ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 10  置恩寺十一面観音菩薩立像 下

2011年10月29日 | みほとけ

 置恩寺の十一面観音菩薩立像がいつ頃から「弥須の作」と見なされたかは明らかではないが、藤原時代以降であることは間違いない。史料上にて毘首羯磨を毘須と略記し、更に弥須の当て字を使っているからである。

 毘首羯磨すなわちビシュヴァ・カルマンのことは、日本では「妙匠」と意訳されて最高の仏師の代名詞でもあったが、これに相当する功績と実力を朝野に認められて絶賛されたのは定朝だけである。時の天皇大いに感興遊ばされ「弥須の後身」と称えて一層の活躍を期待する勅を下したことにより、日本においては定朝のみが毘首羯磨の再来とうたわれて歴史に名を刻んだ。このことはあまり知られていないが、藤原彫刻の理解につながる逸話であるので無視出来ない。

 日本に毘首羯磨または弥須の作と伝わる仏像は数多いが、その伝承のありかたは二通り挙げられる。ひとつは異国的要素を有する仏像に対してのもの、もうひとつは古代の優れて美しい仏像に対してのものである。興味深いことに置恩寺十一面観音菩薩立像の伝承は双方に属するようで、インド的要素や中国的要素を伝えた異国風の外見と、優れた古代の仏像であることの両方を称えて形成されたと考えられる。この手の伝承は藤原時代以降でなければ成立し得ないが、像の実年代が遅くても十世紀末期に推定されることと矛盾しない点が重要である。端的に言うならば、置恩寺十一面観音菩薩立像は藤原彫刻に限りなく近い。

 改めて上掲の写真にて像を見てゆこう。インド的要素を幾つか伝えるものの、頭部や体躯全体の輪郭はやわらかな曲線に支配され、とくに頭部の形は日本風の感覚を備えつつある。さきに眼だけが和様への歩み寄りをみせると述べたが、その前提に頭部の輪郭が介在する。裳の衣文の彫りは深くなく、意図的な「薄さ」を目指した浅めのスタンスに統一される。この統一感こそが藤原彫刻の特徴である「優美感」「整斉感」の下敷きとなって定朝様式の誕生を促したのである。三屈法およびインド的な鼻と口唇を示しつつも、彫り方という彫像の最も基本的な要素において和風に向かっているのを見過ごしてはならない。
 続いて、三屈法の動きを脱してまっすぐな上半身、正面観より量感を減じた側面観、表情にただようのびやかな気分、のそれぞれに藤原時代への新たな感覚が織り込まれつつある。そのために一部では像の制作時期を十一世紀に置く説も見られるが、そこまで下げられるほどに置恩寺像の造形感覚は完成しておらず、むしろ和様への目覚めのなかで次なる造形表現への模索が試みられた時期の初発的感覚であるように思う。

 その時期からの様々な造仏のなかで、次第に成長してきたのが康尚、定朝らの系統であった。そしてこの系統に「弥須の後身」の称号が与えられたことが、置恩寺像のような前段階時期の仏像への評価に影響を与えた可能性がある。「弥須の作」伝承はこのような状況のなかで置恩寺像の再評価の結果として成立したのではないだろうか。もちろんこれは仮説であって仮説に終わるかもしれないが、ただ置恩寺像のような異国的かつ優美な彫像を、ずっと後世になってから便宜的に適当に「弥須の作」としたとは考えにくい。

 ともあれ、色々な意味で難しい仏像である。こうした作品こそが彫刻史研究のテーマとしては面白さに満ちて学問上の冒険心をかきたててくれるが、残念ながら私にはそこまで深く追究するだけの力が無い。「藤原時代に向かって歩いているような仏像」というのが正直な感想であったことを明記しておく。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、置恩寺総代辻様の御許可を頂いた。)

大和路のみほとけたち 9  置恩寺十一面観音菩薩立像 上

2011年10月25日 | みほとけ

 置恩寺の十一面観音菩薩立像は、南大和における出色の彫像として名高い。従来の解説では九世紀末から十世紀初めにかけての作とされるが、その時期の作品には珍しい要素と豊かな情感を併せ持つ。材は桜といわれ、頭体のみならず左右上肘や天衣遊離部までを一材より彫出するあたり、大型檀像の系譜上に置いて考えてみたいような像ではあるが、それ以上に像の異国的要素が注目される。

