ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 24  阿弥陀寺阿弥陀如来坐像 下

2012年06月23日 | みほとけ
         
 阿弥陀寺の阿弥陀如来坐像は、頭部および表情も独特である。頭部の輪郭は丸型ではなく三角形に近いもので、幅は螺髪部で大きく、顎に向かうにつれて徐々に小さくなる形である。基本的にはブロック状の角ばった頭部であるので、側面から見ても曲線の張りが少なく、頬の膨らみもないままに太い顎でしめくくられる。歪みのない球体が基本原則とされた院政期には見られない頭部形状であり、側面からは後頭部の大きな盛り上がりが認められる。舞鶴円隆寺阿弥陀如来坐像あたりを軸とする前後の定朝活躍期系統作品にみられる特徴である。

 この頭部造形のために顔面も起伏が少なく、そのうえに目鼻口を小さく配置する。大きな螺髪や広い額と対照的なほどの小さな目鼻であるが、この表現が像に深い静けさと深みを与える効果をみせる。山林浄処のなかに在って修行僧の厳しい祈りと法悦の精神を受け止めるべき仏像には、この静けさと深みがふさわしい。目鼻を小さくつくるのは康尚活躍期の作品に多い特徴であるが、作風的には定朝活躍期に入っているので、この目鼻の配置には新しい考え方が込められているとみるべきである。

 加えて下弦をえがく眼の造形が注目される。一見して眠るかのような細さであるが、しかし確実に開いて強く厳しい視線を放つ。こうした表現は康尚活躍期のそれとは異なり、定朝活躍期以降にも類例をみない。類似の作品が豊岡松禅寺の定朝作伝承を有する薬師、阿弥陀如来像であるので、このような眼の表現は定朝の若年期の一作風を反映しているとみていい。院政期に似たような細目の像が多くなってくるが、そちらは貴族趣味に合わせた夢幻の造形であって、強く厳しい視線とは無縁である。

 思えば龍門寺の仏像とは、壮麗なる伽藍中枢の仏像とは違うのであって、龍門寺ならばでの環境にもとづく仏教観および造仏観から導き出された造形表現を要求された筈である。阿弥陀寺像の、他の藤原彫刻遺品とは異なる独特の雰囲気はそうした思想背景によって成ったものと考えたい。像の全体的な作風は定朝様式完成の直前段階にあるが、雰囲気のほうはまた違った捉え方が必要であろう。

 この場合、「エ心(恵心)之御作」の銘文の示すところはおそらく「源信周辺の仏師の作であること」と推定される。もちろん定朝も作者候補に含まれることは当然であるが、定朝仏とは別趣の「感覚」と「雰囲気」とを重くみるならば、定朝以外の同時期仏師の関与を想定するのが適当である。
 その仏師は定朝一門系列に含まれ、定朝様式が完成に近づくなかで独自の方向性を持ちえた優秀な人物でなければならない。阿弥陀寺像の造形特徴を見る限り、彼がその彫技において康尚風と定朝風の両方を体験したうえで別の作風を具現することに成功していることがうかがえるからである。

 阿弥陀寺像は、津風呂光季が拝んだとされる龍門寺の恵心作阿弥陀仏に限りなく近い像であるが、同一の像と判断するには伝承以外の確証が必要となる。結局は可能性の問題に尽きてしまうが、現存する旧龍門庄域の仏像のなかで最大の法量を有し、唯一の恵心作伝承をともなう像であってみれば、津風呂光季が里に移安した龍門寺の恵心作阿弥陀仏との接点をどうしても無視出来ない。

 治安三年(1023)の藤原道長の参拝に関して「礼佛之後」と記述されたその仏像が龍門寺の恵心作阿弥陀仏にあたるのかは定かではないが、翌日に道長をして「挑五千燈於佛台」と成さしめたその姿はいかなるものであっただろうか。道長がその姿に感銘を受けたことは間違いなく、その史実はあまりにも重い。
 龍門寺の恵心作阿弥陀仏が現在の阿弥陀寺像に一致するとの仮説に立てば、十一世紀前半期の定朝活躍期において、定朝仏とは異なる理想形としての仏像の型が大和国において模索されていた状況が具体的に理解出来る。その表現が定朝の造仏思想のなかにも有り得たのか、という興味深い問題が浮上する。定朝仏を考えるうえでもこういったテーマは意義があるので、阿弥陀寺阿弥陀如来坐像の重要性は、たとえ津風呂氏の拝した龍門寺の恵心作阿弥陀仏に一致しなくとも不変である。

 定朝の大和国における事蹟としては興福寺復興造仏が知られるが、それ以上に大和国一円の古刹の仏像との関わりが少なからずあったらしい。康尚一門による古仏の修補および再興の流れは大和国にもみられ、それらの事業を通して修行し腕と思想の鍛錬昇華を目指した若き定朝がそのなかに居た筈である。
 その作風が模索される段階にていかなる仏像作品が造られたかを見極めることは難しいが、恵心作伝承のままに十一世紀前半期に推定される阿弥陀寺阿弥陀如来坐像の「感覚」と「雰囲気」は、ある程度の示唆を与えてくれるように思う。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、阿弥陀寺様の御許可を頂いた。)

