ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 21  覚恩寺薬師如来坐像 上

2012年04月29日 | みほとけ
     
 藤原彫刻の多くは孤独だと言われる。現存する多くの遺品が銘文はおろか史料にも恵まれず、その歴史的背景も詳らかにならず、いまこれらを保有する寺院の大半が明確な由緒を欠いていることによる。
 そのために、歴史的な情報をかき集めて仏像の造立当初の様子を知るという作業は困難をともない、ときには不可能となる。作者像をある程度推量し得ても仮説に終始して前へ進めなくなる。藤原時代の仏像の大半がそのケースに該当するので、最も重要な十一世紀代つまり定朝活躍期の作品と推定出来たとしても確実な裏づけが取れずに推定のままで終わってしまう。

 奈良県下の藤原彫刻遺品には、その傾向がとくに強い。造形や作風から定朝工房系の関与が直感的に得られたとしても、同時期史料を欠いているので確認のしようがなく、直感的イコール思い込みと受け止められて遺品の基本資料化すらおぼつかなくなる。この膠着的状態から早急に抜け出すことが、大和地方の平安彫刻史全体への視野を広げるための唯一の選択肢と言えよう。

 宇陀市大宇陀区牧の覚恩寺に伝存する薬師如来坐像は、同時期史料や由緒を失っているものの、地元に伝わる戦前の郷土資料類によってある程度その歴史的状況が判明する。同時に、その類稀なる造形表現の特徴から造立年代や作者像に一応の目安がつけられる。孤独な作品の多い大和地方藤原彫刻世界にかすかな光明をもたらす一例となり得るであろうか。

 薬師如来坐像は、いま国重文に指定されて収蔵庫におさめられるが、その地は覚恩寺本堂の旧位置であったと聞く。その覚恩寺は、旧称を「北ノ坊」とするので本来は寺院の塔頭であったと推定され、本寺の衰滅後に寺籍を継承する形で存続したことが推測される。
 一方、本寺のほうは中世から近世にかけて奥殿寺とも呼ばれたというが、中世期の史料である「運川寺大般若経奥書」ではこの寺を在地武士牧氏の城館と関連づけて記す形がみられる。「牧城之庵」や「牧之奥殿」の語句から城館付属施設としての性格を読み取ろうとする向きが城郭研究者の間に顕著である。たしかに覚恩寺旧境内地は現存する戦国期城郭の「牧城跡」の搦手口に相当して南には居館推定地が隣接するが、牧氏の菩提寺とされていた史実を顧みれば、城館と寺院の一体化は当然の帰結であって、あえて問題とするには至らない。

 注目すべきは覚恩寺の別名が「薬師寺覚運寺北ノ坊」とあることで、奥殿寺と同一の場所に存在したと明記されているから、本来は薬師寺が本寺の正式名称であって、薬師如来坐像が現在に至るまで本尊の位置に置かれる状況とも符合する。薬師寺なる寺の存在が知られることによって、現存の薬師如来坐像が他からの移転である可能性は低くなるので、ここでは当初より現地に薬師如来坐像が在ったと見なしておきたい。

 さらに作者に関して「佛師定鳥ノ作」と記され、佛師定鳥が定朝を指すことは間違いないが、薬師如来坐像の年代観が十一世紀であるのと矛盾しないことが重要である。奈良県下において定朝作伝承のある仏像は数えるほどしかなく、覚恩寺薬師如来坐像がその稀な一例として造立時期とも見合う点はとにかく魅力的である。
 したがって、問題は、この像が記録伝承通りの「佛師定鳥ノ作」であるかどうか、ということでなければならない。 (続く)

(写真の撮影および掲載にあたっては、覚恩寺総代奥谷様の御許可を頂いた。)

天平会 第775回例会

2012年04月16日 | てんぴょう

 2012年4月15日、天平会の例会に参加した。今回は飛鳥の寺を回るコースであったが、午後からの半日で四ヶ所というのはちょっとハードではないか、と感じた。集合地が近鉄桜井駅南口、というのも意外であった。飛鳥へは近鉄橿原神宮前駅からバスで入るのが一般的であるが、今回は岡寺から始めるために西からのバスルートを選択したということだろうか。ローカル路線の小型バスは、天平会の30人近くの乗車で超満員になった。
    

