当麻寺講堂に本尊として阿弥陀如来坐像を安置する状況は、寺伝では創建時以来とつたえる。現在の像を、治承兵乱による講堂全焼に際して旧本尊像が喪失したあとをうけての再興像と見なすのは一見自然なようであって、難しい問題をはらむ。白鳳時代の当麻寺創建において阿弥陀如来が本尊と定められたのであれば、日本における阿弥陀造像の初期の例に数えられるからである。
一般に阿弥陀信仰とは天平時代より盛行をみたと解釈され、平城京の法相宗系寺院における浄土変群像表現の展開のなかで阿弥陀浄土変の具体化が進められたと推定される。多くの寺院では講堂本尊を阿弥陀としたが現存遺品は無く、その再興像すら伝わらない。当麻寺講堂の本尊像が旧軌を伝えるかどうかは定め難いが、白鳳創建時に阿弥陀造像があったとすれば、金堂本尊の弥勒造像とともに古代当麻氏の先駆的な仏教導入の形をうかがう材料ともなり得る。
しかしながら現本尊像は鎌倉時代初期、十二世紀末を上限とする作風を示して現講堂建築上棟の乾元二年(1303)より遡る時期の造立と認められる。その原像が古代以来の安置像であったかは不明であるが、当麻寺が浄土曼荼羅図を中心とする浄土信仰の拠点として藤原時代より栄えた歴史をふまえれば、その信仰発展の流れのなかで新規に造られた阿弥陀像であったとみるほうが適当である。再興像ではあるが、原像は白鳳創建以来の像ではなく、藤原時代の像であった可能性が高い。
古代寺院の再建事業による再興造仏とは、とくに伝統的保守性の強い大和においては第一に旧像の再現を原則としており、藤原、鎌倉期の像であっても必ずどこかに天平時代以来の古制の踏襲や模倣が見られる。興福寺の再興造仏遺品がよくそれを示すが、当麻寺講堂阿弥陀如来坐像にはその傾向が認められない。むしろ藤原仏の基本形をふまえて丹念に新様式を織り込む、という再興造仏にはあり得ない造形方針が貫かれる。
さらに講堂の内部空間が外陣正背面のみ土間として他は低い拭板敷(ぬくいたじき)であることに注目すべきである。阿弥陀如来像を中央に据えての観相念仏の儀式に相応しく、その構成はあまりにも藤原時代的かつ中世的である。遊舞読踊までが実施されたかは疑問だが、それすら可能となる板敷の内陣である。その本尊とされた旧像は藤原仏であった可能性が高い。
現在の像は鎌倉時代の要素を各所に示すが、基本は定朝様式を崩していない。原像が典型的な定朝様式作品であったことを想像させるが、興味深いことに現像の造形表現の基本はその忠実な再興を目指してはいない。むしろ定朝様式から離れようとする意識が秘められる。つり上がった目、衣文襞の間に挟み込まれた小波、やや鋭さを加味した彫り口などは当時の院派系統の作風に通じる。同時期の慶派の作風とは似ているようで異なる。この点が重要である。
藤原彫刻の終焉には二通りの解釈がある。一つは慶派のように天平彫刻に範を求めて一気に新様式へ突き進むという形、もう一つは定朝様式を遵守しつつ細部の造形や表現の手法を変換して少しずつ脱却を図るという形である。当麻寺講堂阿弥陀如来坐像は、後者の典型的な具体例である。
奈良県内にも同時期の如来形坐像は多いが、定朝様式を崩さないという基本方針が明確であったのはこの当麻寺講堂像ぐらいである。鎌倉時代の造立でありながら藤原仏に見えてしまうのも無理はなく、十二世紀の末期に当麻寺講堂の本尊像としてこのような像が求められた事実にこそ、当麻寺の本質的な「宗教風土」を読み取るべきであろう。 (了)
(写真の撮影および掲載にあたっては、当麻寺様の御許可を頂いた。)