 私が初めてこの像を拝観したのは昭和62年の秋、当時の置恩寺には掛け持ちの住持がおられて世話になった。像を拝しつつ伺った話が面白かったが、とくに「弥須の作」とする伝承が重要であった。住持は「やす」と読んでおられたが正しくは「みす」である。
 弥須とは毘首羯磨、インド名ビシュヴァ・カルマンを指し、古代インド宗教における「全能なる造物主」を意味する。もちろん神格であって実在の人名ではないが、原始仏教においては造仏匠の代名詞とされ、日本でも伝説の仏師として崇められた存在である。

 置恩寺像がそのような「弥須」の作と言い伝えられたのは単なる偶然ではない。弥須つまり毘首羯磨の作と伝わる仏像の幾つかは、外観にも造形にも内実にも異国的情緒を豊かに備えており、奈良県下では霊山寺十一面観音菩薩立像を代表例として挙げ得る。彼の像の由緒に渡来僧菩提遷那との関連が語られるのは重要であるが、置恩寺像の場合は古代置始氏が渡来系氏族である点が注目されなけれはならない。置恩寺像は背景からみて異国的要素が盛り込まれるべき環境にあったと言え、その真の作者は知られないものの、布施郷の人々が「弥須の作」と信じてきたのはある意味正解であったと言って良い。造物主ビシュヴァ・カルマンの名に象徴される古代インド造形世界からの系譜が置恩寺像には明らかに認められるからである。

 現在は文化財修理による整備後の、錆漆状の黒っぽい外見となって江戸期までの補彩は落とされているが、修理前の古写真をみると眼が異様にみえる。瞳を上に向ける三白眼であり、これが当初からのものであれば明らかにインド仏教絵画特有の表現要素である。日本でも八世紀の作品にたまに見られ、唐様式摂取の過程で取り込まれたことがうかがえる。仮に後世の補彩であったとしても、こういう異国的な眼を日本人の感覚でずっと維持し得るものであろうか。

 置恩寺像の三白眼のことは疑問が残るが、上掲の写真に示した腰の捻りと左の遊脚による胸下からの動勢は紛れもなくインドのトリヴァンガ(三屈法)の要素である。インドの造形美術とくに仏伝図などの浮彫作品では、悟者と俗者の姿を明確に区別し、前者を正面形にあらわし後者を斜めからの姿に表現するが、斜めの姿における動勢は基本的に実際の動きより強調する傾向がある。菩薩タイプの像は俗者であるので斜めか横向きが多く、その動きを表わす手法として頭や腰や足を大きく曲げたり捻ったりすることが多い。これがひとつのモチーフとして発展し定着し、インド的要素のひとつとしてシルクロードを東上した。中国でも日本でもこれを取り入れ、日本ではとくに天平時代に三屈法の表現が好んで試みられたようである。三屈法は原則として独尊像に応用されて動きを豊かに表わす手法として用いられるので、三尊形式の脇侍像のしなやかな姿勢とは似ているが、同趣のものではない。

 さらに置恩寺像の相貌にもインド的要素が受け継がれている。前日の記事の写真に示されるように眉から鼻にかけての線が強く、眉の上端中央が太くつくられる。これはインドだけではない異国的要素であるが、細い鼻梁と小さく突き出し気味の口唇はインド絵画表現からの延長上にある。絵画作品では法隆寺金堂壁画の菩薩像のそれに近く、インド的要素が日本において彫刻と絵画にどのように表わされたかが理解出来る。

 ところが興味深いことに、眼だけがインド的要素も天平的要素も通り越して、和様への歩み寄りをみせ、まっすぐなラインで明確な「視線」を構成する。これに三白眼が描かれたのならば、独特の雰囲気を強く放ったに違いない。インド的要素が日本において自在に解釈され応用されたことのひとつの成果が実感されたことと思われるが、黒っぽい現状では残念ながらその様相を確認出来ない。

 なお置恩寺像にはインド的要素のみならず中国的要素も見られる。七世紀からの彫像は中国および朝鮮の造形の延長上にあるので当然だが、置恩寺像ほどの長身は稀である。中国では古代の俑などに見られるように、神聖なる存在を長身に表わして実際の人間との差を表わすことがあり、仏像にもそれが応用されている。唐以前の各王朝の仏像は基本的に長身である。これを飛鳥彫刻も引き継いだが、百済観音像の長身をピークとして天平彫刻にも長身または八頭身ぐらいの像が多くつくられたことは注目してよい。その長身性を置恩寺像ではより強調しているが、その思想的背景はいかなるものであっただろうか。
 また、上半身をやや後ろに引く姿勢も、古代中国の伝統的な祭儀時のフォーマルなそれの影響である。飛鳥彫刻ほど大きく後ろに引いてはいないが、造形の基本方針がそこにあったことは、置恩寺像の制作環境や制作者たちの意識が天平彫刻からの流れを受け継いでいたことを物語る。