 治田神社のバス停で降り、桜並木の下を岡寺参道へ向かった。個人的には付近の城砦遺構の方に関心があったので、治田神社内外の郭跡や堀切跡などを撮影して回った。はたから見たら、参道や神社境内地の景色を撮っているように見えただろう。雑木林の中をのぞきこむと、郭の切岸などがはっきりと認められた。
   

 岡寺の山門は、飛鳥地域に現存する唯一の重層建築として貴重だが、その位置が城郭の大手門に準じていることは意外に知られていない。戦国期には多武峰妙楽寺城砦群の西端を占めて境内にも城郭化が図られたが、その名残は山門をくぐって石垣に面して右へ石段を登るという形にみられる。山門のある一角は、城郭用語でいう桝形の状態に造られている。
   

 門前にて講師の杉崎貴英さんの解説を拝聴した。境内や堂内では自由見学の形をとるため、レジュメを片手に予習をしておく。レジュメは前もって参加者にメール配信されるが、見学会当日にもプリントアウトしたものが配布される。写真もカラーであるので見やすく分かり易い。
   

 本堂にて本尊の如意輪観音菩薩坐像を拝し、内陣周囲に展示される仏像や什宝を見学した。平安期の兜跋毘沙門天の珍しい服制や本尊像の破損状態などが注目された。
 戦国期の永禄年間の多武峰合戦においては岡寺境内地も戦禍に包まれ、多武峰の各城砦に籠もる大和国衆勢めがけて松永弾正久秀率いる大軍が攻め寄せた。本堂背後の尾根上にある砦に向けて数百挺の鉄砲がつるべ撃ちに放たれ、夜は大和国衆勢の十市氏らが襲撃を行い、本尊の眼前で血なまぐさい白兵戦が繰り広げられたという。そのために本尊が破損したらしく、伝承では「御霊像ニ仔細有、衆庶絶句シ叩頭ス」とあり、いま見られる本尊像の体部全面の補修はその後に実施された可能性が考えられる。
    

 次の見学地は橘寺であった。私は学生時代に橘寺の塔跡の発掘調査現場に行ったことがあり、散乱する瓦の多くが火中の痕跡を生々しくとどめているのに衝撃を受けた記憶がある。塔が炎上しながら北東方向に崩れるようにして倒壊した状況が生々しく想像され、明応六年(1497)に橘寺の伽藍を全滅せしめた多武峰衆徒の非道さが思われた。
 多武峰の衆徒は近隣の諸郷で焼討や略奪を重ねており、当時の橘寺住持は日記に「言語道断ノ輩」と記した。多武峰妙楽寺が被災した際には根本神像および本尊像を橘寺に移安して保護したことが度々であったのに、その多武峰の衆徒が橘寺に感謝するどころか、火矢を放ちつつ攻めてくるとは何事か、と怒りをぶつけている。僧侶の日記に激しい文句が綴られるケースは稀である。
   

 橘寺では、まず宝物館の「聖倉殿」にて伝日羅立像および地蔵菩薩立像を拝観した。それに先立ち、境内の南側護摩壇横で杉崎さんの解説を聞いた。気温がもっとも高い時間帯であったため、桜の木の下で汗を拭いたり水を飲んだりしている方もおられた。しかし一様に解説に耳をじっと傾けておられたのは、さすがに伝統ある天平会ならばである。
     

 今回の見学会のハイライトは、橘寺観音堂(上写真)の如意輪観音菩薩坐像であったらしい。この日、杉崎さんが解説にて絶賛を重ねておられたからである。聞けば私の記事が契機となって、今回の見学対象の要に据えられたものらしい。松村照平会長さんも「ピカイチの素晴らしいお顔」と褒めちぎっておられたが、そういう顔を造れたのは定朝直系の仏師に限られる。平安京の造形基調に則る点を重視すれば、まず大和での造立は有り得ない。大和での定朝様式の展開については、拙ブログにて様々に指摘しているのでここでは省略するが、橘寺観音堂如意輪観音菩薩像を凌駕する作域を示す像が大和に存在するならば、その作者は定朝その人である可能性が高い。
   

 橘寺周辺には、いまなお昔ながらの春景色が息づく。飛鳥の春といえば八釣の桃、小原の梅、真神原の蓮華、橘の菜ノ花、と並べられたものだが、現在は橘の菜ノ花しか見られないという。私が学生時代に飛鳥を回った頃は、各所に蓮華が咲き広がっていたものだが、その光景もいまは思い出の中にしか見られない。
    