大和路のみほとけたち 23  阿弥陀寺阿弥陀如来坐像 上

2012年06月17日 | みほとけ
         
 奈良県下には恵心僧都の御作と伝える藤原彫刻遺品がいくつか見られる。数のうえでは定朝作伝承を有する遺品よりも多いが、それは恵心僧都源信が大和国葛下郡の出であることと無関係ではないであろう。地元出身の天台碩学の名は「往生要集」の流布とともに周知されており、仏像の作者名に挙げられること自体にも何らかの意味が読みとられるべきである。

 源信の生年は天慶五年(942年)、没年は寛仁元年(1017)である。その七十六年間に、熱心な阿弥陀信者としても知られた彼が関与した造仏は数多く、その由緒が伝承の形で記憶されていても不思議ではない。とくに大和国では鮮やかなほどに語り伝えられた部分があったと思われる。その記憶が年月の流れに褪せぬまま伝承に転じたならば、いま知られる恵心作伝承のなかに本物が含まれる可能性は常にある。津風呂光季ゆかりの龍門寺の恵心作阿弥陀仏の場合はどうであろうか。

 いま阿弥陀寺本堂内陣の高い仏壇のうえに坐す本尊阿弥陀如来坐像は、一見すれば定朝様を襲う模倣像の一種にみえる。しかしながら定朝仏に示される諸特徴があまり見られず、むしろ定朝様とは異なる作風が主軸になっている。これが定朝様式の延長上に置かれることはまず有り得ない。その逆である。

 まず全体的に方形的な輪郭がみてとれる。大きな頭部が四角い胴体に乗っかっており、ブロック状にも見える頭体を薄く平らな膝部が支えている観がある。康尚活躍期の作風に近い。内部構造を知り得ないので判断は出来ないが、像横の矧ぎ目が直線的ではなく部分的にはかすかに曲がっているので、一木割矧造と推される。

 次に、膝部の衣文配置が左右で非対称である。膝頭あたりでは無文となるが周囲よりやわらかく浮き出た衣襞が鋭い鎬をみせていき、自在に伸びては消える。像の右膝部から伸ばされた三条の衣文はとくに長く、右足の長さを異様なほどに感じさせて興味深い。右肩の衣文も並行せず、左肘にかかる衣文には自在に間隔と段差をもたせてある。両腕が脇を開けるが、その空間は閉じられて腹前からの衣文もそのあたりで溶けるように消えていく。いずれも定朝様式の踏襲によって成立する表現ではない。

 こうした特徴はすべて定朝様式完成の直前段階にあるもので、藤原彫刻史のうえでも独特の造形表現として位置づけられ、定朝らによって模索され試みられた様々な仏像造形の流れを示唆する。康尚活躍期の作風はすでに消えて新たな作風でつつまれるが、これを定朝活躍期の造形表現のひとつと見なしても矛盾はなく、制作時期も十一世紀前半におかれるとみていい。像底銘文の「エ心之御作」が次第に現実味を帯びてくる。

 恵心作伝承の「恵心作」には三通りの意味がある。源信の活躍期間であること、源信の関与した造仏に関連すること、源信周辺の仏師の作であること、である。源信の造仏に関与した仏師が康尚および定朝であることは周知の通りで、定朝活躍期の造形表現を示す阿弥陀寺像の伝承の背景にはやはり定朝の存在が意識される。おまけに源信は、比叡山における定朝の最初の師であったことが指摘されるので、恵心作伝承の一部はどこかで定朝仏とつながる可能性が否定出来ない。

 さらに重要なのは阿弥陀寺像のまとう「感覚」である。典型的な定朝様作品に見られる優美で典雅な気分とは別趣のものであり、その一種古風な方形的な輪郭とあいまって、静かな厳しさをともなった緊迫感をただよわせる。それを夢幻的な気分でさりげなく包み込む。他に類例をあまり思いつかない独特の作風であり、類似の作品を俄かには思い出せない。

 とにかく解釈の難しい像であるが、奈良県下でこの種の仏像に出会う機会は稀である。独自の歴史的背景のもとに造られた像であることは間違いなく、その原所在を龍門寺とする仮定は、制作時期の面からも容認可能である。つまり、津風呂光季が拝んだとされる龍門寺の恵心作阿弥陀仏に限りなく近い像であると言える。 (続く)

(写真の撮影および掲載にあたっては、阿弥陀寺様の御許可を頂いた。)