 置恩寺像は天平彫刻そのものではないが、これまで述べてきたように、天平彫刻からの流れをインド的要素や中国的要素の形でとどめている。それらを簡潔にまとめて、越智との電話にて「天平時代の思い出を背負っている」と例えた次第である。 (続く)

大和路のみほとけたち 8  長谷本寺薬師如来坐像

2011年10月21日 | みほとけ

 仏像彫刻の造形を理解する際、像容にみられるフレーム性を読み取ることも一つの重要な方法である。仏像造立において、作者がその基本イメージの前提として想定する「形」があり、坐像であれば三角形となる。この三角形のフレームには時期によって変化があるが、藤原彫刻においては平安京康尚・定朝工房の作品群に共通して見られる美しい二等辺三角形のフレームが一種の基準として理解される。その傑作が宇治平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像であり、やや高めの二等辺三角形のフレームの中に像の姿がおさまって快い緊張感と安定感とを併せもつ。

 一方、大和地方の藤原彫刻遺品の数々を見ると、同じ康尚・定朝工房系の作品群とみられる一連の遺品にさえ、平安京の作品群とは微妙に異なった二等辺三角形のフレームが感じ取れる。それは底辺が長く正三角形に近い二等辺三角形である。なかには正三角形におさまるフレームすら見られる。これらを大和の特色のひとつと捉えても間違いではない。このフレーム性は、大和の古代彫刻つまり飛鳥白鳳天平の遺品群に普遍的にみられるからである。
 大和には大和の伝統があり、大和の造形の系譜にも確かな「骨格」がある。飛鳥時代より造仏構想のうえに連綿として受け継がれたフレーム性は、定朝様式への完全な踏襲と模倣とが徹底された藤原時代にも決して揺らぐことがなかった。若き日の定朝は、興福寺復興造仏を通じてこのフレーム性の重要さに気付いたもののようで、定朝の若年期に推定される仏像作品群の中に意図的に大和のフレーム性を試したような遺品が散見される。しかしながら定朝は結果的に大和のフレームよりもやや高めの二等辺三角形フレームを理想的表現の構成要素として位置づけたことが藤原彫刻の完成期の作品群を通して理解される。その二等辺三角形フレームは京都的とも言えよう。

 長谷本寺にて薬師如来と伝える如来形の坐像は、そのフレームが正三角形に近い。明らかに大和の藤原彫刻作品の系譜上にあることが知られるが、このフレーム内に頭部だけが収まらずに飛び出しており、造形的にも中世のものと分かるから後補であるのは間違いない。像は過去に矧目が完全にずれたり外れたりしたほどの損壊状態を経験したらしく、とくに首周りに破損補修や埋木の痕跡が顕著である。たぶん頭部に衝撃を受ける形の破損を経たようで、このとき元の頭部は完全に失われたのであろう。
 しかし胴体と両脚部とが造立当初の状態を保っているのは有難いことである。定印を結ぶ両手首も後補となるが、体部残存箇所の形状から当初も同じ印であった可能性を否定出来ない。境内地の西側に建つ東向きの堂に安置されるのが昔からの状態を継承しているのであれば、本来は定印阿弥陀如来の坐像であったかもしれない。尊名の問題はこの程度にとどめ、残存部からうかがえる情報に着目しながら長谷本寺像の特徴を捉え直してみたい。

 ひとつは、両脚部にみられる古風な衣文表現で、10世紀を中心にみられるものである。しかし彫りは非常に浅く、単なる条線の配置に過ぎないぐらいの形式化に陥っているので、実年代が10世紀でないことは確かである。
 二つ目は両足首をエプロン状に覆って前面に垂れる大衣端の形であり、これは11世紀頃から施無畏、与願印形の如来坐像遺品を中心にしてみられはじめる。天平および平安初期彫刻に見られる足首部分の衣襞表現を参考にして藤原時代に考案された形であろうと考えられるが、その初発的表現の全てが定朝工房系の遺品に集中しているのは興味深い。このエプロン状意匠の考案者は定朝である可能性が高い。したがって年代的には11世紀前半期以降に絞られる。
 三つ目は内刳の大きさである。掲載写真のように両脚部のほぼ中央に干割れとみられる大きなひびが生じているが、この部分に懐中電灯の光をあててみると肉厚が最低限であり、内刳が最大限に施されている状態が看取出来る。像本体の軽量化には成功しているものの、構造的には脆く、後世の大破とも無関係ではない。さらに肉厚の薄さは衣文表現における浅い彫りとも関連し、あまり深く彫ると内刳に突き抜けて穴が空いてしまう。内刳は時代を経るにつれて大きくなる傾向があり、そのピークは12世紀の院政期にあたる。