 菜ノ花畑の向こうには多武峰の山並みが望まれた。御神体と崇められた談山はもちろん、その南に天険を誇った冬野城の山塊もかすかに見える。山並みそのものが、中世戦国期を通じて一大軍事勢力を呈した多武峰妙楽寺護国院の結界であった。鎌倉期から幾多の合戦が展開され、史料にも戦闘記事が頻発する。おなじ藤原氏の氏寺でありながら、大和国司興福寺とは対立につぐ対立を重ねて常に不穏なる存在であったが、その陰翳を帯びた歴史はいまの景色には微塵も感じられない。


 続いて川原寺に参拝した。当初の予定では入っていなかったのであるが、私が松村会長さんに「川原寺の二天立像は重要資料であるので拝観を検討してほしい」と直訴して実現に至ったものである。なにしろ飛鳥はもちろん、奈良県においても類例の少ない平安前期の神将形遺品である。これを見ずに飛鳥を回れるか、と断言出来るだけの作域と価値をもつが、9世紀末、という従来の比定には疑問がなくもない。顔面の肉感が平滑に近づくので、10世紀までの幅を見ておいた方が適当なように思われる。
   

 寺では御住職自ら解説をして下さった。剽軽な性格と破天荒な語り口とが話題を呼ぶ明日香村きっての名物僧侶さんで、私は大学時代のサークルでの見学会でその独特の個性に圧倒されたことがある。20年以上経ったいま、ユニークな振る舞いは短かな所作にまとめられ、張りのある声はしわがれて「わびさび」の境地に達しているかに見えたが、杏仁様の威圧的な視線はさらに磨きがかかっているようであった。この方が、あの高松塚古墳発掘直後の連続怪奇事件の解決に関与された方とは、いまだに思えない。
 

 川原寺を後にして、飛鳥川沿いの桜並木の下を飛鳥寺まで移動した。明日香の桜は、盛りを過ぎて若葉もみられたが、陽春を満喫するには充分過ぎるほどであった。先導のようにして一行の先頭をゆく松村会長さんも、満足気な表情で付近の風情を楽しんでおられた。
 このあと飛鳥の石造物のひとつ「弥勒石」を見たが、その際に杉崎さんと「鹿深臣請来の弥勒石像がこれだったりして」と冗談を楽しんだりした。実際には斉明天皇の石造施設群に関連する付属石像の一つであるらしい。
    

 ひたすら歩いて飛鳥寺に着いた。昔は浮き浮きした気分で楽しく歩いた五輪塔横のあぜ道も、味気ないコンクリート舗装の遊歩道に転じて飛鳥寺西門跡の復原基壇に繋がる。そこから東には飛鳥寺の法灯を受け継ぐ安居院の堂宇が望まれるが、真新しい門塀が加わって、かつての開放的な境内地の風情が消えた。それ以上に残念なのは、境内地の周囲を取り巻くように咲き広がった蓮華の赤紫色の絨毯が無くなってしまったことである。その独特の芳香に包まれながら飛鳥大仏を拝めば、一種の法悦に似た感動的な一瞬が味わえたことを思い出す。
    

 ラストの飛鳥寺では当然ながら飛鳥大仏こと釈迦如来坐像の拝観が定番である。その前に寺の西門跡にて杉崎さんの解説を拝聴した。古代、飛鳥寺の西には槻の広場があり、公共の場として僧侶による演説や講話も行なわれた。その伝統にのっとって槻の広場の一角での解説を杉崎さんも意識されたのかどうかは分からないが、なにか静かな興奮を秘めたような解説ぶりであった。最近に発表された飛鳥大仏に関する新論考に感銘を受けておられたためだろう。私もその論考に接して、飛鳥時代彫刻史の新たな地平を垣間見る思いにかられたからである。

 見学会終了後はバスで近鉄橿原神宮駅まで戻り、近くの居酒屋で大部分の方々と懇親会に移った。大勢が一枚の大机を囲んだ横で、松村会長さん、杉崎さん、下坂さんと私の四人が机を囲んでワインを重ねつつ語り騒いだ内容については、ここでは触れないでおく。 (了)