阿弥陀寺阿弥陀如来坐像 序

2012年06月11日 | みほとけ
     
 吉野郡吉野町の龍門寺は、いま龍門岳の南麓に遺跡を残して既に昭和四年に遺跡の顕彰及び整備がなされた。そのためか奈良県下に数多い古代山岳寺院遺跡のなかでも知名度が高く、往時の参道が現在では龍門岳登山路となって一般の往来が遺跡にも及ぶ。
 いま俗に義淵開創の五龍寺の一に数えられるが、実際の草創は義淵以前に遡る可能性が指摘される。中世より興福寺の支配下にあり、周知のように「興福寺別当次第」の寛正二年(1461)「三ヶ度長者宣」による龍門寺別当の制が定められ、興福寺別当がこれを兼務する旨に龍門寺の格の高さがうかがえる。
 既に清和、宇多上皇の滞留を記録し、治安三年(1023)に藤原道長の参拝留宿を経て龍門庄の筆頭寺院に整備されて摂関家より荘園寄進をみたことは諸文献に知られる通りである。諸堂諸施設はかなりの充実をみたと思われ、安置の仏像にも優れた作品が存在したことが想像されるが、その方面の調査資料および報告類は意外にも乏しく、わずかに昭和二十八年に小林剛氏、吉川政治氏らによる美術史の項が「奈良県綜合文化調査報告書」に収録されたに過ぎない。

 龍門寺の旧仏としては西蓮寺の藤原期阿弥陀如来立像が「塔の旧仏」と伝承されるにとどまるが、それとは別に、龍門寺の麓にある龍門郷津風呂の在地武士津風呂氏に関して興味深い伝承が存在する。要約すれば、南朝方真木定観の執事をつとめた津風呂光季は熱心な阿弥陀信者であり、龍門寺の恵心作阿弥陀仏を常に拝んで南朝の武運隆盛を祈り、寺が焼かれた後は津風呂の里房に安置してこれを守り続けた、という。

 この津風呂とは現在の吉野町津風呂にあたるが、その中心集落は昭和三十年にダム湖建設による水没が決定、全六十五戸のうち二十戸が昭和三十三年より奈良市山陵町に集団移転入植し、奈良市津風呂町として発足した経緯が知られる。そのなかに寺院も含まれており、今回紹介する阿弥陀寺がこれである。かつては龍門庄津風呂の里寺とされ、その本尊阿弥陀如来坐像は津風呂村の本尊としてあがめられた事が報告書記載の像底銘文に明らかである。銘文にはさらに「エ心之御作」とあって、津風呂光季が龍門寺の恵心作阿弥陀仏を津風呂の里房に安置した伝承が思い起こされる。津風呂の里房が、津風呂の里寺とされた阿弥陀寺の前身であるならば、その本尊阿弥陀仏とは津風呂光季ゆかりの龍門寺の恵心作阿弥陀仏にあたる可能性が浮上する。

 この可能性に興味を覚えたのは一昨年(平成十九年)の吉野大峯奥駈隊活動にて龍門寺および龍華台院の遺跡を探査し周辺の仏像に関する情報を得てからであるが、そのときは前述の「奈良県綜合文化調査報告書」しか資料がなく、現在の吉野町教育委員会に詳しい方がおられなかったため、自分であちこち探し回ることになった。資料には旧龍門郷の古社寺の仏像が紹介されていたが、とくに津風呂の阿弥陀寺の阿弥陀如来坐像の写真が気になった。「エ心(恵心)之御作」の銘文と矛盾しないような姿形や作風にみえたのである。
 そこで阿弥陀寺へ行こうと思い立ったが、寺の原所在地は津風呂ダム湖の底であり、移転先を尋ねていくとなんと近所、母校奈良大学のすぐ横であった。学生時代から学舎の東に阿弥陀寺なる寺があることは知っていて、よく前を通っていたが、吉野町津風呂から移転した寺だとは知らなかった。しかも昨年(平成二十年)は津風呂町移転入植五十周年にあたっており、奈良大学で記念誌が刊行されていた。

 この阿弥陀寺を九月十四日に訪ねた。前日の夕方にあらかじめ訪問して予約しておいたので、お庫裏さんがこころよく本堂内に導いて下さった。まず寺の歴史を聞いたが、古い記録が失われているので創建も由来も全然知らない、という答が返ってきた。地方寺院の常として古い歴史や記憶の断絶がみられ、龍門寺が室町時代に宇陀沢氏の焼討ちを受けて全滅したらしい事と絡めれば、その里寺であった阿弥陀寺の由緒もともに忘れ去られたものと考えられた。山号も最初は極楽山であったのを近世に安楽山と改めており、近世津風呂村の成立に伴う阿弥陀寺の再出発があったことがうかがえる。その際に古い記憶は整理されたのであろう。

 本尊の阿弥陀如来坐像は、平成十二年に新築成った鉄筋コンクリート造の立派な本堂に安置され、本堂の前扉がガラス戸であるために堂外からでも常時拝むことが出来る。果たして津風呂光季ゆかりの龍門寺の恵心作阿弥陀仏であるのか、と緊張を覚えつつ像を見上げた。 (続く)