 以上の情報から、像の造立年代は11世紀末期から12世紀までの時期と推定される。しかし前述の10世紀頃の古風な衣文表現を考えると、本尊十一面観音菩薩立像と同じく復古像の可能性がある。この想定において、正三角形に近いフレーム性が改めて重視されてくるが、原像の存在を考えるならばフレーム性からみて純然たる大和の古代仏像彫刻であったことが容易に想像される。
 これらの推定を裏付けるには寺史への再検討が必要となるが、長谷本寺の詳細な記録及び史料類は散逸して断片的な伝承のみを繋ぎ合わせた寺伝のみが語られる。薬師堂の本尊であったというが、当初からの安置状況を伝えているかは確証が無い。そのゆえに孤独となった伝薬師如来坐像であるが、大和の伝統的なフレーム性を通して像の史的重要性が再確認出来るのは不幸中の幸いである。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、長谷本寺様の御許可を頂いた。)

大和路のみほとけたち 7  富貴寺地蔵菩薩立像

2011年10月17日 | みほとけ

 奈良県下には数多くの地蔵菩薩彫像が伝わるが、時代別に分類すれば平安初期や鎌倉時代以降の遺品が多数を占める。藤原時代の遺品は少なく、平安京定朝工房の作とみられる例は管見の限りではニ躯しか見当たらない。一躯は桜本坊の地蔵菩薩坐像、もう一躯は富貴寺の地蔵菩薩立像である。

 木造、像高は96.0センチ。彫眼、漆箔とする。いま本堂内陣の東側に安置されて本尊釈迦如来坐像の脇侍同然となっているが、本来は別堂の主尊として造られた筈である。制作時期も釈迦如来坐像より少し前とみられるが、定朝一門仏師の作であることは間違いない。報告書類では声聞形立像と述べられるが、印相は紛れもない地蔵菩薩のそれである。
 右腕を垂下し掌を前にして五指を伸ばし、与願の意を示す。左腕は屈臂して掌上に宝珠を捧げる。智泉大徳様の形式であり、現存最古の地蔵彫像である京都広隆寺講堂像以来の古制を踏襲する。地蔵といえば右手に錫杖を執る姿がよく知られるが、それは12世紀以降に流行し定着してゆく形式である。

 富貴寺の地蔵菩薩立像は、奈良地方の伝統的な古制にのっとって造られたとみられ、定朝工房の積極的な古典学習および古像再現のありかたをよく物語る。よく似た作品が定朝工房作の浄瑠璃寺地蔵菩薩立像であるのは興味深く、定朝作の伝承をもつ壬生寺地蔵菩薩半跏像からの系譜上に置かれることも重要である。作風のうえでも、腹前の衣文処理における帯状表現とやや鎬を立てる皺の形、衣裾に近づくにつれて徐々に丸みを加味する処理法などがほぼ共通する。
 だが富貴寺地蔵菩薩立像には腹帯がなく、その点でも古式である。浄瑠璃寺本堂地蔵菩薩立像と同じ図様を本様として通常形にアレンジされたもののようであるが、それでも平安京の同時期の地蔵彫像とは異なる情感や雰囲気に包まれる。それらこそは大和独特の、天平時代以来より連綿として息づく「空気」であろうが、それを理解し体得して藤原時代当時の感性にて再現せしめた作技には驚かされる。この領域に達し得る仏師の一群は本邦に定朝工房のみであり、その情熱的な活動は興福寺復興造仏事業を契機として大和にも雅やかな華を色とりどりに咲かせたであろう。

 その花びらの僅かな数枚が、大和各地にいまも残り香をただよわせる。富貴寺地蔵菩薩立像とは、そういう存在である。大和の藤原彫刻史の骨格を形成するうえで欠かせない作品であり、釈迦如来坐像とあわせて多くの情報、視点を我々に示してくれる。
 像の由緒や歴史は不明だが、創建伝承にある道詮律師の活動時期が日本の地蔵信仰の黎明期に重なるのは単なる偶然ではない。平安初期の大和における地蔵信仰への追究は、学究の徒であった道詮ならば一度は実践した筈であり、富貴寺における地蔵菩薩立像のルーツはそのあたりに想定出来るかもしれない。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、富貴寺総代吉田様の御許可を頂いた。)

