ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 28  泉徳寺薬師如来坐像 下

2013年03月15日 | みほとけ

 泉徳寺の薬師如来坐像は、元は境内上の丘上の薬師堂の本尊であったといい、その場所は今木寺の創建以来の寺地とされる。いま今木権現堂の境内地となっている場所より山道を少し登れば、今も朽ちかけた薬師堂が残る。
 この薬師堂と対応する今木権現堂の位置が吉野山山上の寺堂配置に共通するのは興味深い。金峯山寺の峯堂(現存せず)に薬師如来を配し、蔵王堂に蔵王権現を祀る形式は、大峯修験における拠点寺院の基本形であったとみられるが、その当初期の仏像は失われて中世以降の再興像に代わる。泉徳寺薬師如来坐像が寺伝通りの今木寺本尊像であるならば、藤原時代大峯修験系拠点寺院の主尊級遺品としては最古の例となるが、造立当初の安置場所が不明であるために確定し難い。

 今木寺については「元亨釈書」に寛弘年間(1004~1012)の精舎建立の伝が記されるが、文中に長谷寺との関連が示されるのは示唆的である。今木寺と長谷寺はともに中世を通じて大峯山入峯の第一行場であったため、修験道における寺格も同等であったらしい。さらに精舎建立の時期が寛弘四年(1007)の藤原道長の金峯山参詣を契機とした吉野地域拠点寺院群の成立時期にほぼ重なるため、「元亨釈書」の今木寺伝はある程度の史実を反映しているとみて良い。薬師如来坐像が今木寺の根本本尊像であったならば、その造立時期の上限は寛弘年間に置かれることになる。

 しかし、残念ながら薬師如来坐像の作風や造形表現はそれほど古くはない。造仏の洗練度は天喜元年(1053)の平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像に近づいている。そして全体的な造形感覚が近似する浄瑠璃寺九体阿弥陀如来坐像四号像を永承二年(1047)の造立とする見解をふまえれば、泉徳寺の薬師如来坐像もほぼ同時期の作と考えられる。定朝仏の作風展開のなかに泉徳寺薬師如来坐像を試みに位置づけた場合、はたして永承という時期はふさわしいであろうか。

 ここで注目したいのが上掲の頭部拡大写真に示した眼の造形である。定朝仏の中心となる個性が眼であることは平等院鳳凰堂像に明らかであるうえ、定朝作伝承を有する優品の幾つかは眼の造形に共通性を有している。泉徳寺薬師如来坐像も同様であるが、この眼は十一世紀前半期の定朝系作品の典型例である妙楽寺地蔵菩薩半跏像の眼の系譜上にある。彼の両眼が中央に向かって強く弧をひくのに対し、泉徳寺像の眼は少し下げ気味にして弧線をゆるやかに整えて緊張感を解く。作風の基本を剛から柔に移行させる過程が観てとれるが、この延長上に円照寺大日如来坐像や蓮厳院阿弥陀如来坐像の眼があり、円隆寺阿弥陀如来坐像にて明朗な視線をみせて浄瑠璃寺九体阿弥陀如来坐像中尊像から平等院鳳凰堂像へと繋がってゆくのであるから、おおよその位置は見当がつく。遅くても十一世紀第二四半期であろう。
 この仮定において永承年間(1046~1052)は泉徳寺薬師如来坐像の造立時期の目安になり得る。「元亨釈書」の記載に従えば、今木寺(精舎)建立当初の像である可能性も高い。

 面白いことに、その永承年間に定朝は大和国にて造仏を行なっていた事実が知られる。永承元年に焼亡した興福寺の復興事業であり、摂関家の全面支援のもとで多くの仏像の新造及び修補を行い、その賞によって位を一階進めて法眼となった。この興福寺復興造仏事業に関連して大和国の興福寺系子院群の造仏整備が図られたようで、奈良県に現存する定朝様式の優品の大部分はこれによって成立したと目される。定朝作と伝わる来迎寺阿弥陀如来坐像の伝記に本寺(興福寺)祈願とされることがよい例である。
 吉野地域に伝わる藤原彫刻遺品の多くはその延長上において大峯修験系寺院群の整備と併せて造立されたとみるのが良い。泉徳寺薬師如来坐像は、そのなかで定朝が手がけた大峯修験系初期の作品になるのではないかと思われる。

 永承年間の興福寺復興造仏を通じて、定朝は造形表現の幅を大きく広げたようである。眼の造形を追ってゆくとき、平等院鳳凰堂像にて完成される明朗かつ快活な眼への指向が泉徳寺像以降の諸像に次第に表れるからである。その意味において泉徳寺薬師如来坐像の眼の造形は、定朝仏における表現形態の大きな転換点にあたる。それは間違いなく藤原彫刻史の方向を決定づけた筈である。
 若き日の定朝が、その時に何かを見つけて造仏への意欲を発展させたのであれば、その情熱を木にたたきつけて彫り表わしたに違いない。その形の一つが泉徳寺薬師如来坐像であるならば、彼の思い出は今なお鮮やかに生きている。私にとっては至福以外の何物でもない。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、泉徳寺様の御許可を頂いた。)

