ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 20  当麻寺講堂阿弥陀如来坐像

2012年03月20日 | みほとけ
  
 当麻寺講堂に本尊として阿弥陀如来坐像を安置する状況は、寺伝では創建時以来とつたえる。現在の像を、治承兵乱による講堂全焼に際して旧本尊像が喪失したあとをうけての再興像と見なすのは一見自然なようであって、難しい問題をはらむ。白鳳時代の当麻寺創建において阿弥陀如来が本尊と定められたのであれば、日本における阿弥陀造像の初期の例に数えられるからである。

 一般に阿弥陀信仰とは天平時代より盛行をみたと解釈され、平城京の法相宗系寺院における浄土変群像表現の展開のなかで阿弥陀浄土変の具体化が進められたと推定される。多くの寺院では講堂本尊を阿弥陀としたが現存遺品は無く、その再興像すら伝わらない。当麻寺講堂の本尊像が旧軌を伝えるかどうかは定め難いが、白鳳創建時に阿弥陀造像があったとすれば、金堂本尊の弥勒造像とともに古代当麻氏の先駆的な仏教導入の形をうかがう材料ともなり得る。

 しかしながら現本尊像は鎌倉時代初期、十二世紀末を上限とする作風を示して現講堂建築上棟の乾元二年(1303)より遡る時期の造立と認められる。その原像が古代以来の安置像であったかは不明であるが、当麻寺が浄土曼荼羅図を中心とする浄土信仰の拠点として藤原時代より栄えた歴史をふまえれば、その信仰発展の流れのなかで新規に造られた阿弥陀像であったとみるほうが適当である。再興像ではあるが、原像は白鳳創建以来の像ではなく、藤原時代の像であった可能性が高い。

 古代寺院の再建事業による再興造仏とは、とくに伝統的保守性の強い大和においては第一に旧像の再現を原則としており、藤原、鎌倉期の像であっても必ずどこかに天平時代以来の古制の踏襲や模倣が見られる。興福寺の再興造仏遺品がよくそれを示すが、当麻寺講堂阿弥陀如来坐像にはその傾向が認められない。むしろ藤原仏の基本形をふまえて丹念に新様式を織り込む、という再興造仏にはあり得ない造形方針が貫かれる。

 さらに講堂の内部空間が外陣正背面のみ土間として他は低い拭板敷(ぬくいたじき)であることに注目すべきである。阿弥陀如来像を中央に据えての観相念仏の儀式に相応しく、その構成はあまりにも藤原時代的かつ中世的である。遊舞読踊までが実施されたかは疑問だが、それすら可能となる板敷の内陣である。その本尊とされた旧像は藤原仏であった可能性が高い。

 現在の像は鎌倉時代の要素を各所に示すが、基本は定朝様式を崩していない。原像が典型的な定朝様式作品であったことを想像させるが、興味深いことに現像の造形表現の基本はその忠実な再興を目指してはいない。むしろ定朝様式から離れようとする意識が秘められる。つり上がった目、衣文襞の間に挟み込まれた小波、やや鋭さを加味した彫り口などは当時の院派系統の作風に通じる。同時期の慶派の作風とは似ているようで異なる。この点が重要である。

 藤原彫刻の終焉には二通りの解釈がある。一つは慶派のように天平彫刻に範を求めて一気に新様式へ突き進むという形、もう一つは定朝様式を遵守しつつ細部の造形や表現の手法を変換して少しずつ脱却を図るという形である。当麻寺講堂阿弥陀如来坐像は、後者の典型的な具体例である。
 奈良県内にも同時期の如来形坐像は多いが、定朝様式を崩さないという基本方針が明確であったのはこの当麻寺講堂像ぐらいである。鎌倉時代の造立でありながら藤原仏に見えてしまうのも無理はなく、十二世紀の末期に当麻寺講堂の本尊像としてこのような像が求められた事実にこそ、当麻寺の本質的な「宗教風土」を読み取るべきであろう。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、当麻寺様の御許可を頂いた。)

大和路のみほとけたち 19  当麻寺金堂弥勒仏坐像

2012年03月14日 | みほとけ
  
 当麻寺金堂本尊の弥勒仏坐像は、従来より現存最古の塑造遺品であること、古代朝鮮半島新羅の仏像の形式に近いこと、の二点において評価される。これらは上代彫刻史の範疇での評価であるが、藤原彫刻史の立場からはさらなる重要な評価を追加し得る。この三番目の評価こそが、弥勒仏坐像の語り尽くせぬ魅力への鍵となるかもしれない。