大和路のみほとけたち 6  富貴寺釈迦如来坐像 下

2011年10月14日 | みほとけ

 富貴寺の釈迦如来坐像は、一般的には「定朝様式」にのっとった作品と理解される。それは間違いではないが、定朝様式の中心たる定朝仏とはどのような関係にあるかが明確におさえられているとは言い難い。

 大和に限らず、全国各地の藤原彫刻は姿形がよく似ていて、一見しただけでは同じように見えてしまうため、便宜的に「定朝様式」の用語でくくって済ませてしまう傾向がある。定朝様式というのは具体的には定朝の作品である定朝仏の作風を標識とするが、現在確認されている定朝の作品は宇治平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像のみであるため、その造形表現を「定朝様式」と理解するしか方法が無い。端的に言えば、宇治平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像に似ているか否かで藤原彫刻遺品の評価が左右される状態であり、それに依拠しただけの「定朝様式」の用語はいかにも頼りない。

 定朝の作風は、時期とともに発展し変化を遂げていた筈なので、晩年期の作品である宇治平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像の表現が「定朝様式」の全てではなく、それ以前の若年期や壮年期の作風も視野に入れての理解が必要となる。いったい定朝の若年期や壮年期の仏像は、どのような姿形であったのか。

 試みに富貴寺の釈迦如来坐像を宇治平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像と比較すると、共通点よりも相違点の方が多い。頭部が丸く、顔面の面積に比して目鼻のつくりが小さい。見開きのある眼は短く、眉も小さな円弧にまとめられる。首はやや短く、肩は丸く落とされるが両脇は締められて緊張感がただよう。上半身が長く両膝部が薄い。とくに腹前の衣文表現は重要であり、帯と帯の間に鎬のある稜線を通す古式を示すうえ、帯部分を丸く浚って独特の立体感を表わす。

 以上の諸点は、10世紀後半より10世紀末期にかけての仏像に多くみられるもので、時期的には定朝の父である康尚の活躍期に相当する。いわゆる康尚風の表現が釈迦如来坐像のメインであるが、これらを整えたり改善しながら優美さの感覚を生み出そうとする意識があり、康尚時代よりは定朝時代に近づいた手法が試みられている。要するにこれらは定朝の若年期の作風ともみなされるものであり、富貴寺釈迦如来坐像の位置がある程度定められよう。  
 定朝の作品は、宇治平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像だけではなく、他にも相当数が現存していると推定される。定朝作を裏付ける史料や根拠が無いだけで、定朝仏でありながらも違った評価を下されて無名に甘んじている優品が日本の各地に少なくないであろう。平安京を中心に多くの造仏事績を残す定朝の、真の作品がたった一躯しか確認されていない現状は、どう考えても不自然である。

 そして大和国は、定朝が活躍した数少ない地域の一つであり、彼が関係した興福寺復興造仏を中心軸としての作品の広がりや影響があったことが想定されるだけに、奈良各地の藤原彫刻遺品のなかには定朝仏が幾つか含まれている可能性が非常に高い。定朝仏そのものでなくとも、定朝一門仏師の作品や定朝仏に影響を受けた筋の良い作品が多く知られる。定朝と定朝仏を追いかける身にとっては、夢のある地域と言っていい。

 ちなみに定朝が活動したことが明らかな地域は、平安京の他には三丹(丹波、丹後、但馬)と大和のみで、あとは近江と美濃と若狭に一門の足跡が知られるぐらいである。私の定朝研究は三丹と若狭から始まり、平安京の内外を経て美濃から近江にまわるといった流れで最終的に大和に入った形なので、定朝の推定活動範囲における藤原彫刻遺品群の情報がだいたい出揃った感じである。この蓄積をふまえて大和の藤原彫刻に向き合っている状態であるので、以前には分からなかった多くの事柄がいまはなんとか理解出来るようになっている。富貴寺への拝観をもし以前にやっていたら、おそらく何も理解出来なかったに違いない。まさに今回は絶好のタイミングであったと言える。

 富貴寺の釈迦如来坐像は定朝仏ではないが、定朝一門仏師の作品であることは間違いない。作者は定朝の若年期の作風を熟知しており、これをベースにして像を仕上げたものらしい。10世紀後半期の造形を11世紀前半の新しい感覚で再現した技術と完成度の高さは見事であり、何よりも見開きのある眼が定朝仏との密接な関係を示す。決して奈良の地方のありふれた遺品ではなく、永承三年(1048)に供養を迎えた興福寺復興造仏事業の前後に大和各地の主要寺院向けに造られた定朝工房の作品の一つであろう。それだけに作者名が知られないのは残念である。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、富貴寺総代吉田様の御許可を頂いた。)