば、口碑に伝える治安の年号をただの誤伝と片付けるわけにはいかない。治安年間といえば定朝活躍期の前半に含まれ、しかも治安三年(1023)には禅閣藤原道長が高野山参詣の途次に龍門郷を訪れて龍門寺に参拝した史実が知られる。そののち龍門郷が摂関家の寄進荘園に含まれて龍門寺への寄進もなされたようであるが、こうした動向のなかで覚恩寺が成立して鬼門除けの薬師仏を安置した可能性が浮上する。洗練度の高い優れた作域を示す薬師如来坐像の造立の契機は、道長の龍門寺参拝と絡めて仮定しておくのも良いであろう。

 ともあれ、覚恩寺薬師如来坐像は、定朝工房の正統的な作品の系譜上に位置して造立時期の目安を治安年間以降におくことが可能である。従来は十一世紀後半から十二世紀初め頃の造立とみなされてきたが、ここでは上述の考察によって半世紀ほど遡らせた十一世紀前半期治安年間以降の造立を提唱しておきたい。
 この仮定は、私にとっては感慨深いものとなる。治安二年(1022)七月に定朝は日本の仏師として初の僧綱位である法橋に任ぜられ、日本仏像彫刻史の頂点に達して未踏の境地に踏み出し始めた。その前後の定朝工房の充実した造仏精神が遺憾なく作品に反映されたとすれば、覚恩寺薬師如来坐像が奈良県下でも稀な正統的優品であることも容易に頷ける。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、覚恩寺総代奥谷様の御許可を頂いた。)