 藤原彫刻史における仏像造形の変遷は、基本的には白鳳彫刻から天平彫刻への流れを再学習することで大体は理解される。造仏活動における中心仏師の作風と表現の特徴をまとめてみると、康尚活躍期のそれは白鳳彫刻に近く、定朝活躍期においては天平彫刻を規範としたかのような造形が随所に目立つ。
 これを康尚、定朝一門による古像再興を軸とした古典学習の成果、と言ってしまうのは容易いが、それだけでは藤原彫刻の魂ともいうべき独自の造形精神は構築されない。もっと根本的なところで藤原彫刻の表現世界を発展せしめた要素はいったい何であったかが省みられるべきである。

 改めて弥勒仏坐像の造形を確認してみよう。治承兵乱による罹災損傷と修復とを経てはいるが、仏像の大体の輪郭と骨格はほぼ保たれている。ほぼ球体をなす頭部、短い首、ブロック状と例えられた身体各部の繋がり、がっしりとした体躯、威勢よく直立する上半身、脇を締めて胴体に密着する両腕、膝高の両脚部などが見てとれるが、これらは殆ど康尚活躍期の如来形坐像の表現に通じる。康尚工房が手がけた古像再興の大半が白鳳彫刻であったことが容易に看取されるが、それ以上に藤原期の皇族および藤原氏一門をはじめとする人々の「好み」が大きかったと言わねばならない。

 藤原時代の人々が好んだ造仏表現の一つに白鳳彫刻の特色である「少年相」「少女相」があったことは現存遺品からも多く知られるが、それ以上に憧憬と信仰を集めて霊験の誉れに輝いたのが大安寺金堂釈迦如来坐像であったことは重要であろう。この像の造立は諸伝によって天智朝とも天武朝とも推定されるが、白鳳時代のうちに含まれることは確実である。
 かつては薬師寺金堂薬師如来坐像をしのぐ日本最高の美仏とうたわれた大安寺金堂釈迦如来坐像がどのような姿であったのかは想像するだに困難であるが、制作時期からみれば山田寺仏頭や当麻寺弥勒仏坐像と近い関係にあることは間違いない。この白鳳彫刻の最高傑作とみられる像が、藤原期の人々に最も親しまれたことは大きな意味を持つ。藤原彫刻に限らず、全ての日本仏像彫刻の造形基調の出発点ともなるのが「願主の好み」であることを考えると、かの高名な大安寺金堂釈迦如来坐像への評価と信仰ぶりが藤原彫刻世界にかなりの影響を与えていることが推測されるからである。

 この推定は、当麻寺弥勒仏坐像の特徴がそのまま康尚活躍期仏像のそれに重なることによってある程度裏付けられる。康尚に続く定朝の造形表現が感覚的には天平彫刻に近いのも偶然ではない。明らかに藤原彫刻史の開拓者たちは白鳳や天平の仏像世界に新たな可能性を見つけ出し、平安京に求められるべき斬新な仏像の実現への糧とした。なかでも重厚なる体躯表現に雄偉さを強調せしめた康尚一門の制作感覚は、同時期の遺品を通じて理解されるものの、その原点であり起点ともなった仏像の古例をいま求めれば、当麻寺弥勒仏坐像以外にはない。言い換えれば、この像以外に白鳳時代の確実な丈六級如来形像の完存遺品は見当たらない。
 かつての大安寺金堂釈迦如来坐像に近い位置にある当麻寺弥勒仏坐像は、藤原期の「好み」と康尚仏との関連性を考えるうえで大きな存在感を示す。いまの感覚では「不整」とも例えられる康尚期仏像の造形が、当時の人々には盛んに支持されていたことを思えば、当麻寺弥勒仏坐像の不恰好な造形特徴もまた大いに参考にされた時期があった筈である。

 古代当麻氏が新羅との関係を通じて導入したと推定される新しい作風の弥勒仏坐像の造形が、藤原期においても再び「新しい」と支持されたからこそ、これに学んだ康尚一門は藤原彫刻史の黎明期の混沌のなかに一本の確かな作風を打ち立てることが出来たのである。この時点で定朝一門の活躍も保証されたようなものであるから、やはり白鳳彫刻の影響力というのは侮りがたい。藤原彫刻の原動力ともなった白鳳彫刻の本質的魅力とは、まず当麻寺弥勒仏坐像のような像において顧みられるべきであろう。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、当麻寺様の御許可を頂いた。)