大和路のみほとけたち 27  泉徳寺薬師如来坐像 上

2013年03月07日 | みほとけ

 泉徳寺の薬師如来坐像を初めて知ったのは平成17年、最近のことであった。大淀町の刊行になる文化財調査報告書か図録かを開いて、なにげなく一見した写真が非常に印象的であった。その場で写真をよく見直し、間違いなく吉野地域に伝存する藤原彫刻遺品のなかでは最優秀の出来であると感じた。居ても立ってもいられなくなり、次の休日にはやる気持ちを抑えつつ現地へ急いだ。
 御住持に挨拶して本堂内陣へ導かれ、内陣に淡く浮かび上がる優美かつ端整な像容を仰いだ時、なにか温かい心で包まれたような安らぎを感じた。これこそ、長い間探し続けていた像かもしれない、と。

 この薬師如来坐像は、典型的な定朝様式を示すだけでなく、造形表現の質において定朝様式の通念よりも高度な意識を内包する。定朝仏に倣う表現、という程度ではなく、定朝仏の根本精神をそのまま表わす形である。この作域に達し得る仏師は定朝一門でも極めて限られる。定朝その人か、そうでなければ嫡男の覚助、弟子筆頭の長勢ぐらいしか浮かばない。そのうえで薬師如来坐像の相貌表現に着目すると、まず眼の形において長勢の広隆寺日光月光両菩薩立像に近い。さらに全体的な造形感覚が長勢作の可能性が指摘される浄瑠璃寺九体阿弥陀如来坐像四号像に極めてよく似ている。

 このことから、長勢風の表現が泉徳寺薬師如来坐像の相貌の基調であることが最初に理解される。が、あくまでも相貌のみであって胴体や膝部には長勢風の柔らかさが全く表れない。頭部の輪郭は相貌とはややかけはなれて硬さを残す。かすかに両肩に力を入れて両腕をかすかに上げて印を結ぶ点も見逃せない。このわずかな力感を生むために腹式呼吸がなされたかの如く、腹部が丸くやわらかく盛り上がる。
 この表現は人間の動きに対する綿密な観察なしには成立しない。これも一種の厳格なる写実意識であり、単なる前例の踏襲や模倣では習得し得ない部分である。作者の個性的な感覚のみが具体化し得るかたちであり、定朝仏の根本精神を踏襲しての造形とはやや異なる。したがって長勢作の可能性は薄れる。

 再度、相貌表現を見直してみると、この長勢風の感覚は長勢のそれというより、その原形である師定朝の造形そのものとみたほうが適当なようである。いま長勢風といわれている表現は、多くが定朝の作風の踏襲であるとみても矛盾しないので、泉徳寺薬師如来坐像の相貌表現は、定朝の手になるものとみて良い。よく似た作例に定朝作の可能性が説かれる妙楽寺地蔵菩薩半跏像が挙げられるのは偶然ではなく、さらに浄瑠璃寺九体阿弥陀如来坐像四号像の作風が同中尊阿弥陀如来坐像に近似することとも矛盾しない。
 それで、この表現が定朝仏の完成形たる平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像の形式美の手前に位置することが理解されるが、時期的にはかなりの間があるとみたほうが良さそうである。

 これらをふまえると、両肩に力を入れて両腕をかすかに上げて印を結ぶ姿勢が定朝活躍期の前半期の作例に多く見られる点が重要となる。続いて膝部の自在で流麗な衣襞表現が力強さと柔軟さとを併せもった微妙なリズムを示すのが興味深い。両肩や両膝部分に向かって消えていく衣文の静かな動きと連動して、静かに座しているはずの肢体に穏やかな動きを加味している。
 この絶妙の造形に焦点を狙い定めての的確な彫技というものは、日本の著名な仏師の多くにすらなかなか見られない。藤原彫刻の根本を決定づけた造形上の強力な一線がそこにある。これを初めて編み出せる仏師とは、定朝をおいて他には無いであろう。

 おそらく、泉徳寺の薬師如来坐像は、定朝による独自の造形表現が藤原時代の精神に次第に合致し始めて様式への発展過程をとりつつあった段階の作であろうと推定される。定朝その人でなければ、誰がこの定朝様式への発展過程に立ち得るであろうか。
 これこそ長い間探し続けていた像かもしれない、との想いは再拝の機会を得てより強くなった。残る問題は、この像の造立時期をどこまで絞り込んで推定出来るかであった。 (続く)

(写真の撮影および掲載にあたっては、泉徳寺様の御許可を頂いた。)