置恩寺の十一面観音菩薩立像がいつ頃から「弥須の作」と見なされたかは明らかではないが、藤原時代以降であることは間違いない。史料上にて毘首羯磨を毘須と略記し、更に弥須の当て字を使っているからである。
毘首羯磨すなわちビシュヴァ・カルマンのことは、日本では「妙匠」と意訳されて最高の仏師の代名詞でもあったが、これに相当する功績と実力を朝野に認められて絶賛されたのは定朝だけである。時の天皇大いに感興遊ばされ「弥須の後身」と称えて一層の活躍を期待する勅を下したことにより、日本においては定朝のみが毘首羯磨の再来とうたわれて歴史に名を刻んだ。このことはあまり知られていないが、藤原彫刻の理解につながる逸話であるので無視出来ない。
日本に毘首羯磨または弥須の作と伝わる仏像は数多いが、その伝承のありかたは二通り挙げられる。ひとつは異国的要素を有する仏像に対してのもの、もうひとつは古代の優れて美しい仏像に対してのものである。興味深いことに置恩寺十一面観音菩薩立像の伝承は双方に属するようで、インド的要素や中国的要素を伝えた異国風の外見と、優れた古代の仏像であることの両方を称えて形成されたと考えられる。この手の伝承は藤原時代以降でなければ成立し得ないが、像の実年代が遅くても十世紀末期に推定されることと矛盾しない点が重要である。端的に言うならば、置恩寺十一面観音菩薩立像は藤原彫刻に限りなく近い。
改めて上掲の写真にて像を見てゆこう。インド的要素を幾つか伝えるものの、頭部や体躯全体の輪郭はやわらかな曲線に支配され、とくに頭部の形は日本風の感覚を備えつつある。さきに眼だけが和様への歩み寄りをみせると述べたが、その前提に頭部の輪郭が介在する。裳の衣文の彫りは深くなく、意図的な「薄さ」を目指した浅めのスタンスに統一される。この統一感こそが藤原彫刻の特徴である「優美感」「整斉感」の下敷きとなって定朝様式の誕生を促したのである。三屈法およびインド的な鼻と口唇を示しつつも、彫り方という彫像の最も基本的な要素において和風に向かっているのを見過ごしてはならない。
続いて、三屈法の動きを脱してまっすぐな上半身、正面観より量感を減じた側面観、表情にただようのびやかな気分、のそれぞれに藤原時代への新たな感覚が織り込まれつつある。そのために一部では像の制作時期を十一世紀に置く説も見られるが、そこまで下げられるほどに置恩寺像の造形感覚は完成しておらず、むしろ和様への目覚めのなかで次なる造形表現への模索が試みられた時期の初発的感覚であるように思う。
その時期からの様々な造仏のなかで、次第に成長してきたのが康尚、定朝らの系統であった。そしてこの系統に「弥須の後身」の称号が与えられたことが、置恩寺像のような前段階時期の仏像への評価に影響を与えた可能性がある。「弥須の作」伝承はこのような状況のなかで置恩寺像の再評価の結果として成立したのではないだろうか。もちろんこれは仮説であって仮説に終わるかもしれないが、ただ置恩寺像のような異国的かつ優美な彫像を、ずっと後世になってから便宜的に適当に「弥須の作」としたとは考えにくい。
ともあれ、色々な意味で難しい仏像である。こうした作品こそが彫刻史研究のテーマとしては面白さに満ちて学問上の冒険心をかきたててくれるが、残念ながら私にはそこまで深く追究するだけの力が無い。「藤原時代に向かって歩いているような仏像」というのが正直な感想であったことを明記しておく。 (了)
(写真の撮影および掲載にあたっては、置恩寺総代辻様の御許可を頂いた。)